罪悪感


「僕も本気で、獲りに行く!」

「……おお」


控室のドアを開けた瞬間に漂う、緊張をはらんだ空気と聞こえた会話に、亜希は入室するタイミングを完全に見誤ったと後悔した。


「…あ!USJの時の刑事さんじゃないっすか!」

「ホントだ!相変わらず美人〜」


赤髪と金髪の男子生徒――切島と上鳴の声を合図に、室内にいた生徒達はドアを開けた亜希に一斉に注目する。非常に気まずいが無視する訳にもいかない為、中途半端に開けたドアを後ろ手に閉めながら「どうも」と声を掛けると、きびきびした歩き方をする長身の男子生徒、飯田が近付いてきた。


「相澤先生から聞いています!我々の警護をして下さるのが一度お会いしたことのある立花刑事さんで、安心です!さあ皆!挨拶を!」


よろしくお願いします!と一人で勢いよく頭を下げる飯田に亜希は気圧されながらも、「お願いします!」と口々に続ける生徒達に頷きを返して、軽く部屋内を見渡した。彼らと顔を合わせるのは二回目だ。以前、USJ襲撃事件の取り調べの時に全員と言葉を交わしていたので、見知った顔ぶれが並んでいる。

今日は雄英体育祭、当日。見知らぬ人より顔見知りの方が生徒達も気遣わないだろうという塚内の判断により、亜希が1−A生徒の警護、控室の警備を任されることになった為、一声かけに来たのだ。一年に一度のビッグイベント、どことなく彼らの顔には緊張が滲んでいるように見える。

そんな中、一際ピリピリとした雰囲気を醸し出しているのは、緑谷と、赤と白の髪が印象的な少年――轟だった。先程の会話からして亜希の入室前にひと悶着あったのだろう。そんな二人をこれまた険しい顔で睨むのは爆豪勝己だ。彼とは一瞬目が合ったが、眉間にシワを寄せた不機嫌そうな顔のまま、ふいっと視線を逸らされてしまった。


「(……頑張れ、なんて…気軽に言えないな)」


名門雄英の催し物といえど、高校生が主役の体育祭。楽しいイベントだろうと思っていた亜希は挨拶ついでに応援の一つでも、と考えていたのだが、勘違いだったようだ。彼らは予想以上に殺伐としており、余計なことは何も言うまいと大人しく口を閉じる。


「…ん?立花刑事さん、その顔の怪我は一体…」


直角九十度の深々したお辞儀から顔を上げた飯田は、亜希の顔に貼られている不自然な程に大きい絆創膏を見て、驚いたような声を上げた。


「……これは、仕事でちょっと」


右手で頬を撫でながら言うと「なるほど…警察官も大変なご様子、お疲れ様です!」と元気よく返事をしてくれた彼に苦笑しつつ、やはり目立つよなと内心で溜め息を吐いた。ファンデーションやコンシーラーで隠せれば良かったのだが、時間がなかったので仕方ない。

そう、亜希は今朝、盛大に寝坊したのである。




▽▽▽




公安の初任務後、久々に帰宅した亜希はシャワーを浴びながらスーツを手洗いし、予想通り冷凍庫で眠っていた炊き込みご飯と明太子を解凍して空腹を落ち着かせてから、一人では大きすぎるダブルベッドへダイブした。柔らかい、ふかふかだ。微かに感じられる大好きな人の匂いが疲れ切った体に染み渡って、幸福感で満たされていく。もう太陽は昇っているが一時間は寝られるだろう。スマートフォンの目覚ましをセットした瞬間、ほんの一瞬で眠りの世界へと旅立った。

そうして、見事に寝過ごしたのだ。アラームは無意識に消していたらしく、目覚めたのは出勤時間の十分前。文字通り飛び起きた亜希は大慌てで着替え、顔を洗い、最低限の身支度をして全速力で警察本部に向かう。スーツを着た女性が陸上選手顔負けのフォームで駆け抜ける姿に道行く人々は驚いていたが、そんなことを気にする余裕すらなかった。しかし、そのおかげか始業チャイムが鳴る一分前に職場に到着。珍しくゼェゼェと息を整える亜希に、デスクでコーヒーを飲んでいた塚内が近付いた。


「おはよう。…大丈夫?」

「は、はい…」


膝に手を当てながら大きく深呼吸し、新鮮な空気を肺いっぱいに取り込む。トレーニングでよく走ってはいるが、遅刻するかもしれないという気持ちで全力疾走するのとは疲労の度合いが全然違った。間に合って良かったと心底安堵しつつ、亜希が額に浮かぶ汗を拭おうとした時、


「…その怪我!どうしたんだ?!」

「えっ」


塚内の大きな声にフロアの何人かが顔を上げる。亜希も驚くと、彼は険しい顔で「あ、すまん…」と一言添えてから、小声で続けた。


「…上から話は聞いている。怪我は、その切り傷だけか?」


おそらく公安から任務が落ち着いたと報告を受けているのだろう。小さく頷いた彼女に塚内はポケットから絆創膏を取り出し、「貼りなさい」と一言。


「え、結構です」


彼の手にある絆創膏の大きさにギョッとした亜希は即答で断った。明らかにサイズがおかしいのだ。どう見ても膝や大腿部などの広範囲に適した大きさで、そんな目立つ物を顔に貼りたくはない。


「何言ってるんだ!顔に傷が残ったら大変だろう?!」


また大声を出した塚内は「立花さん女の子なんだから!」と言いつつ、あっという間に絆創膏を開封して彼女の顔にペタリと貼り付けた。あまりに早い動きに成す術なく、亜希の白い頬に存在していた一本の切り傷は、長方形の大きな絆創膏によって隠される。なんとも言えない顔で黙る亜希に構うことなく、塚内はデスクの上から資料を手にして彼女に渡した。


「…それに、そんな生傷を生徒らが見たら驚くからさ」


数枚にも及ぶ雄英高校の建物内見取り図。紙面上には各自どこに配置されるか、休憩時間の交代タイミングなどの詳細が載っている。“1−A生徒の警護・警備”の欄に自分の名を発見した亜希は上司の言うことも一理あるかと渋々納得し、非常に不本意だったが絆創膏は剥がさずにおくかと諦めたのだった。




▽▽▽




入場の為に会場へと向かった生徒達を見送った後、亜希は控室の中や周辺に怪しい物が仕掛けられていないかを念の為に確認してから、同じ会場に足を運んだ。塚内達はまだ入場検査をしているらしい、耳に付けている小型のインカムからは忙しないやり取りが聞こえている。


「(すごい人…)」


熱気と歓声に溢れるスタジアムはとんでもない大きさだった。観客の数も多く、遠くに座る人々なんて米粒のようだと思いながら、亜希は観客席の狭い通路に沿って見回りを始める。現役ヒーローがほとんどの席を占めるこの場所で事件が起こる可能性は極めて低いだろう、しかし警備を任されている以上、見回りに手は抜けない。
それに昨晩、自分はギランというブローカーの手下である“ヒーロー”に殺されかけたのだ。この観客の中にも、あのヒーローと同じような裏切り者が紛れているかもしれない。善人の顔をして、隙を、機会を伺っているのかもしれない。…その疑念がどうにも拭えず、鋭い目付きで客席を睨んでしまう。

亜希にとってのヒーローとは、間違いなくホークスだった。この世界で自分を見つけてくれた人であり、言い表せないほど沢山のものを与えてくれた、少し泣き虫な愛しい人。大きな翼で、優しい心で多くの人々を救い、笑顔にしてくれる。そんな彼と同じ立場にある者が犯罪に手を染めているという事実はショックで、同時に、強い憤りを感じていた。昨晩のヒーローがどんな理由で悪事を働いていたのかは分からない、しかし。


「(…ヒーローの名を汚す輩は、許さない)」


彼を、ヒーローを馬鹿にするような行為をする者は、もういないと信じたい。けれど万が一発見したら…その時は一発ぶん殴ってから捕まえてやるのだ、今度こそ。もう昨夜みたいなヘマはしない。

そんなことを考えながら辺りを見渡していると、会場が一気に湧いた。横目でスタジアムの中央を見ると、どうやら選手宣誓が始まるらしい。未成年には刺激が強すぎる気もする18禁ヒーロー・ミッドナイトが主審とのことで、鞭を振り回しながら壇上に立っていた。際どいと言うか、ほぼ裸のようなヒーローコスチュームを亜希は二度見して凝視する。すごい身体だ…自分とは正反対な程に女性らしい。客席からも「ミッドナイトやべえな〜けしからんボディだ」「胸がすごいぞ!」などと喜ぶ声が上がっていた。
ミッドナイトから選手代表として呼ばれたのは、爆豪。彼はポケットに手を突っ込んだままの状態で壇上へと上がる。


「せんせー…俺が一位になる」


一呼吸、置いた後。「調子乗んなよA組オラァ!」「どんだけ自信過剰だよ!」と生徒達だけでなく、観客席からもブーイングの嵐が巻き起こったのだが。遠くに見える不遜な態度の少年を見た亜希は、そんな中、思わず小さく笑ってしまった。


「(…度胸あるな)」


態度が悪かろうが自信過剰だろうが、別に良いじゃないか。こんな場所で、あんなにもハッキリと自分の目標、目指す順位を口にすることは難しいだろうに。彼にはそれだけ強い思いがあるのだろう。
…高校生といえどもヒーローを目指している彼らは、きっと、昨夜の男のようなクズになりはしない。そう思うと、ついさっきまでの悶々としていた気持ちは少しだけ落ち着きを取り戻す。

それから第一種目の障害物競走のルール説明がされ、一気に会場外へと走っていく生徒達を見送ってから、亜希はまた見回りを再開した。




▽▽▽




何でもありの障害物競走が終わる頃には会場に塚内らも合流、全員でスタジアム内を点検し終わったと同時に、二回戦の騎馬戦が始まった。

学校関係者専用の通路入り口付近。亜希は自分の配置場所であるここで壁に背を預けて腕を組み、スタジアムを見渡す。今のところ特に問題はなく、観客も生徒達も大盛り上がりだ。そんな状況とは正反対の表情を浮かべる亜希は、頭の中で溜め息を吐く。


「(…今日こそ連絡したい)」


本当は今朝、メッセージを送るつもりだったのだ。ひと段落着いた、と。けれど自分は想像以上に疲れていたのか寝坊してしまい、そのたった一言すら連絡できずにいる。さすがの彼も怒っているかもしれない。いつも気遣ってくれる優しさに甘え過ぎていたと、今更ながらに反省をする。

眉間にシワを寄せながら色々と考えていると、騎馬戦もあっという間に勝敗を決していた。大きなモニターに表示されている名を見ると、1―A生徒達が多い。自分が私事でウダウダと悩んでいる間に彼らは着々と前に進んでいる。

…今日は色々と考えてしまって駄目だな、と亜希はもう一度溜め息を吐き、切り替えなければと頭を振る。今夜こそ電話をしよう。そして、きちんと謝ろう。怒られても許してくれるまで謝り続けよう。それに何より、彼の声を聞きたい。




▽▽▽




昼休憩を挟んで、最終種目のトーナメントが開始。交代で昼食を済ませ会場に戻って来た亜希は、白熱した戦いに魅入った。中でも一番驚いたのは今朝、一悶着あった緑谷と轟の戦いだ。スタジアムを突き破る轟の氷と炎は凄まじい迫力があったし、それを打ち消した緑谷のパワーもすごい。最終的に場外となったが、緑谷はよく頑張ったと思う。少し気弱でオドオドしている子だと思っていたが、やはり雄英の生徒、随分と勇敢だった。
ただ、試合の途中で轟の父親であろうNo.2ヒーローのエンデヴァーが出てきた時は驚いたものだ。テレビでしか見たことのなかったオールマイトに次ぐヒーローが、あんなにも親馬鹿だったとは…と。しかも息子には完全に無視されており、何とも言えない気持ちになった。

そんな試合を通路口から観戦していると、インカムではなく仕事用のスマートフォンが鳴る。確認すると塚内からだった。


「はい、立花です」

『保須で事件が起こった。俺は現場に向かうから、生徒達のことは任せる』

「何があったんですか」

『ヒーローが一人重症…ステインが現れた』


――ステイン。その名前に心臓が嫌な音を立てる。今朝、亜希は塚内に、奴と接触したこと、その風貌や口調、武器などを報告していた。現在も捜査中の玉川らにも詳細は伝えている。アイツが…昨晩、東京港で五人ものヒーローを殺した殺人鬼が、また現れたというのか。


「…私も行きます」

『いや、立花さんはここにいてくれ』

「しかし…、」


結果として奴に助けられ、見逃された亜希はステインと面識がある。自分が行けば何か力になれるかもしれないし、何より目の前で犯罪者を捕まえられなかったのが心残りだったのだが。電話向こうで塚内が首を振る気配を感じて、口を閉じた。


『…最近ずっと働き詰めだっただろ?今日は体育祭のあと、真っ直ぐ家に帰って休んでくれ』

「…私なら大丈夫です」

『いいから。それに保須警察署も人員を割いてる。俺も、三茶達に合流して捜査状況を把握する為に行くだけだからさ』

「…」

『体育祭の警護も大事な仕事だ。生徒らが安心できるよう、頼んだよ』


そう言って、通話は切られた。個人的には上司を追い掛けたいところだが、警護を放り出す訳にもいかない。きっと自分が寝坊したことで塚内に気を遣わせてしまったのだろうと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、今は上司の分まで仕事をこなすべきか。
亜希がスマートフォンから顔を上げた時、先程まで会場にいた飯田がこちらに向かって走って来た。


「立花刑事さん…!すみません、俺は早退させていただきます、」

「早退?」

「…すみません、失礼します!」


顔面蒼白で控室へと走っていく後姿を呆然と見つめる。どうしたのだろうか、体調が悪いようには見えないが…


『決勝戦、轟 対 爆豪!!今!!スタート!!!』


大きな実況と歓声が響き渡る。けれど亜希は、飯田の後姿から目が離せなかった。




▽▽▽




体育祭は宣言通りに爆豪が優勝し、幕を閉じた。大勢の観客が帰った後にもう一度スタジアム内を点検してから警察本部に戻ってきた亜希は、しばらくフロアで塚内の帰りを待ってみたものの。ここに居ても仕方ないかと思い、帰宅することに。

もう日は沈み、辺りは暗い。急ぎ足で道中のコンビニに寄って、空腹を満たすべく半額の大盛り弁当を二つ買った。店を出て、すぐにプライベート用のスマートフォンを取り出し、たった一人だけ登録されている番号を押す。もしかしたら仕事中かもしれないと思ったがワンコール後、繋がった。


『も、もしもし?!』


何故か慌てた様子の大好きな声に一瞬驚いたものの、久しぶりの心地よい声に自然と笑みが浮かぶ。少しの言葉を交わしてから、亜希は連絡できなかったことを謝った。どこまでも優しい彼は「大丈夫だよ」と、一切責めることを言わないのがまた申し訳ない。


『…ねえ、亜希さん。聞きたいことがあるんだけど』


他愛ない話をしていると、真面目なトーンで問われた内容に、亜希は驚く。体育祭の中継を見ていた彼は一瞬だけ映った自分の姿を捉え、頬の絆創膏に気付いてしまったのだ。どうしよう、まさか見られているなんて思わなかったものだから、何と言えばいいのか分からない。しばらく黙り込んで勘の良い彼に怪しまれないような理由を考えたものの、良い案は浮かばず。


「…掠り傷だよ。ちょっと転んじゃって」


口をついて出たのは、小さな嘘。すかさず「でも絆創膏、けっこう大きかったけど」と返され、「…あれは、塚内さんが大袈裟なだけ」と答える。これは本当のこと。


『…他は怪我してないんよね?』

「うん、元気だよ」

『…はあ、良かった』


電話口から漏れる安堵したような声に、亜希は歩みを止める。彼に心配をかけないようにと思っているのに、結局いつも、自分のせいで不安にさせてしまっているのが、ただただ情けなくて、辛かった。


「…心配かけて、ごめん」

『無事ならいいんだ』


謝ったところで何も変わらないだろう。けれど、遠く離れた彼にできることは謝罪しかなくて。


「…本当に、ごめんね」


心配をかけて、嘘をついて、真実を話せなくて、ごめんなさい。そう続く言葉だけが夜風にかき消され、亜希の心には罪悪感が残った。



20201013


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