自分の道


誰もいない警察本部の屋上で、亜希は自販機で買ったばかりのオレンジジュースの缶をプシュッと開ける。今は遅めの昼休憩。食堂でスタミナ丼を食べた後、少しばかり一人になりたくて屋上にやって来たのだ。

晴天の空に昇る太陽を眩しく感じながら思い出すのは、昨日、保須で起きた事件のこと。犯人はステイン、被害者はターボヒーロー・インゲニウム…雄英高校1−Aの生徒である飯田の兄だ。体育祭の最中に飯田が顔面蒼白で早退した理由は、兄の元に行く為だったと。今日の朝礼で塚内から聞いた亜希は、自分を責めた。


「(あの時…)」


あの、公安の初任務の時。ステインを捕まえていれば、奴を追っていればと後悔の念が押し寄せる。飯田の泣いてしまいそうだった表情が忘れられない。ヒーローを目指しているとは言え高校生の彼には辛い事態だっただろう。自分がステインを止めていれば、彼にあんな顔をさせないで済んだのに。

思えば、雄英バリアーの時もそうだ。あの場で犯人である死柄木を何とかして捕まえていればUSJ襲撃事件なんて起きなかったし、相澤や13号、オールマイトや緑谷も怪我を負うことなんて、なかったのに。


「(私は…)」


なんて無力なのだろう。どちらも現場にいたというのに何も出来ていない自分が、いかにちっぽけな存在であるかを改めて思い知って、自嘲する。あの時ステインを追ったところで勝ち目なんて無いことは明白だったが、それでも、何か出来たことはあったかもしれないのに。

…自分の両手で守れるモノは少ないのだと、再認識させられる。そして同時に、大切な人だけは何が何でも守らなければと強く思った。


「(啓悟だけは…)」


絶対に守らなければと。

ふと、そんな彼から今朝メッセージを貰っていたことを思い出して、プライベート用のスマートフォンを取り出す。


『今日も怪我とか事故とか気を付けて』


心配性の彼らしい内容に、強張っていた顔が少しだけ緩んだ。いつもなら読むだけで終わっていた亜希だったが今日は早速返事を打っていく。
昨晩の電話にて、自分が連絡を絶ったせいで彼に多大な心配をかけていたと痛感したからだ。自分に余裕がないなんて言い訳はもうしない。離れている今、彼に安心してもらう為には定期的に連絡するのが一番だろう。最低でも一日一回は返事を返そうと心に決めたのだった。

『啓悟も気をつけてね』、そう文字を打っている最中にもう一つのスマートフォンがポケットで震える。急いで送信ボタンを押してからもう片方のスマホを取り出すと、相手は公安。気を引き締めて電話に出た。


『貴方に任務です』


開口一番にそう言った会長が仕事内容を淡々と話し出したので、亜希は姿勢を正しながら静かに頷く。が、驚いてしまった。一気に五つもの任務を言い渡されたのだ。
息を飲んだ彼女に気付いた会長が、電話越しで小さな溜め息を吐く。


『…事件というものは突発的に起こるものよ。今までは重ならなかっただけ。無理なら、ホークスに振り分けましょうか?』

「いえ、一人でやります」


亜希は断言した。確かに数は多いが一つ一つ確実にこなせばいいだけ。現場も関東ばかりなので、車で十分に移動できる。それに何より、彼の手を借りることだけは避けたかった。それでは自分が工作員になった意味がない。


『なら任せます。…それから、もう一つ』

「はい」

『…』

「…?」


いつもハッキリと物を言う会長が僅かに口籠った気配を感じ、亜希の頭に疑問符が浮かんだのだが。


『…やはり、ホークスは気付いていた』


そう続いた言葉に、亜希は思わず「は?」と間抜けな声を出してしまった。


『自分の他に工作員がいる、と。それが貴方だとは、特定できていなかったけれど』

「…待って、ください、やはりって…何、え、どういう…」


思考が追いつかない。とてもじゃないが冷静でいられず、背中を冷や汗が伝っていった。


『…あの子が、公安の人員名簿データにアクセスしていたの』

「え…」

『もちろん厳重なロックが掛かっているから閲覧は出来ないわ。データ上で確認することは不可能よ』

「…」


バレては、いないのか。そのことに一先ず安心したものの、亜希は戸惑いと混乱で何も言えない。会長は静かに口を開く。


『ホークスは公安で過ごした時間が長い分、こちらの内情をよく理解している。自分以外に優秀な工作員がいないこともね。にも関わらず、これまで自分に回されていた任務が途切れたから…おかしいと思ったんでしょう』

「…」

『そして、データで確認できないなら自分で調べるしかないと考えるはずよ。このまま放っておけば、ホークスが貴方に辿り着くのも時間の問題だった』


亜希は頭を抱えながら屋上の柵に背を預けた。


「…それで、」

『あの子が行動を起こす前に、ほんの少しだけ事実を知らせて納得させるべきだと思ったの。だから適当な理由をつけて連絡した。そうしたら予想通り聞かれたわ、“新しい工作員がいるのか”…って』

「…なんて答えたんです?」

『イエスと。任務は全て新しい工作員に任せていることも伝えた。彼が本当に納得したかは分からないけれど…これで必要以上に調べることもないでしょう』

「…そう、ですか」

『でもホークスは勘が鋭い。私が誤魔化すにも限度がある。…彼にバレたくないなら、貴方も十分に気を付けなさい』


会長は『…では任務、頼んだわよ』と言って、いつも通り返事を聞くことなく通話を切った。亜希はスマートフォンを握る手を力なく垂れさせながら、空を仰ぐ。


「…」


落ち着く為に一度大きく深呼吸をし、もう温くなってしまったオレンジジュースの残りを一気に飲み干した。胸に蔓延るモヤモヤと一緒に全部飲み込んでしまいたかったのに酸味が喉に張り付いて離れず、眉を寄せながら溜め息を吐く。


「(啓悟にバレる訳にはいかない、どうしたら…)」


会長の機転のおかげで、彼がもう一人の工作員について独自に調べるという最悪の事態だけは避けられた。しかし油断はできない、彼は目聡く耳聡いのだ。ほんの些細なことをキッカケにして真実に近付いてしまう可能性は、ゼロではない。


「(…お願いだから、私に気付かないで)」


空になった缶を、祈るように両手で握る。

自分を公安に入らせたくないと言っていた彼が事実を知ってしまったら、どうなるのだろう。怒るだろうか、呆れるだろうか。それとも…泣いて、しまうだろうか。

彼の笑顔が好きだ。いつも笑っていてほしいと思っている。それなのに、自分が原因で泣かせてしまったらと考えると、胸が苦しくてどうしようもなかった。

彼に自由になってほしくて、もう独りで重荷を背負わないでほしくて。だから亜希はこの世界を選び、彼が気遣わないで済むよう秘密で、彼の代わりになることを決めたというのに。優しい彼を傷付けたくない、ただ、守りたいだけなのに。


「…難しいな」


ふわり、暖かい風が吹いて、小さな呟きを攫っていく。亜希はしばらくの間、雲一つない青空をぼんやりと見上げていた。





▽▽▽





暴力団と大物政治家の癒着現場を押さえること、横領疑いのある議員の証拠を掴むこと、脱税している大手会社の帳簿記録の入手、など。そういった世間体のよろしくない任務が五つ、今回亜希に与えられたものだった。

全て難しいものではなかった。どれも公安が既に場所を特定しており、現場に行けばいいだけだったからだ。現地に赴いてターゲットを尾行、奴らの自宅や職場に侵入し、公安から支給された小型の監視カメラや盗聴器、データをコピーするUSBを設置する。あとはターゲット達が墓穴を掘る瞬間を記録した後、設置した機器の回収をすれば終わるという容易いもの。

ただ中々尻尾を出さない奴らもおり、張り込みには時間を費やした。現場も関東地方ではあるものの神奈川、千葉、埼玉などと県境を越えてバラバラだった為、数日間の車中泊も余儀なくされた。

そうして五つの任務を全て終えた頃には、会長の電話から二週間の時間が経っていた。


「(…さすがに、疲れたな)」


夕焼け空の下、亜希は埼玉と東京を繋ぐ高速道路を黒塗りのセダン車で走っている。任務で掴んだデータは全て公安に転送し、使用した機器は証拠隠滅の為に破壊。今は何もかもが終わった帰り道だ。

この二週間ほとんど寝ておらず、慣れない車中泊で肩も首もバキバキに凝っている。少しでも気を抜けば居眠り運転をしてしまいそうなほど疲労はピークを越えていた。しかし、亜希は上機嫌に頬を緩ませる。


「(…明日、やっと会える)」


明日、ホークスと会えるのだ。大阪での仕事の後、東京まで来てくれるらしい。しかも翌日は一日オフの為ゆっくりできるという。彼から『亜希さんが仕事でも会いに行くね。もし休みだったらデートしよう』とのメッセージを受け取った時は嬉しくてたまらなかった。顔を合わすのはいつぶりだろう、おそらく前に会ってから一ヶ月以上は経っている。

だが、その連絡が来たのが任務を言い渡された日の夕方だった為、亜希は焦った。

自分が公安だとバレる訳にはいかない。彼に怪しまれないように、不審がられないようにしなければ、と。その為には自分に課せられた五つの任務を彼が来るまでに何としても終わらせる必要がある。さらに彼への連絡も怠ってはならないと、激務の合間を縫ってはスマートフォンを確認し、出来るだけすぐに返事をした。
そんな彼も“職場体験”という雄英生徒の訓練で忙しかったらしい。以前は一日に何通も送ってくれていたメッセージの回数は減っていたが、今回はそれが丁度良かった。


「(終わって良かった…)」


ハンドルを握りながら安堵の息を吐く。残念ながら自分は明日も明後日も仕事だが、懸念していた公安の任務がひと段落したのだ。これで心置きなく、彼と過ごせる。


「早く会いたいな…」


小さく呟いた時、ふと、窓の外…遠くで黒煙が上がっているのが見えた。何事だと思って、気付く。

あの方角は――保須市。


「…ステインか!」


奴は同じ場所で必ず四人以上のヒーローを襲っている。保須市はまだインゲニウムだけだ。新しい被害者が出る前に捕まえなければ、今度こそ、絶対に。

亜希はアクセルを力一杯踏み、すぐに高速道路から降りる。そのまま黒煙を目印に猛スピードで車を走らせた。




▽▽▽




多くの悲鳴が近付くにつれ、逃げ惑う人々が道路に飛び出してくる。このまま運転していれば人を撥ねる可能性がある為、亜希は道路脇に車を停めて騒ぎの中心へと走った。激しい戦闘音が地響きのように伝ってくる中、走りながら拳銃を構えた時、


「殺してやる!!!」


僅かに聞こえた声。一瞬立ち止まった亜希は、すぐに踵を返し声がする方へと全速力で駆ける。この声は、泣き叫ぶようなこの声は、聞いたことがあった。

ごった返しする人の波に圧し潰されながらも必死に走り、街の中心から少し外れた通りの角を曲がって、路地裏へ。瞬間、目に飛び込んできた光景に亜希は即座に銃を発砲。乾いた音が連続で鳴り響く。


「動くな!」


彼女の言葉に、その場にいた全員が視線を向けた。倒れている飯田、座り込む緑谷、壁に寄りかかるヒーロー。そして、


「…お前…あの時の女かァ…」


ヒーロー殺し・ステイン。
亜希が急所を狙って撃った五発全てを刀で弾いたステインは、突然現れた亜希をじっと見て眉間にシワを寄せる。地面に膝と両手をついたままの緑谷が声を上げた。


「立花刑事…?!な、なんでこんなところに…」


亜希はステインと睨み合ったまま手早く拳銃に予備弾薬を詰める。それから左手で伸縮性振出式の特殊警棒を取り出し、思い切り振ってジャキンと伸ばした。


「…声が聞こえたの」


小さく答えてから、呆然と倒れている飯田を横目に見る。彼は腕から血を流しており、その目は涙で濡れていた。


「…ハァ…どけ、俺にはその私欲にまみれたガキを殺す義務がある」


血走った眼で静かに言い放つステインの殺気は凄まじいが、亜希は怯むことなく、銃口をしっかりと奴に向ける。


「…私は、復讐が悪いことだとは思わない」


そう言った亜希の脳裏に――かつて憧れた一人の男の姿が浮かんだ。
犯罪者を法で裁けないのなら法の外に出るしかないと、自分の手で始末しなければと、絶対に殺す、と。決意に燃えた大きな背中と鋭い瞳を、鮮明に思い出す。

どんな理由があっても殺人は許される行為ではない。それでも亜希は、あの人が信じた正義は間違っていなかったと。今でも強く思っていた。


「立花刑事さん…」

「…飯田君、もし私が君の立場だったら、私も同じことを考える」


刑事が言っちゃいけないけどね。そう小さく付け加えると、飯田は唇を噛みしめるように涙を流した。

警察が、公的立場にいる自分がこんなことを口にするものではない。ましてやヒーローを目指している子どもに向かって。でもこれは間違いなく彼女の本音で、飯田には伝えなければと思った。先程聞こえた「殺してやる」という飯田の叫び声…もし自分にとって何よりも大切な人を傷付けられたら、亜希も同じ言葉を吐いて犯人を殺しに向かうだろう。

亜希の言葉に、ステインは嫌悪感を露わにしながら舌なめずりをした。


「あの時お前に感じた正義は、その程度のものだったのか」

「…私は、私の道を行くだけだ」


―――『これからは、自分の道を進め。』
そう言ってくれた、あの人に恥じない自分である為に。そして、そんな自分を想ってくれる愛しい彼の為に。


「…興醒めだ。お前も殺す…死ね」


ステインが亜希に向かって勢いよくサバイバルナイフを投げつけた。それを警棒で弾き飛ばしたと同時に、一瞬で間合いを詰めてきたステインの刀が彼女の首を狙う。間一髪で身を屈ませて避けた。連続して振り下ろされる切っ先を警棒で受け止め、躱し、隙を見ては発砲。異常な動体視力を持つステインに弾は当たらない。息つく間もなく真横に振られた刀が僅かに亜希の左上腕を掠り、スーツの袖が切り裂かれた。


「立花刑事!!奴に血を見せたらダメだ!!」


たぶん経口摂取で相手の自由を奪う“個性”だと続ける緑谷に、亜希は返事が出来ない。ステインに壁に追い詰められ、奴の重い刀が警棒にギリギリと食い込んでいたのだ。圧倒的な力の差に反撃ができない。目と鼻の先で悍ましい顔のステインが口角を上げて笑い、じわりと鮮血が滲む亜希の左腕に舌を伸ばす。

避けなければ、でも動かない、力が強すぎる、どうすれば――亜希が歯を食いしばった時、突如、彼女の足元を冷気が駆け抜けた。体が底冷えするように凍り、次の瞬間には滑るように体が動く。瞬く間に今度は熱気が全身を包み、何事かと気付いた頃には、亜希は壁から随分と離れた場所で尻もちをついていた。すぐ隣で、緑谷とヒーローもごろんと転がる。
顔を上げると、赤と白の髪が印象的な少年の姿。


「大丈夫ですか」


轟焦凍だ。彼は半冷半燃の“個性”を使い、亜希達をステインから引き離したのだった。
亜希はすぐに立ち上がり、握っていた警棒を見る。何度もステインからの攻撃を受けたせいで今にも折れそうだった。あと一瞬でも遅ければ首を斬られていただろう。もう役に立ちそうにない警棒を地面に放り投げ、気遣うような表情を浮かべている轟を見上げた。


「…助かった。ありがとう」


礼を言いつつ、そういえば何故こんな所に雄英の生徒達が集まっているのだろうと今更ながら疑問に思った。それもヒーローコスチュームの姿で。


「次から次へと…今日はよく邪魔が入る…」


しかし、ステインの苛立ちを含んだ呟きに亜希はハッとし、すぐに拳銃を構える。浮かんだばかりの疑問は一旦頭の隅に追いやった。今は何よりも目の前の犯罪者を、飯田の兄の仇を捕まえるのが最優先だ。


「…奴を逮捕する。轟君、手伝ってほしい」

「はい」


静かに答えた轟が左手に力を込める。暗闇に染まる路地裏で、赤い炎が音を立てて燃え上がった。




20201030


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