じりじりと暑い夏が始まった。蝉の声が耳を刺激し、さらに暑さを感じさせる。自転車で上る山道は風を感じさせてくれるが、それでもやっぱり暑いもんは暑い。
ジャッジャッと自転車が前に進む。この音は好きだった。蝉の鳴き声の邪魔さえ入らなきゃなと思いながら走り続けていると、なにやら黒いものが道端に転がっていた。
それは昨日も見かけたもので、一昨日も、その前も、休日を挟んだその前にも見たものである。
「……名字なにしてんのォ?」
わかってはいるが、一応聞いてみる。念のためだ。もしかしたら自分の助けは必要ないかもしれない。もしかしたら今日こそ一人で登校することができるかもしれない。そんな淡い期待は顔を上げた後輩の顔色によって削ぎ落とされた。
「あ……荒北先輩いいところに」
顔色は真っ白の真っ青。夏バテかと思われるが違う。奴の顔はいつだってこうで、特に夏の登下校中は立ち上がる事さえできないくらいには真っ白の真っ青だった。
「……また行き倒れてんのかよ。いっそ趣味だろ、それ」
「誰が多趣味で好奇心溢れる可愛い後輩ですか……」
「なに勝手に色々くっつけてんだテメェ」
立てもしないくせに、いつもいつも口だけはよく回る。それはもうこの1年間で嫌というほど知っていた。最初こそ「大丈夫です、気にしないでください」と言っていた口からは「なにしてるんですか早くおぶってくださいよ」という憎らしさしかない言葉が出ていた。
「おめーはいつになったら一人で登校できるようになんだよ」
「去年より200mは一人で歩ける距離が進みました」と言うが、そういう問題じゃないと思う。しかもちょっと誇らしげなのがムカついた。
名字名前は、体力がすこぶるなかった。それこそ一人で登下校のたった1qやそこらを歩ききれないくらいには。普通の道ならよかったのかもしれないが、ここ箱根学園は山々に囲まれており、急勾配が続いていた。しかも彼女の家の方向からは丁度いいバスが出ていないらしく、こうして登校途中で倒れ込んでしまっている始末だ。
去年彼女を発見した荒北は、危うく人が死んでいるのかとさえ思ったくらいだ。近寄れば、ぜえぜえと息を切らしているのがわかったため救急車は呼ばなかったが。
「そういや初めて会ったとき、先輩が一度私を見捨てたじゃないですか」
ちょうど去年のことを思い出していると、名字も同じことを思い出していたのか去年の話を持ち出した。
「見捨てたとか言い方やめろ」
「でも、その後飲み物買って戻って来てくれて天使に見えましたよ。今も天使に見えてますけど」
「そうかヨ。オレァ最近お前が倒れてんの見つけると死神に見えんだけどな」
「褒めないでくださいよ」
「褒めてねェーよ糞後輩が」
片手で自転車を、もう片方の手で後輩を支える。名字が自力で登校するにはとんでもなく時間がかかるため、とても早くに家を出ているらしい。朝練に向かう自分と会うくらいに時間がかかるなんて、もしこのまま一人にしたらこの炎天下でこいつは生きていけるのだろうかと思った。
そんな心配をしてやっているというのに「荒北先輩運び屋とか呼ばれてるんでしょ。頑張ってくださいよ」と運ばせていることに悪びれもなく言う後輩に、「ぶん投げられてェのかなお荷物チャンはよおおお」と地から響くような声で荒北が言った。だが女子生徒を投げ捨てているところを発見でもされれば明日には一躍校内新聞の表紙を飾ることになるので、暑い中ムカつく後輩を背負いなおした。
名字の体力は相変わらずない。今日も運ばされた荒北は「お礼です」と名字に奢られたジュースの残りを授業の合間に口にしていた。買った当初は冷たく喉を潤してくれていたそれも、今ではほとんど炭酸の抜けた甘い汁へと変わっていた。
「靖友、今日も名字さんおぶってきてたな」
新開と東堂がにやにやと笑いながら近付いてきた。口からペットボトルを離して「あァ?」とガラ悪く返事をすると「毎回運んでやるなんて荒北も優しい所があるではないか」と微笑ましそうに言われてしまった。別に、そういうわけじゃない。道端に倒れているから運んでいるだけで、誰だってそうするだろう。
「でも仲いいよな。俺も珍しく靖友より早く出たときに彼女を見つけたんだけど、断られたんだよな」
「は? なんで」
「“新開先輩だとファンの方に叱られそうなんで”だとさ」
「あいつ殺す」と瞬時に声が出たのはさすがに自分でも驚いた。驚くことに、名字は誰にも叱られないからオレに運ばせているらしい。それはあれか、ファンがいねーからってか。やかましいわ。
「だからあいつオレが来るとやっと来たって顔すんのか。死ね」
「可愛い後輩にそんな言い方ないだろ」
「そうだぞ。荒北に懐いてくれるのなんてあの子くらいなものだぞ」
「テメェ東堂表出ろ」
「すぐこれだ。名字さんには甘いのに」
「誰が甘いだよバァカ」
「そういや、名字さんは靖友に軽い態度でも許されてるよな」と新開が言った。後輩なのに、というニュアンスが混じっており、「あれはまァ……ま、いいんだよ」と曖昧に返事をした。
「贔屓だ。女子贔屓だ」
「ッセーな! そんなんじゃねーよ!!」
完全に荒北を舐め腐っている後輩は、別に同じ部活というわけではない。直属の後輩なら指導もしやすいが、彼女と自分はいわば登下校の道が同じというだけの繋がりだった。そんな相手に一々先輩への礼儀を説くのは面倒臭いし、なによりそういう指導はあまり得意ではなかったため一度もしたことがない。
「あ、名字さんだ」
いじることに飽きたのか、外に彼女の姿を見つけたからか、東堂が窓の外を見た。東堂の声につられ、荒北も外に視線をやる。次の授業は体育なのか、体操服姿で名字がグラウンドに立っていた。元よりない体力を少しでも温存するつもりなのか、日陰でぼーっとつったっている。日向のほうには黒田などの見慣れた面子がいて、そういやあいつら同じクラスだったんだなと思った。
「あ、」
つい声に出た。日陰にいたそいつが、確かにこちらに視線を寄越した。ぱちりと視線が合うと荒北に気付いたのか大きく手を振って来た。その仕草がどこかだるそうで、可愛げがあるんだかないんだかよくわからなかった。
次いで、東堂と新開にも気付いたのか今度はきっちりと頭を下げていた。なんでオレには頭下げねーんだよ糞がと思いながらそれを見ていると、荒北の居る教室に次の数学教師が入ってきた。それと同時に、授業開始のチャイムが鳴った。
「起立ー」日直が少し大きな声で言うと同時に教室中が立ち上がる。グラウンドの方も教師が来たのか、まばらに生徒たちが校庭の中心に集まりだした。名字も日陰から出て、中心に向かった。
ぱく、と名字が口を動かした。確実にこちらと視線が合っている状態で。何か言ってんのか?と思いながらその口の動きを見ていると、あ、と口を大きく開けていた。
あいいえう?口の動きを読み取った荒北が首を傾げると、面白そうに口元に手をやりながら列に並んでいった。クラスの列についた名字は黒田の肩を叩くと荒北の方向に向かせる。黒田は直の先輩の姿に頭を下げ、名字はといえば爆笑して黒田の肩をばしばしと叩いていた。
あんなに笑うなんて珍しいな、と思いつつ黒板に視線を移した。それでも開いた窓から体育の声が聞こえてくるとつい外を見てしまい、少しだけノートを取り損ねた。東堂に借りるのはムカつくので新開に借りようとすれば「お、見とれてたか?」とくだらないからかいをしてきたので頭を叩いておいた。
「お前ェあのときなんて言ったんだよ」
翌日、道端で行き倒れている名字を発見した荒北は半ばお約束のように背中に背負った。名字はあのとき?と首を傾げ、体育のときのことを言うと「ああ、」と思い出したように声を上げた。
「特に意味はないです。荒北先輩が考える顔が面白くて」
ぶちっとキレそうになり「本気で落とすぞテメェ!」と体を思いっきり揺らす。だがビビることなく「きゃーこわーい」ときゃっきゃと笑われ、こいつには何をしても通じないのかと思った。揺れるのをやめると、「そんなことより」と名字が話題を変えた。そんなことってなんだ。
「夏でしたよねインターハイって」
「あァ? 急にどーした」
「応援に行ってあげましょうか」なんて笑う名字に、荒北は少しだけ思案したのち、「登下校で倒れるお前ェが、インハイの熱さに耐えられるかバカ」とそれを却下する。暢気に肩越しに笑い声が聞こえ、笑ってんじゃねーよと舌打ちした。
お前が倒れたら、回収に行くのは誰だと思ってんだろうか。インターハイの大事な場面でまで面倒を見るつもりはない。後輩たちだってサポートに忙しいし厄介事は少ない方がいい。まあ、親がくるとかなら来てもいいか、と少し思った。
「インハイ終わったら、先輩って朝練来なくなるんですよね」
「……まァ、一応な」
「そうなると、私とこうして会う事もなくなるかもしれませんね」
「そうだな」
「寂しいですか?」
聞かれた質問に、「清々するわバァカ」と言ってやった。背中にいるそいつは「そうですか」となんでもないように返事をしていた。
「私は寂しいですけどね」
「だろーな…………は?」
「私も清々しますよ」とでも言われると思っていたら、思わぬ言葉につい振り返ってしまった。そこにはいつも通り無表情のそいつがいて、「だって」と小さく眉を下げていた。
「先輩がいなくなったら、誰が私を運ぶんですか」
しゅん、と珍しく暗い声音の名字に、荒北もつい眉を下げてその顔を見ていた。二人の間に、なんとなく寂しい空気が漂う。だが荒北はとあることに気付くと、「あ?」と眉間に皺を寄せた。
「ちょっといい話風にしようとしてっけど、そもそもオレがお前ェを運ぶ義理なんてねェだろうが!!」
「あ、バレました? 荒北先輩相手ならいけると思ったんですけどね」
「夏が終わったら自家用車でも購入されたらいかがですかねお荷物よおおおお!!」
苛立ちをあらわにする荒北に、名字は「えっ先輩運転してくれるんですか」と嬉しそうに言っていた。そういうことじゃねぇよごらああ!!とキレる荒北を、名字が「まあまあ、落ち着いてくださいよ」なんて宥めた。誰のせいでこんなに苛ついていると思っているのだろうか。
「っ大体、んなもん黒田にでも運ばせればいいだろ」
同じクラスで、仲もよさそうだったのを思い出して言うと、「黒田くん私を見つけると速攻で逃げるんですよ」と返された。まあ、気持ちはわかる。「うぜぇしなお前」と黒田に同意すると機嫌を悪くしたのか、「酷いですね」と文句を言っていた。
「ああそうだ、泉田がいんだろ。あいつならきっちり介抱してくれんぜ」
「泉田くんは介抱ついでに体力増強メニュー組んでくるから嫌です」
「いいだろ。体力つけろよ」
そんでオレに迷惑かけんな。心の中で付け足すと名字が「やですよ」と言った。同時に、名字の荒北を掴む手が少し強くなった。
「体力つけたら、荒北先輩に運んでもらえないじゃないですか」
「ハァ?」
今日のこいつは、随分とらしくないことを言う。先ほどと同じようにからかっているのかと思って言葉を色々と解釈してみたが、出てきた結論がどうもおかしなものばかりだった。
「おめーそれどういう、」
結局よくわからなかったため、どういう意味か聞こうと振り返る。と、言葉と同じようにらしくない顔をしたそいつがいた。いつも大体すかした顔のそいつが、顔を真っ赤に、していた。
「…………は、なに」
「……振り返らないでちゃきちゃき歩いてください運び屋なんでしょ」
「いや、いやいやいやお前、なに、は、なん、だそれ」
「なんでもないですこれじゃ運び屋じゃないですよ運べない屋ですよ早く歩いてください」
顔を伏せて一息で言う文句が、右耳から左耳へと抜け落ちていく。随分経ってから「運べない屋ってなんだよ」という感想が出ただけで、このときの荒北にはまるで文句は聞き取れなかった。ただ、名字の顔を見るだけで精いっぱい、で。
「……早く、歩いて」
小さく聞こえた声に、色々と察した荒北はようやく顔を前に戻した。それから、普段よりも少し遅い足取りで通学路を歩いた。
「…………お前、バカだろ」
「……バカじゃないです。成績いいです」
「……そういうバカじゃねーよ」
蝉がよく鳴いている。蝉に紛れて、とても大きなどくどくとしたものが背中越しに伝わって来た。じりじりと太陽の照り返しが体に熱を持たせて、どうにも暑い。汗が顔を伝って焼けたアスファルトに落ちる。そういえば今日の気温は38度を超すと言っていた。暑すぎて、いっそこいつは馬鹿になったんじゃないかと思った。
「なァ、来れば」
「なに」
「インハイ」
そう言ってしまったのも多分、暑すぎて馬鹿になったからだ。後ろから「死なないようにします」と言われて、なんだか嬉しくなったのも馬鹿になったから。引っ付いた肌が暑い。これは夏のせいだなんて使い古された表現が頭をよぎった。今回だけは本当に夏のせいだから。多分。
猛暑日38度は私の味方
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