芽生えた気持ちに蓋をする
「亜希じゃねえか」
「…イレイザーさん、どうも」
「どうだ、ホークスとは順調か」
「…」
亜希は汗を拭いながら、久しぶりに会う相澤に冷たい視線を投げた。
警察本部、射撃練習ができる訓練場と同じ棟には最新鋭の設備が整ったトレーニングルームがあり、警察官と一部のヒーローの使用が許可されている。
ランニングマシンで三十分程走った亜希が休憩していると、誰もいない部屋の扉が開いて相澤が顔を出した。彼は開口一番に軽口を叩く。
「捨てられてねえか?あいつモテるから、ちょっと目を離したら他の女に取られちまうぞ」
だらしなく伸びた髪を後頭部で一つに縛りつつ鼻で笑う相澤を、亜希は思わず睨んだ。この男はいつもいつも、やたらと揶揄ってくる。反応を見て楽しんでいるに違いないと思った亜希は無表情のままダンベルに手を伸ばす。
「…こんなとこ来てる暇あるんですか?お忙しいと思いますけど」
亜希の言葉に相澤はストレッチをしながら「ニュース見たのか」と面倒くさそうに答えた。
―――No.1ヒーローのオールマイトが、雄英高校の教師に就任。
先日から世間を騒がしているトップニュースを、亜希ももちろん知っていた。テレビでもずっと流れているし高校側から警察に見守りの協力要請も入っている。今のところ度を越したマスコミは現れていないが、亜希が本日昼頃に塚内と共に高校周辺を見回りに行った時、すでに多くの取材陣が門を囲んでいた。
「クソ面倒だよ全く…ただでさえクラス担任で忙しいのに」
「…ならトレーニングなんてしてないで、さっさと帰って寝れば良いじゃないですか」
「警察から要請書に不備があるってんで呼び出されてな。ついでに一汗かいとくかって寄ったんだよ」
「……そうですか」
早く帰ればいいのにと内心思いつつ、亜希はスマートフォンを確認する。連絡はない、おそらく仕事が長引いているのだろう。緩む表情を抑えつつトレーニングを再開しようと振り返ると、相澤がじっと自分を見ていた。
「なにニヤついてんだ」
「……別に」
「ホント愛想ねえな、ホークスに嫌われても知らねえぞ」
馬鹿にしたような台詞に、ついイラっとした亜希はムキになって口を開く。
「ご心配なく。今日はこのあと会いますので」
「なんだよ、面白くねえな」
「…性格悪いですね」
明らかに落胆する相澤には腹が立つが、亜希はこれ以上反論するのは我慢した。
今日やっと彼に会えるのだ。電話をしてから一週間はあっという間に過ぎ去った。彼は東京での仕事が二日連続して入っているらしい。つまりは泊まりで、久々に長く一緒にいられるのが楽しみで仕方ない。
今日の仕事が終わったら一緒に夕飯にいく予定で、今は彼からの連絡を待っている。珍しく残業が無かった亜希は時間ができたのでトレーニングルームに寄ったのだった。
「お前、今暇か?」
「暇って…まあ、まだ筋トレしますけど」
「なら、ちょっと付き合えよ。体動かしてえんだ」
そう言った相澤は、格闘訓練ができる広々としたマットを顎で指す。「なんで私が」と一瞬思った亜希だったが、自身も慣れないデスクワークで凝り固まった疲れを発散したい気持ちもあった。相手が嫌味な相澤なら手加減なく思い切りできる。
「…分かりました」
頷くと、相澤は袖を巻くりながらマットの上に立ち「いつでも来いよ」と挑発するように笑う。亜希はダンベルを置いてからタオルで汗を拭い、そして、
相澤に向かって勢いよく走り込んだ。
▽▽▽
「ハァ、ハァ…ったく、お前ホントすばしっこいな」
「そっち、こそ…っ…、意外と俊敏なんですね」
呼吸を整えながら睨み合う。二人の間に明確な殺意は無いが、全く容赦ない雰囲気が流れていた。
亜希は以前から、格闘マニアの狡噛や義手を駆使する征陸など体格の違う同僚達と訓練してきた。背が高く腕も足も長い相澤が相手だとしても、彼女が引けを取ることはない。
相澤も長い期間、プロヒーローとして暗躍しているのだ。派手な“個性”ではない分それをカバーする為に自身の体をずっと鍛え続けてきた。
一度だけ共に背中を預けて戦ったことがあった二人は互いの実力を十分理解していたつもりだった。だが、いざこうして組み合ってみると想像以上に好敵手である事実に驚かされる。
どれ程の時間、手合わせをしているか分からない。二人とも体は疲れていたが、相手から一本取るまでは手を緩めるつもりは毛頭無かった。
「褒めてやるよ、そんな細え体でよくやりやがる」
そう言った相澤は素早く亜希に近付き、彼女の腕を捻り上げながら胸倉を掴む。避けきれなかった亜希は、しかし相澤の腰に回し蹴りを食らわせ、
「うお?!」
「わっ…!」
同時にバランスを崩し、思い切りマットに倒れ込んだ。相澤が亜希を押し倒すような格好で。反動で彼女のTシャツの襟元を引っ張ってしまい、一瞬、白い肌に痛々しい傷痕が見える。
「…お前、この痕、」
一体なんだ?そう問う相澤は、至近距離で自分を見上げている亜希の顔が一気に真っ赤になったことに驚き、言葉を失くした。
「な、…え、もう消えて…」
呟く彼女は、今までに見たことがない表情。普段は愛想の欠片もない無表情を決め込んでいるのに、今はどうだ。眉は困ったように垂れ下がり、大きな瞳は戸惑いに揺れていて、透き通るような綺麗な肌は赤い。艶のある黒髪が汗で首筋に貼り付いており、生地の薄い白のTシャツは細い体のラインを浮き彫りにしていた。長い訓練で息も絶え絶えだったせいか、肩が上下している。
この姿は、まるで…
とんでもない想像をしてしまった相澤は、思わず頭を振って口を開く。
「…消えるのかコレ、左肩」
「へ、…あ、左…」
見てわかるほど動揺している亜希は、何を勘違いしているのか一人で慌てたように口をパクパクさせて、ついには相澤が掴んでいない方の右手で顔を隠してしまった。
こんな体勢で密着したまま恥ずかしがる彼女の姿に、邪な気持ちが芽生えない訳ない。相澤も男だ。元々美人だと思っていたが、いつもと違う可愛げのある亜希に一気に興味が湧いた。未だ握ったままの襟元を、ほんの少しだけ引っ張り上げてみる。
「…なんだよ、右にも痕あんのか?」
「えっ、な、何して…」
…きっと、あれだ。あの男の独占欲でも刻まれていたんだろう。この反応と場所的に間違いない。女性から大人気のヒーローも好いた女の前ではただの男になるんだな。
そんなことを思いながら、その痕とやらを拝もうと亜希を揶揄っていると、もの凄い殺気を感じた。驚いて顔を上げると、
「何やってんですか」
トレーニングルームの入り口に、満面の笑顔を浮かべたホークス。目が完全に据わっており、ただならぬ気配を放っていた。
相澤は慌てて亜希の上から飛び退き、咄嗟に正座しながら両手を上に上げて降参のポーズを取る。
「ホークス、待て、ご、誤解だ」
「誤解って?何がです?」
冷ややかな視線で真っ直ぐに自分を睨んでいるホークスは大きな歩幅で部屋へと入ってきて、驚いて目をパチクリさせている亜希の腕を掴んで起き上がらせた。
「ホークス、仕事終わったの?」
相澤が何故引き攣った顔をしているのか分かっていない亜希は、突然のホークスの登場に驚いたものの、どことなく嬉しそうな表情で彼に問いかける。
「はい、ついさっき。亜希さんに連絡したけど繋がらなかったから、まだ筋トレしてるのかなって覗きに来たんです」
「あ、ごめん…気付かなくて」
「いいですよ。で、イレイザーさん?誤解って?」
笑みを絶やさないホークスのこめかみに青筋が浮かんでいるのが見えた相澤は、何を言ってもマズいこの状況に言葉を探すが見つからない。結局口をついて出たのは「違うんだ」という意味のない台詞だった。
明らかに怒っているホークスに気付いたのか、亜希は申し訳なさそうに彼を見る。
「本当ごめん、イレイザーさんと手合わせしてて…つい夢中になっちゃって」
「ふーん、夢中、ねえ」
一層鋭くなったホークスの視線に、相澤は心の中で「頼む、もう何も言わないでくれ」と合掌した。
連絡に気付かなかったことに対して怒っているのだと思っている亜希は何度かホークスに謝ってから「お腹空いたし、ご飯食べにいこう?」と控えめに声を掛ける。
「…そうですね、もう遅いし、行きますか」
「うん、すぐ着替えるね。じゃあイレイザーさん、失礼します」
「お、おう」
近くに置いていたタオルを拾った亜希は「今日は引き分けですから」とジロっと相澤を見てから去って行った。彼女の後ろを追うように歩き出したホークスは、未だ冷や汗が止まらない相澤を横目で睨んで、一言。
「…次はありませんよ」
聞いたことのない、ドスの効いた低い声。相澤が無言で頷いたのを確認したホークスはそのまま振り返らずに、亜希と一緒にトレーニングルームを出て行った。
一人取り残された相澤は、どっと疲れたとばかりにマットに寝転がる。
「やべえ…殺されるかと思った…」
…見たことのない亜希の姿に欲情してしまった、数分前の自分を殴りたい。
よりにもよって、あの目聡く耳聡いホークスの女に手を出しそうになるなんて。
「…はあ、帰るか」
若い二人の邪魔をしてはいけない。揶揄うのも程々にしよう、そう心に刻んだ相澤は、汗を流すためにシャワールームへと向かった。
20200730
相澤先生の口調が迷子…ラッキースケベ的なノリです。