わすれじの

 冬がようやくの終わりを告げ、遅い桜が蕾を綻ばせる頃合いにもなると、空気は一変して温もりに満ちていく。
 冬の頃のようなぴんと張り詰めた空気は緩み、遠く見はるかすことの出来た景色は心なしか桜色に霞む。全体的に質量を増した空気はしかし、夏の手前で人々にゆとりを与えるかの如く、軽くなった心身をゆったりと包み込むのだった。
 道行く人々の顔もどこか明るい。年を追うごとに期間の狭まっていく春ではあるが、短くなるごとにそのありがたみも増していくようなのが不思議だった。人里に、しかもこれだけ土や自然から切り離された所で感じる春は、あまりにも当たり前に訪れるものであったため、いざ、その恩恵を受けられる日々が短くなれば、逃した鯛を大きく感じるのは仕方のないことだろう。
 天狗のように土地と密接な繋がりを持つ者ならなおの事、得た鯛を逃したくないと思うのは本能に近いものがあった。
 黒い羽が青空に黒点を作るも、それを見咎める者は誰一人としていない。陽気に誘われた人々は先日、開花したばかりの桜を見るのに忙しかった。
 それまでの寒さから一転、四月の始めだというのに数日で五月ばりの高温をたたき出し、枝で蹲るばかりだった蕾たちはおぞるおそるといった風に春の訪れを確かめる。そして辺りに充分な春の気が満ちたことを感じると、その綻びはあっという間に広がっていった。桜色に霞む景色はそのせいであり、まだ二分咲きといったところの桜を花見と称して楽しむ心は、天狗もわからないでもなかった。寒いより暖かな方が、無彩より多彩な方がずっと楽しいに決まっている。何より、人間にはその気持ちを代弁するかのような便利な言葉があった。
 花より団子。花見と称して春を喜びたい、平たく言えば皆と騒ぎたいだけにすぎない。だから今も下界は騒がしく、時折、肉を焼く匂いや酒の匂い、甘い匂いなども風に乗ってやって来た。どれもこれも、いつもなら顔を背けて避けて通るものだが、この季節ばかりは天狗も心が浮つくのを止められなかった。
 そのため、今の季節は陽気に誘われて常より足──もとい、羽を遠くまで伸ばしている。本当なら嵐の服でも借りて人の姿で花見客に混じりたかったが、一人で行動するなという厳命が下ったため、天狗は渋々ながらそれに従っていた。一人でも大丈夫という強気と好奇心も、嵐の雷に打たれる可能性を思えば今は眠ってもらう他ない。週末には、と、半ば無理矢理取り付けた約束もどこまで守ってもらえるのかわからず、上機嫌と不機嫌とを足して、一寸ほど上機嫌が勝っているような心持であった。
 天狗は羽ばたきを極力減らして、風に乗る。春風が風切り羽の間をすり抜けていくのが心地よく、ささくれ立った気持ちを宥めるのに一役買っている。
──この季節に感謝してもらいたいくらいだ。
 これが寒い冬であれば、と天狗は想像を逞しくして気分を良くする。彼の気分をなだめるものなどほとんどない。ささくれた気持ちに従うまま力をふるい、嵐に一泡吹かせてやるくらい造作もない。
 当初は天狗の扱いに困って大抵の傍若無人を許してはいたが、最近では慣れたらしく、こうして行動を阻害することもままあった。餌場よろしくついてきたものの、やはり居候というものは古今東西どこでも肩身の狭いものであると、天狗は最近になって身に染みてそう思うようになった。

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