056.蜂蜜(3)


「シスターも神父様も、私のお世話をしてくれるここの皆さん全て、私は好きですわ。私をここまで育てて下さったことに感謝しています」

 でも、と胸に手を当てた。自分の心に問いかけているようでもある。

「私はこの世界しか知らない。この世界以上のことを知る権利は、私にはないのですか?」

 す、と笑みをおさめた顔は必死で、ナーティオはぼんやりと、彼女の真実が見えた気がした。

──緩慢な死。

 彼女の周りにはあらゆる物が揃っている。最高の教育に最高の品々、しかし、それは彼女を育てる為のものではなく、彼らが求める聖女を育てる為のものなのだ。

 聖女という存在を通して見れば恵まれた環境だろうが、一個人である彼女の生き方は否定されたも同然である。

 美しく、慈悲に満ち、神に仕える聡明な女──ナーティオが想像する聖女像そのままに彼女は育ったが、その一方で押し潰された彼女自身の生き方はどこへ行くのだろう。それは誰も気付かぬまま、彼女の中で緩慢な死を遂げるのではないだろうか。

 それは、本当に幸福なことだろうか。

──なあ、神さまとやら?

「……あるさ」

 ナーティオは知らぬ間に呟いていた。彼女ははっとしたように目を見開く。

「オレがオレの権利でお前を選んだみたいに、お前にはお前の権利で自分の生きる道を選べる。オレは自分の権利を誰にも邪魔されたくないし、まだ死ぬつもりもないからここに来た」

 決めろよ、と言ってあぐらをかき、彼女の顔を覗き込む。

「お前の中でお前自身が死ぬ前に、今、決めるんだ」

 しばらくナーティオの顔を見つめていたが、やがて彼女は吹きだすようにして笑い出した。肩を揺らしてまで笑うさまは初めて見る。とはいえ、そんな感慨にふけるわけもなく、ナーティオがぽかんとしていると、ようやく笑いをおさめた彼女は目に浮かんだ涙を拭った。

「ごめんなさい。……そんなに真面目な顔……初めて……」

 そこでまた思い出したのだろう、くすくすと笑い始める。

 確かに彼女を前にしてここまで真面目に話したのは初めてだが、笑うことはないのではないか。気恥ずかしい思いと憮然とした思いが胸の奥で混ざり合い、うるさく騒ぎ立てる。

 じっとりと睨みつけてどんな言葉を被せてやろうか考えていると、彼女は笑みを浮かべながらナーティオを見た。

「もし私が決めたら、どんなお名前を下さいますか?」

「……は?」

 一瞬、頭の中が真っ白になる。彼女は満面の笑みを浮かべて再び問うた。

「私の新しいお名前は、ナーティオ様が決めて下さるのですか?」

──今なんと言って笑ったんだこの女は。

 停止した思考を起こすかのように、彼女はまだ目に残る涙を拭い、その手をナーティオの前に差し出す。

「今は皆の目もありますから血をお試しになることは出来ませんけど、涙なら」

 白い指の上で陽光を反射する涙を前に、ナーティオはようやく事態を察することが出来た。

──なん、て。

 胸の奥で訳のわからない熱が暴れまわり、それは顔をぱっと赤く染めた。

 耳まで熱くなる理由もわからず、ナーティオは彼女から視線を反らしながらぼそぼそと呟いた。

「何だそれ……ちくしょう……」

──聖女の血はミルクとなり、肉はパンとなる。

 そして涙は甘い蜂蜜などではなく、新たな出会いを繋ぐ橋となる。



終り

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