056.蜂蜜(2)
しかも、名前には「様」つきときたものだ。生まれてこの方、誰かに「様」つきで呼ばれるほど偉くなったこともないナーティオにすれば、ここで喜ぶのが妥当だろうが、彼女相手にはただ調子を狂わされるだけである。
そして狂わされ続けた調子は戻ろうとしても、本来の調子を忘れ始めていた。
おかしい。何かがおかしい。彼女がいなければ頭をかきむしっているところだが、目の前にしてそんな醜態を晒すことは出来ない。彼女の目にはナーティオの行動の一つ一つが真新しく映るようで、現に、テーブルの上に飛び乗った状態を咎めることなく眺めている。
しかも嬉しそうに。
何がそんなに嬉しいんだ?
「……お前さあ」
じっとりとした目つきで彼女を見つめる。
「オレ相手に怖がるならわかるよ?でもさ、嬉しがるってどうにも理解出来ねえんだけど」
初めはなんとか自分のペースに巻き込もうと躍起になっていたナーティオだが、その更に上を行く彼女のペースはナーティオのそれをも飲み込んで、ゆったりとした空気を作り出していた。
今まで襲った獲物の全てが恐怖にかられた目の色をしていたというのに、彼女の緑色の瞳は春の暖かさすら感じる。そこに恐怖は微塵もなく、逆に、見られているこちらの気持ちが暖かくなるのを覚えた。
──ん?おかしいぞ。
ナーティオの問いに答えを考えている彼女を眺めていると、暖かい気持ちは段々と熱を帯びてくる。それは今までに経験したことのない熱さだった。
内心で首を捻る。
おかしいな。何がどうしてここまで熱くなっていくんだろう。まさか紅茶にブランデーが入っていたわけでもあるまいし──いやいや、ブランデー程度で酔うわけもないか。
彼女にわからないよう、必死になって熱の理由を探っていると、目の前で彼女はいささか寂しげに微笑んだ。
──あれ。
今までに見たことのない笑顔だ。
「私、お友達がずっと欲しかったんです。月並みな言葉と思われるでしょうけど、私にはその月並みな事がとても遠い」
「……聖女だから?」
聞いたことがあった。幼少の頃に聖女としての証をたてられた彼女は、すぐさま両親の下から離されてこの教会へ移り住んだという。以来およそ二十年間、外界に一切触れることなく育った彼女は確かに純粋培養の聖女様に成長したが、一方で、同じ年頃の娘が体験する全てのことを剥奪されたのだ。
彼女は静かに笑う。
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