新しい日常


―――私は、貴方を、守る。


立花亜希の心の奥に刻まれた、強い想い。

彼女を突き動かす原点にして、最大の理由。





 続・諸行無常に異論あり




「立花さん、お疲れ」


慣れた?と声を掛けてきた上司に、パソコンを睨み付けていた亜希は顔を上げた。


「塚内さん、お疲れ様です」

「はいコレ。差し入れ」


人当たりの良い笑顔を浮かべている塚内がデスクに置いてくれたのは、缶のおしるこ。相変わらず彼のセンスは少し人とズレているのだが、慣れない作業に糖分を欲していた亜希は「ありがとうございます」と早速プルタブに手をかけた。


「書類作成ややこしいだろ?」


俺も未だに悩むよ、と笑う塚内に、亜希も甘味を味わいながら小さく笑う。



―――亜希が刑事となって、早二週間が経った。季節は桜が生茂る四月を迎えている。

警察試験の筆記と体力テストでほぼ満点を叩き出した彼女は現在、大小関係なく相次ぐ犯罪の後処理に追われていた。

彼女にとって、もう一人の上司であるヒーロー公安委員会会長からは、「まずは刑事の仕事に慣れなさい。ホークスへ依頼する任務も突然減ったら彼に勘付かれる可能性があるから、徐々に貴方へ振り分ける」と言われた為、現在は塚内の元ひたすら警察本部で仕事をこなす日々を送っていた。

新人警察官も入ってきたことで本部はいつも以上にバタバタしている。春という浮き足立つ季節ということもあってか、街で小競り合いも絶えない。

警察という仕事は、ただヴィランを逮捕して終わりという訳ではない。むしろ、そこからが始まりである。被害の把握、事件を起こした動機、前科はあるか、犯人が持つ“個性”について等、様々な情報を調べて報告書にまとめなければならないのだ。

街をパトロールするヒーロー達が上げてきた書類の確認や裏付けも取らなければならず、外に出るよりパソコンに向かう時間の方が圧倒的に長かった。体を動かしている方が何倍もマシだなと思いつつ、亜希はキーボードをカタカタ叩いていく。


「それ終わったら今日は帰っていいよ。明日は宿直だし、早く休んだ方がいい」

「ありがとうございます。もうすぐ完成するのでメールで送っておきます」

「うん、よろしく」


自席に戻る塚内に軽く頭を下げつつ、亜希は残りの仕事に取り掛かった。




▽▽▽




どれだけ忙しくてもトレーニングは怠らない亜希だったが、流石に慣れない業務が続いたことで眠気がすごい。今日はもう日付も変わるし休もうと家へ帰ることにした。徹夜が続いたので自宅に戻るのは三日ぶりである。

彼が用意してくれた、一人では広すぎる大きな部屋。最初こそ落ち着かなかったものの、今では一番リラックスできる場所になっていた。

帰り道にある二十四時間営業のスーパーに寄り、割引されている弁当と食材を適当にカゴに入れていく。今日はもう気力は無いが、明日の昼は自炊でもしよう。料理なんてしたことがなかった彼女だが慣れてくると楽しいもので、レパートリーなんてほぼ無いが、今や唯一の趣味になっていた。

何を作ろうか。とりあえず簡単な肉じゃがでも大量に作って冷凍しておこうかな。

そう考えている時、ポケットが震えた。仕事かと思って慌てて取り出すと、それは彼専用のスマートフォン。画面に表示されているのは大好きな人の名前。


「もしもし」

『やっと出てくれた〜。亜希さん、久しぶり』

「ごめんごめん…本当、久しぶりだね」


二週間ぶりの彼の声。彼が福岡に戻ってから初めて繋がった。何度か着信はあったものの仕事で出ることが出来ず、掛け直しても忙しい彼とのタイミングが合わず。やり取りは短いメッセージのみ。と言っても亜希は読んでも返事を忘れることが多い為、大半は彼からの連絡だったが。

顔は見えなくても、優しい声色が耳に響き、亜希は思わず笑顔を浮かべる。


『どう?仕事には慣れた?』

「うーん、デスクワークがキツいけど、なんとかやってるよ」

『あー、報告書の量ヤバいでしょ?亜希さんも塚内さんみたいな隈できてない?大丈夫?』

「大丈夫だよ。隙間時間にちゃんと寝てる」


電話を片手に会計をしスーパーを出る。まだ少し肌寒いが穏やかな風に春の匂いが混ざっていて、疲れた体には気持ち良い。


『どこか寄ってたの?』

「うん、スーパー。晩御飯とか買ったの。啓悟はもうご飯食べた?」

『食べたよ、居酒屋でチキン南蛮定食』

「美味しそうだね」


他愛ない会話が、とても心地良くて楽しい。同時に会いたい気持ちが強くなるが彼の声を聞くだけでも十分にも思える。


『あ、休憩時間終わりだ…パトロールに戻らなきゃ』

「そっか、気を付けてね。電話してくれてありがと。声聞けて嬉しかった」

『ん、俺も。亜希さん大好き』

「…うん、私もだよ」

『ふふ、あ、来週東京で仕事があるから会いに行きます』

「え、本当?」

『はい、福岡名物いっぱい買っていくから楽しみにしてて。じゃあ…またね』

「うん、待ってる」


久しぶりに彼に会えるんだ。ほんの数分だったが、亜希にとってはとても幸せな時間で、待ちきれない楽しみができた。

彼が残してくれた薬指の傷痕は、もう目を凝らさないと見えない程まで消えている。噛み付かれた右肩も、身体中に吸い付かれた痕も、もうほとんど無い。

けれどその代わりに新しい約束が胸いっぱいに広がった亜希は、軽い足取りで家へと向かった。

…早く、会いたいな。

そう思いながら。



20200728


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