042.加速していく夕暮れ


 大きな事故だった。

 ここへ来て大惨事はそれほど珍しく感じなくなったが、時々にその感覚をも超越してしまうほどの事故が起きる。今日がそれだ。

 夜明けを待たずに救急隊員からの打診があった。

 自動車の玉突き事故により死傷者多数、近辺の救急医療病院ではベッドが足りず、こちらにも何人か迎え入れて欲しいという。あまりに緊急を要する事故の様相に感づいた医師がスピーカーのスイッチを入れた途端、受付の周囲が静まり返ったように感じた。

 矢継ぎ早に繰り出される言葉、それに受け答えする看護師、いくらかのんびりと夜明けを迎えていた面々が足を止めて聞き入る中、誰かが備え付けのテレビのスイッチを入れた。

 丁度、上空の映像から地上の映像に変わるところだった。

 唐突に訪れた事故にアナウンサーも間に合わなかったようで、カメラマンが必死になってあちらこちらにレンズを向けている。

 フロントが押し潰された乗用車に横転したトラック、原型も留めないほどに壊れた車が次々と映しだされ、そこここから上がる黒煙が視界を邪魔する。時々に爆発音と共に火の手が上がるのが見えた。

 泣き叫ぶ声に助けを求める声が混じり、悲鳴が喧騒を切り裂く。そこへ聞き覚えのあるサイレンの音がテレビから聞こえたところで、止まっていた時間がようやく動き出した。

 救急隊員とやり取りしていた看護師が状況を読み上げる。

「乗用車三台、トラック二台の玉突き。軽傷六名、重傷四名が来ます。そのうちの一人が子供で心停止。一名、意識混濁。軽傷も同じ救急車に乗り合わせて来るそうです」

 それを聞いたチーフの医師が各々に指示を飛ばす。

 ベッドの用意、医薬品の用意、外傷患者に対する処置の容易、そして各部門への伝達。

 一気に慌しくなったそこへ休む暇を与えず、連絡のあった救急車が次々とやってくる。

 半ば呆然と見ていた自分が任されたのはストレッチャーに寝かされた重症患者ではなく、その重症患者と救急車を乗り合わせてやってきた妊婦だった。

 彼女は汗でブロンドの髪を頬にはりつかせながら、弱弱しく笑った。

「……マルコ」

 暗闇で今までを振り返っていた彼に声がかけられる。産婦人科医のアンネが年相応の皺を寄せて見つめていた。

「寝たらどう?」

「大丈夫です。起きてますから」

「起きていても何もならないわよ」

「……いいんです。起きてます」

 忠告を聞かないマルコに呆れるでもなく、アンネは照明でそこだけ照らされた小さなベッドを見た。新生児用の本当に小さなベッドである。

 そこにはまだ生まれたばかりの赤ん坊が泣き声をあげるでもなく、穏やかに小さな胸を上下させていた。

 泣き声があげられなくて当然である。その小さな口には似合わない無骨な呼吸器が接続されていた。

 手首には個体認識用のバンドが巻かれ、腕には点滴が打たれている。

 規則的な呼吸器のポンプの音と、心電図の音が照明を落とした室内に響いた。

「状態は良好ね。明日には呼吸器も外せるでしょう」

「今、何時ですか」

「夕方の五時よ。夜勤からそのまま日勤にずれ込んだんじゃないの?」

「皆、そうですよ。僕だけじゃない」

「ミイラ取りがミイラ取りになっても笑えないわね。自分の体調管理はしっかりなさい」

「すみません。でも、もう少しだけ」

 マルコは弱弱しく笑った。

 溜め息をついたアンネは厳しい口調を抑えて言う。

「どのみち、この子の母親は助からなかった。責任を感じているならやめておきなさい」

「……あんなに、元気そうに見えたのに」

「そういうものよ。内臓出血が止まらなかったそうね」

 マルコは頷く。

「たぶん、ここへ来た時にはもうあちこちから出血していたんだと思います。……どうして笑えたのか……もう少し痛がったり、そんな表情を見せてくれたら……」

「彼女はもう母親であることを自覚していたのね。助からないこともわかってたんでしょう。だからあなたに子供の命を預けたのよ。……強いお母さんだわ」

 アンネの静かな口調がマルコの頭から指先にまで染みとおった。

「親類は?連絡したの」

 マルコは頭を横に振る。
「いわゆる天涯孤独ってやつで、この子の父親もわかりません。一応、警察と福祉課には連絡しておきました。早ければ今夜にでもどちらかから連絡はあると思います」

「……なら、尚更のこと寝ておきなさい。命令よ」

「じゃあ、もう少しだけ見たら、そうします」

 ぽん、と肩を叩いて去っていくアンネの心遣いがありがたかった。

 暗闇に心電図の音が鳴り響く。呼吸器の音も穏やかに暗闇を包み込んでくれた。

 目を閉じた赤ん坊は本当に愛らしい顔をしている。猿のようだと称する人間もいるが、元々、人は猿から進化したのだから当然だろう。

 この愛くるしさを見て、喜び、笑うべき人間は地下の遺体安置所でシーツをかけられている。

 こんなことは日常茶飯事で、その度に心を潰して接してきても、こうして時々やりきれなくなる事がある。

 自分はどうして医者なのだろう。どうして医者になってしまったのだろう。この手は命を救うにはあまりにも小さすぎる。

 マルコはふと、自分よりも遥かに小さい赤ん坊の手に自分の人差し指を添えた。すると、半ば反射的な動きでおもちゃのような手がそっと指に触れる。

 恐らくそれが何なのかもわかっていないだろうに、彼らはこの指を庇護する者として受け止めているのだろう。そこに彼らの意志はなく、ただ貪欲に生を求める結果の筋肉の反応と思う。

 でも、とマルコは泣きたいような笑いたいような気分にかられた。

「……いいさ、今のうちだ。……一杯頼ってくれよな……」

 暗い新生児室からは見えない外側で、加速していく夕暮れが夜を出迎えようとしている。

 それまでは、自分の指一つで支えになるなら、なってやろうと思った。



終り


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