いつもの街並みの北端を通り過ぎたところで、天狗は慌ててはばたき直して旋回する。この街に天狗の縄張りがあるように、余所には余所の縄張りが存在する。断りもなく入れば嵐の雷以上に厄介な事になるものだった。
 旋回した先では低い山が軒を連ねており、いつだか竜の卵を顔で受け止めた山も見える。あの時は気にもしなかったが、こんもりとした山の中にぽつぽつと桜が色を添えて美しかった。周囲が淡い緑色であるために、余計に桜が際立って見える。遠い昔に母親が語って聞かせた、可憐な姫のようだと天狗は思った。とすれば、周囲に座すのは無骨なお付き共というわけか、と考えるとおかしくなり、ゆらゆらと空を漂いながらその風景を眺める。
 と、その時だった。背中をざわつくものが走り、天狗は大きく羽ばたいて方向転換する。そのまま微妙に体を傾けて、小さな範囲を旋回した。
──いくらか勘に障る匂いがする。
 背中を走ったものは悪寒というよりは武者震いに近いのだろう。同程度の相手として迎えることはないものの、あまり縄張りをうろちょろされては気になる。それが縄張りの最たるものである嵐の周りであればなおさらで、獲物を見つけるのに適した視力はすぐさま、地上を走る小さな影を見出すのだった。
 春の陽気に誘われて外出する者も多く、住宅街であっても人の姿は絶えない。その隙を縫うようにして、金色の影がちょろちょろと動いていた。陽光を鈍く反射して美しい毛並は存在感を増し、ふさふさとした尻尾が時に楽しげに、時に緊張しつつ揺れている。あの子狐だと、天狗はすぐにわかった。
 人の気配を察しては立ち止まってやり過ごし、車に驚いて塀の上へ逃げたかと思えば、飼い犬に吠えられて一目散に逃げる。あの毛色が無機質な住宅街にあるのも問題で、逃げても人の目の端に捉えられ、追いかけられることもしばしばあった。
 一進一退を繰り返す姿は上空を自由に動き回れる天狗から見ればやきもきさせられるほどで、一度は咥えて空に持ち上げてしまおうかとさえ思ったが、安易に助けるのも癪なような気がして止めた。自分はあの狐々とかいう子狐よりもはるかに人生の先輩なのである、だからやたらに手を出してはならない、などという妙な先輩風がその背中を押していたが、一方で、好奇心が働いていたことは否めなかった。
 何をしているのだろう、と少しだけ高度を落として狐々の追跡を開始する。
 三歩歩いて二歩下がるを順当に行い、地道に距離を稼いでいくうちに、狐々は生垣に挟まれた道へと入り込んだ。どちらもよくある二階建てのこぢんまりとした民家だが、生垣は立派に手入れされた細い竹によるもので、格子に作られた支柱が緑の合間から見える。道路に飛び出しすぎないように刈り込まれてはいるが、いくらか雑多な風合いも残しており、狐々一匹の姿を隠すには充分な目隠しだった。
 加えて、そこが袋小路になっているために人通りも極端に少ない。先刻よりも堂々とした足取りで奥へ進んでいく狐々は、少し安堵しているようだった。ここが目的地なのか、だとしたら何とも物寂しい日陰だが、と天狗が首を傾げていると、生垣の下から白い影が現れる。
「……」
 毛並の良さは見なくともわかる。天狗は一瞬でうんざりとした。あれは猫の姿をした水月だ。

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