約束学



うつむきのファジー

庁内の自動販売機でボトルの紅茶を一本買ったはいいものの、口もつけずにぼんやりとベンチで虚空を仰いでいた。
早いところ立ち上がらないと、昼食を迷う時間はおろか食べる時間すらもなくなってしまう。
硬さや値段はたいして変わらないだろうに、デスクの椅子よりもこのベンチの方が不思議と座り心地がいい。ベンチは私を仕事に縛りつけないからだろうか。
そうこうしているうちに休憩時間が溶けていく。このまま氷みたいに跡形もなく消えて、私をまた仕事へと追い立てるのだ。

「見つけた。こんなところにいたのか」
「降谷さん?」

彼の自宅やデスクでよく見かけるランチバッグの色違いのものを提げて、降谷さんがひらりと手を振った。
突然の上司の登場に、反射的に立ち上がった私を座ってろと降谷さんの手がベンチに押し戻す。
缶珈琲を購入した降谷さんは、私の隣に腰掛けると。

「ほら。みょうじの分」

と言って私の膝にランチバッグを乗せてくれた。

「え?」
「弁当だよ。今朝持たせ忘れたから。それとも今日はいらなかった?」
「い、いりますいります! ありがとうございます!」
「どういたしまして」

缶のプルタブを引く傍ら、ふっ、と唇を仄かに曲げた降谷さん。そんな表情で見つめられると弱ってしまう。

「そろそろ戻らないと食べる時間もないんじゃないか?」
「そうですよね、行かなきゃ。降谷さんは?」
「僕も時間見つけて何か食べるよ」

自分の昼食も不確かなのに私に食べさせようと届けてくれたのか。

「あぁ、行く前に――」

腰を浮かせようとしたまさにそのときだった。
まず、苦いと思った。缶珈琲の安っぽい香りと苦味に眉を顰めかけたけれど、唇で感じる彼の温度にうっとりと目を細めた。
息ができない。自分で勝手に詰まらせているだけだけれど。
触れるだけのキスを終えると、降谷さんは破顔する。

「これで午後も頑張れそうだ」

幸せな白昼夢に溺れているみたいで、困る。


2021/02/03

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