夢のあとさき
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「……なんの?」
唐突に言われて本当に何の話か分からなかった。私は体を起こしてようやくゼロスを振り向いた。
「救いの塔でさ、助けてくれただろ」
「……?あのとき助けてくれたのはゼロスだっただろう」
「ちげぇよ。……リーガルは俺さまのこと怪しんでた。ま、当然だよな。でもレティは俺が戻ってきても、当たり前の顔してたからさ」
「それは……」
あのときのことか、と思い出す。ゼロスはずいぶんと細かいことを気にしているようだった。それだけ、裏切っていた――クルシスとレネゲードと通じていたことに罪悪感を抱いているのだろうか。ロイドはとっくに許していたし、彼のことを信じているというのに。
「私はその場にいなかったからそう言えただけだよ。実際にコレットが連れ去られてるのを見てたらどうだったか分からない」
「それはそうかもな」
「でしょう」
「でも、そうじゃなかったから俺さまちょっぴり感動したわけ」
それだけで?と思ったが私は言わないでおいた。私がどう考えて言ったかはゼロスにはきっと関係なかったからだ。ゼロスがどう受け止めたかが、彼にとって大切なのだろう。
「レティちゃんはずっと知ってたんだよな。いつから気づいてたんだ?俺さまがスパイだってこと」
「まあ、最初から怪しかったけど。もともとゼロスは監視でついてきたんだしね。教皇がディザイアンと繋がってたみたいにテセアラのマナの神子という地位にあるあなたがクルシスと繋がりを持っているというのは想像に難くなかったし、それに私耳もよかったからさ」
ゼロスが知らない誰かと喋っている声を幾度か耳にしたことがある。女性に声をかけているときの浮ついた声とは正反対だった。あれはレネゲードやクルシスとの通信の声だったのだろう。
それともう一つ。これは言わないでおくが、レネゲードの基地で手伝いをしていたときに一度ユアンがゼロスと話していると思しき場面に出くわしたことがあるのだ。その時の私はなにもリアクションができなかったから聞いてたことをユアンに気づかれなかったというのもある。
「そっか。レティちゃんは天使化してたんだよな」
「そういうこと。コレットのことは気をつけてたかもしれないけど、私にまで気が回らなかったんだろう?」
「はあ……そっかぁ」
ゼロスは気が抜けたようにベンチの背もたれに背中を預けた。その横顔を見つめる。
「ゼロスは、神子をやめたかったんだね」
「……まあな」
「神子が嫌だったんでしょう?」
「そうだなぁ」
「……嫌な役割を、セレスさんに押し付けるつもりだったの?」
青い、すこし冷たい印象の瞳がこちらを見た。ゼロスはつり目で綺麗な顔をしているので、笑ったりしていないと氷のような鋭さのある風貌だなと思った。
「それはちげぇよ。言ったろ?セレスの方が神子にふさわしいって」
「ふさわしいって何?神子なんてマーテルの器を作るための道具にしかすぎない。テセアラでは地位が高かったかもしれないけど、ゼロスは旅の間で本当のことを知ってたはずだ。それでも、セレスに押し付けようと思った?」
「……」
ゼロスはゆっくりと瞬いた。それはなにか感情を抑えるための仕草だったのかもしれない。私よりも大人で、貴族の世界で過ごしてきて、スパイだってこなすくらいに器用なゼロスはそんな場面がいくつもあっただろうから。
「そう……言われるとなぁ。だけどよ、セレスは俺のせいで修道院に閉じ込められてるんだぜ?」
「ゼロスのせいで……?」
「そ。俺がいるから、セレスは神子になれなかった。だからセレスの母親は次代の神子の俺さまを殺そうとしたってワケ」
しかしゼロスは生きている。背中に冷たい汗がつたった。動悸が激しくなるのが分かる。
この話をゼロスにさせてしまっていいのだろうか。そればかりが頭を巡る。
「ぜ、ゼロス」
「だけど暗殺者が放った魔術が殺したのは俺の母親だった」
「……いい、私が、悪かったから、もう……」
「俺の母親が最後になんて言ったかわかるか?」
私は首を横に振った。震える手をゼロスに伸ばす。肩を掴んでもゼロスは拒まなかった。かわりに、私の瞳を覗き込む。
「もういいから……」
「――おまえなんか、生まなければよかった」
心臓が凍るようだった。ゼロスのむき出しになった肩に触れている私の手は汗で湿っているだろう。
ゼロスが神子をセレスに譲ろうとしたのはセレスにつらい思いをさせたいからなんかじゃない。ただ、それが正しい在り方だと思っていたからだろう。そこまでゼロスが追い詰められていたなんて知らなかった。
やはり、私は無知だから、大いなる実りの間に向かう途中であんなことをゼロスに言えたのだろう。無知だったからゼロスを信じようと思ったのだろう。それは結果的にゼロスを助けることができたのだろうけど、本当のことを知ると罪悪感が胸に募った。
ゼロスは私を覗き込むのをやめると手首を取ってきた。肩に乗せた手をやんわりと外しながらふっと微笑む。
「わりぃな。こんな話されても困るだろ」
「――ゼロスは!」
その手を振りほどいてゼロスの肩をもう一度掴む。すがるようでもあった。私たちは、目が丸くなって瞳孔が開いているのが分かるくらいに近くにいた。
「もう神子なんかじゃない!セレスは修道院から出られるし、仲直りだってできる!」
「……セレスは、」
「セレスはあなたのことを心配してたんだよ。嫌いな人の心配をする人なんていない」
もしセレスが本当のことを知らないとしても、彼女がゼロスのことを心配していたという事実だけは消えない。ゼロスが神子であることからしても父親が生きているかは怪しい。つまり、たった二人の肉親なのだ。ゼロスがなぜセレスのことをあんなふうに気にかけていたかが分かって結び目が解けていくようだった。
ゼロスだってセレスには負い目以外のものを抱えているのだろう。それはきっとシンプルに、妹を思いやる兄の気持ちだ。
「ゼロスのお母さまがそう言ったことは消えないし、私は今のあなたに声をかけることしかできない。でも、ゼロスはもうそのときのあなたとは違うから……だから、」
続く言葉に私は詰まってしまった。だから、なんなのだろう?私に慰められてゼロスは嬉しいのだろうか?えらそうなことは言えないし、と言葉に迷っているとゼロスが目の前でやわらかく微笑んでいるのが見えた。
「……ありがと」
少しだけでも伝わったのだろうか。そう思うことにする。だから私はゼロスの肩に乗せていた手を首から頬に回して、ベンチの上で片膝を立てた。そうするとゼロスよりも目線が上になる。
「レティ、ちゃ……」
ゼロスの髪はヘアバンドで上げられている。その下、眉間より少し上の額に私はそっと唇を落とした。
「これからのあなたに幸せが訪れますように」
口角を上げて見せる。精いっぱいの祈りを込めて、その言葉をささやいた。


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