005.蝉時雨
最近、蝉の声が変わったと思う。
今までは油蝉とミンミンゼミが真っ昼間に声を競い合って、時々そこにツクツクホウシの声が混じり、夕方になると蜩が帰宅を告げた。
ところが今は驚いたことに。
ミンミンゼミの声が。
蜩の声が。
聞こえなかった。
ふう、と息を吐いて空を仰いでみる。
直視出来ぬ真白い真円が、容赦のない光をこちらに向けてふりまいていた。
──何とも迷惑な。
ポロシャツの襟が汗で濡れて気分が悪い。
何度もハンカチで汗を拭う。
しかし、それが無駄なことだとわかるまでに、それほど時間はかからなかった。
拭えば拭った分だけ更に汗は垂れ、体は水分を要求する。
要求されるままに水分を採れば、人間の体は不思議なもので、今度は便意を催し公衆トイレへ駆け込む。
いささかすっきりした顔で、トイレから出て辺りを見回した。
小さな公園である。
遊具といえるものもブランコ程度で、あとは砂場と木々と広場とトイレと、そしてベンチだけしかない。
小さな、公園だ。
日差しのきついこの時間、大事な子供を外に出そうなどと無謀な親はいない。
小さな公園は、ベンチに座る男一人だけの世界になっていた。
白っぽい地面からの照り返しは強く、木陰のベンチにも容赦がない。
──まったく。
また、汗を拭った。
五年というのは早い。
矢の如く、と称するよりも音速で過ぎ去っている気がする。
例えば五年前の携帯は今ほど高性能ではなかった。
メール、という言葉がいたく新鮮に聞こえ、ポケベル、という言葉は退廃したようだ。
街行く人の格好一つとっても、五年前のそれとは大分違う。
──浦島太郎。
亀の恩返しで竜宮城という楽園のような所で暮らした浦島太郎。
絵本や昔話で聞かされるそれは、大層贅沢な話であった。
ところが、故郷に帰って来てみれば数百年の時が経ち、自身の知る故郷など見る陰もない。
そうして禁を破り、玉手箱を開けた浦島太郎は瞬時にして翁となり、鶴へと変化して飛び立つのだ。
──都合のいい。
実際、今の自分も浦島太郎だろうか。
行った先は楽園ではなかったが。
小さい頃から荒くれだったわけでは無いと思う。
決定的だったのは十七才の時。
母親の再婚相手の暴力に堪えかねて、反撃をした。
ただ自分と母親を守る為に、何かとても硬い物であれを殴ったように思う。
殴られた当人は勿論、警察も──更には母親までも、自分を否定した。
それが始まりだったように思う。
盗みから喧嘩から、気付いた時には暴力団の構成員になっていた。
腕や背中には、その頃の名残がある。
そしてある日、初めて人を刺した。
──温かかった。
血も、倒れる人も、自分の手も──頬を流れた涙も。
幸い、相手は一命をとりとめ、そうして自分は刑務所へ入った。
蒸せる空気。
沢山の人。
規則。
──時間。
殺人未遂とのことだったが、意外と刑期が短くて驚いたのを覚えている。
──こんなもんなのか。
自分は自分を罰して、償えるものなら何年かけても償いたいと思っていた。
時間で換算するものではないが、人の命とはそうあるべきだろうと。
ところが。
短い刑期は、懺悔の気持すらも。
償おうとする意思すらも奪う。
目的の無い日々が続いた。
ある時、日記を書いてみたが、綴られていく懺悔の言葉は己を縛り、その先に続く白いページ達は、それを埋めるまで許さないと言っている様で辛く、すぐさま止めた。
そして、またある時。
変わった男がやってきた。
ぼけらとしているかと思えばそうでなく。
日記を書くその姿があまりにも生き生きとしているので、二、三、言葉を交してみた。
良い、奴だ。
その男は、腕にたった一つ残った牡丹を美しいと言った。
素直に嬉しかった。
その男が刑期を終えて去る時。
素直に落胆した。
そうして彼から日記を渡された時。
──おれにも。
まだ託されるものが、あったのかと思った。
──渡しに、来て下さいよ。
今、自分は刑期を終えて晴れて自由の身である。
彼に渡した自分の日記を迎えに行き、また綴っていかなければならない。
懺悔と、自分を許していく言葉を。
立ち上がり、近くの公衆電話に向かった。
携帯などというハイテクの代わりに、一枚のテレホンカードが手元にある。
──忘れてるかもな。
それでも良い。
その時用の返事も、心構えも用意してある。
テレホンカードが吸い込まれ、震える手でボタンを押す。
──なかなか面白い光景だろうな。
中年の男が日記片手に真剣な顔をして、電話に向かう姿など。
コール音が一つ。
二つ。
三つ。
「はい」
「あ、ええと、おれ……」
「……ああ。お久しぶりです」
電話の向こうの声は嬉しそうに聞こえた。
その更に向こうでは電車の音と、遠く──
「久しぶりだな。元気してるか」
「お陰さまで。元気そうですね」
「忘れなかったぞ。今、手元にある」
「俺も。手元にあります」
「読んでねえだろな」
「そこまで趣味悪くないですよ。今から会いますか?」
「読まれちゃかなわねえからな。どこだ?」
「迎えに行きますよ。多分、家の近くは迷うと思うんで。今どこです?」
「ム所の近くの公園」
「遠いなぁ。車持ってないんで駅で待ち合わせしませんか」
「持ってないのかよ」
「金無いんです」
「わかった。な、お前んとこって田舎だろ」
「田舎ですよ。畑があったりして。何ですか?」
「やっぱなあ。いやな、後ろっから蝉の声が異様にしやがるから」
「何ですかそれ。じゃあ改札で待ってて下さいよ」
「ああ。じゃ後でな」
──遠く、蝉時雨。
ミンミンゼミと。
蜩と。
刑務所では時間の長さを知らせる様で恨んだ。
今は。
自分を迎える音。
友人へと招く声。
遠く。
蝉時雨。
終り
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