リピカの箱庭
108

メシュティアリカの障気蝕害の治療は無事に終わったが、問題はスピノザの障気隔離案の検討の方だった。結局はベルケンドの協力も要請することになり、一時的にスピノザ以下の研究者三名をアルビオールでベルケンドへ送り込んだ。
彼らは無事成果を出してくれたどころか、ベルケンドから研究結果を持ち帰ってきた。いいのかと心配になったが、知事の了解も得ているらしい。
「こちらも障気蝕害治療の技術を伝えているからギブアンドテイクだ。それにガルディオス伯爵は人間のレプリカ製造を許すつもりはないのだろう?」
「それはそうですが。……これを見て暴走する者がいないといいのですが」
ヘンケンさんに信用されているのはいいのだけれど、この手の禁忌は好奇心を唆るものでもある。人間のレプリカを作ることでこの上ない成果を得られると分かればそうしたくなる研究者が出てきても不思議ではない。
ガイドラインの更なる徹底と体制づくりが必要だ。山積みの問題を抱えながらも、フォミクリーに手を出したのは私自身だ。その責任は取らなくてはならない。
「しかし、ベルケンドでは危なかったな。まだ神託の盾兵がおって危うくスピノザが見つかるところだったぞ。あいつらハナからスピノザはベルケンドにいないと思い込んでくれていたようだったから助かったが」
「もう手は引いたと聞いていたのですが……。うかつでした」
「まあ無事だったのだから文句は言うまい。向こうの助力は必要だったしな」
結果オーライと言えばそれまでだが、スピノザを失って困るのはこちらなのだ。しばらくは研究所に留めておこう。まあ、ヴァンデスデルカもルークたちの相手で手一杯だと思うけれど。
「それで、残りのパッセージリングはロニール雪山だけということでしたか」
「ああ、ダアトのザレッホ火山のも――」
「ガルディオス伯爵ッ!」
パッセージリングの操作自体は順調だ。そんなふうに話していると、部屋に騎士が駆け込んできた。あまりの気迫につい立ち上がってしまう。
「何事です」
「神託の盾の奴が!」
「敵襲ですか」
そんなことはないだろう、と思った矢先にこれだ。全く、息をつく暇もない。
「敵の規模は」
そう尋ねると、騎士は――ホドグラドの若い騎士は、顔面蒼白のまま震える声で答えた。
「ひ、一人です」
「……一人?」
「はい。ガルディオス伯爵を出せと」
ちょっと待ってほしい。神託の盾兵が、たった一人でこの研究所に来て私を出せと言うか、普通。想定していた事態と大きくかけ離れていて、ついこめかみを揉んでしまった。
「……それはどのような人物ですか」
「はい!赤い長髪で、階級の高そうな男でした!」
「わかりました。行きましょう」
「ちょ、伯爵様!?危険です!」
だいたい予想がついたので私はさくさく向かうことにした。若い騎士が慌ててついてくるが、途中でアシュリークも駆けつけてきたので拾っていく。
「伯爵さま、神託の盾の奴が来たとか」
「はい、アッシュですね」
「アッシュって、鮮血のアッシュですか!?六神将がどうして」
「ああ……心配せずともよいですよ。アッシュは既に神託の盾騎士団から離反しています」
「はあ?!」
やれやれ、アッシュも真正面から研究所に突撃なんて目立つ真似をしなくてもいいのに。驚くアシュリークをとりあえず置いておいて研究所の入り口に向かうと、敷地に入る前の門でアッシュが騎士たちに囲まれていた。
「アッシュ。久しいですね」
騎士たちが私を見て驚いた顔で止めてこようとするが、制してアッシュに声をかける。アッシュは顔をしかめてこちらを見た。
「お前は相変わらずだな、ガラン」
「それはどうも。で、ご入り用なのは足ですか?」
「話が早い。飛晃艇を貸せ」
貸せ、とそう簡単に言われてもホイホイ貸せるものでもない。しかしタイミングのいいことに、アルビオールは今は救援活動もひと段落してホドグラドに停泊していた。
「どこへ行くのですか」
「ケテルブルクだ」
「あなたもアブソーブゲートへ?」
「……ふん」
アッシュは鼻を鳴らす。しかし困ったな。私とアッシュには実際のところ、表面化している信頼関係というものはない。アルビオールを貸して借りパクされたら困る。あれはかなり貴重なものなのだ。
「グズグズするな。何を考えているのかわからんが、俺が信頼できないならお前もついてくればいい」
「……なるほど。では、そうしましょうか」
「伯爵さま!」
アシュリークが慌てて引き留めてくるけれど、アッシュがこうも急いでいるということは時間がないということだ。私は集まった騎士たちに命令する。
「そこのあなた、エドヴァルドとグスターヴァスへ連絡を。私は飛晃艇でケテルブルクへ向かいます」
「はっ、はい!」
「残りは通常の体制に戻って警備を続けなさい。このことは他言無用です」
「承知しました」
「アシュリーク、あなたは――」
向き直ってこっそり耳打ちする。
「今警備に入っている騎士たちの身元を再度洗い、監視体制に入るようヒルデブラントに伝えてきなさい。終わったらアルビオールへ集合です」
「……!了解」
アシュリークはかすかに瞠目したが、すぐに頷いた。離れていく彼らを見送ってアッシュと二人残される。
「アッシュ、アルビオールはこっちだ」
「ああ」
研究所の中に入っていくとアッシュは素直についてきた。あたりを見回そうとすらしないのは興味がないからなのか、余裕がないからなのか。
「警戒心がないんじゃないか?」
「……ここで嵌められるなら俺がその程度だったというだけだ」
「それは潔いことだな」
アルビオールを格納している一角にたどり着いて、私はギンジを呼び出すように頼んだ。アシュリークと彼が着いたら出発だ。
「アッシュ、一つ言っておくが」
二人でいる間に伝えておくべきことがある。硬い表情のまま突っ立っているアッシュを振り返った。
「なんだ、今更恨み言か?」
「いいや。……私はガイではないからな」
「……」
アッシュが眉根を寄せる。彼は深く息を吐いた。
「お前とガイを混同なんてしていない」
「ではなぜ私をガランと呼ぶ?」
「お前がそう名乗ったからだろう」
「名乗った私が、ガルディオス家の者だと信じたくなかったからだろ。――ガイラルディアがそうだと」
あの時同情を寄せたのか悪かったのだろうか。わからない。けれど、私をガイと呼んだアッシュが少なからず裏切られたことはきっと本当だ。家族にも師匠にも友人にも、アッシュは裏切られている。
裏切られたことを信じたくないと、いまだに思っている。
「言っておくが、私は今更お前を公爵やルークと混同などしないし恨んでもいない。お前がガイと仲直りしたいなら手を貸してやろうか」
「俺はガイと仲違いなんかしていない!」
些細な言葉一つで激昂するアッシュは、はたから見れば子どものままだった。
ルークと大差のない、子どもだ。
全てを十歳の時に奪われた被害者だ。
「でもガイに嫌われて凹んだだろう」
「うるさい!」
「私に好かれたいのはガイに好かれたいのと同じじゃないか。別に私はそれでも構わないが、ガイはますますお前を嫌うと思うぞ」
「ガイはっ!……あいつは、俺の使用人だったんだぞ!」
広い格納庫にアッシュの悲鳴が響く。アッシュの根本は変わらずにルーク・フォン・ファブレだ。ヴァンデスデルカから離れて余計そうなっているのかもしれない。
酷なことを言っている。だが、彼に打ち込む楔で私が待っているのはこれしかない。
「私の兄だ。ガイラルディア・ガラン・ガルディオスはお前の父に家族を殺されて、復讐のために公爵家に入り込んだマルクトの人間だ」
「っ」
目をそらすのは責められることじゃない。けれどそれでは、彼はルークに置いていかれるだけだ。
「お前はアッシュだ。ルーク・フォン・ファブレが恋しいか?」
「違う、俺は……あいつと……」
「手放したのがお前自身なら、ガイと元には戻れないぞ。新しく友達になるしかない。心配するな、ガイはルークとも友達になったようなやつだ。お前がちゃんと向き合えば仲直りしてくれるよ」
「……」
アッシュだってわがままな貴族のおぼっちゃまではない。選ぶのは自分自身でなくてはならない。アッシュの心の支えはそれだと思う。奪われたと憎悪を燃やすのではなく、掴み取ることを肯定してほしい。
私のエゴだ。彼を傷つけても、自滅するような真似はしないでほしい。
アッシュはうつむいてしばらく黙り込んでから、ため息をついた。
「お前のそれはわざとなのか?」
「ん?」
「ガイの真似か?似てない」
王族の証である緑の瞳はいくらか穏やかに見えた。私は肩を竦める。
「最初に間違えたのはそちらのくせに、よく言いますね」
「顔が同じなんだよ。今はちげえけど」
「おや、ようやく見えるようになりましたか」
「ガイはお前みたいに嫌味っぽくねえ」
「失敬な。私は慈悲深いと評判ですよ」
「よく言う。ナタリアは騙されてんだ」
本当に失礼である。ま、これくらいはかわいいものだ。憎まれ役くらいはやってやろう。
ぶつくさと言い合っていると、遅れてやってきたアシュリークが腹を立ててアッシュに掴みかかりそうになったのをなだめるはめになったのだった。


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