リピカの箱庭
幕間25

グランコクマの夜は暗いだけではないが、貴族の邸宅が建ち並ぶ通りは繁華街と比べて灯りも少ない。コツ、コツ、と靴を鳴らして歩くティアに最初に気がついたのは騎士だった。
「ティア?どうしたんだ、こんな時間に」
「ヒルデブラントさん」
顔なじみの騎士はティアを見て怪訝そうな顔をする。それもそうだ。他人の、しかも貴族の家を訪ねるのにこんな時間にアポもなしというのは不審すぎる。
けれどティアはこうするしかなかった。自分の向こう見ずなところは、もしかすると実の兄を貴族の屋敷で襲ったときと大差ないのかもしれない。
「あの……伯爵さまに、お目通りできますか……」
「それは……。いや、ティア。顔色が悪い。休んでいくといい」
「でも」
「大丈夫だ」
騎士としては看過できる事態ではなかっただろう。ティアはもう、神託の盾兵としてこの屋敷を出ている。けれどヒルデブラントは、昔の知人として迎え入れるためにわざわざ言い訳を作ってくれた。
ほっと息を吐きながらティアは屋敷の門をくぐった。ユリアシティを離れ、初めて足を踏み入れたときと同じくらい緊張していたかもしれない。指先が冷える。
「あら……ティア?」
屋敷に入って真っ先に声をかけてきたのはジョゼットだった。ティアを案内していたヒルデブラントが説明する。
「伯爵に用があるようだ。だが、その前に休ませてやってほしい」
「そうね。ひどい顔色よ、ティア。症状がよくないの?」
「いえ……」
障気蝕害の症状自体は薬で収まっている。ティアは首を横に振ったが、ジョゼットは手早く客間に案内するとティアをソファに座らせた。膝掛けを持ってきてかけてくれる。この屋敷で使っている洗剤の香りがした。
「横になっていた方がいいわ。伯爵に会うのはいいけれど、その顔色では心配させてしまうわよ」
「でも、私」
「ティア、落ち着いて。あなたの仲間には声をかけてきたの?」
ティアはゆるく首を横に振った。そこまで頭が回らなかったのだ。いや、ホドグラドの研究所に来たときから――障気蝕害の治療ができると言われたときからティアはずっと考え込んで周りに気を遣える状態ではなかった。明日にでも治療ができそうだと言われても、まだ。
「では、一報を入れなくてはね。ルーク様だってあなたを心配していたでしょう」
「はい……すみません」
「……いいのよ。何か飲みたい?」
「大丈夫です」
「わかったわ。伯爵が来るまで休んでいるのよ、いいわね」
念を押してジョゼットは部屋を出て行った。ティアは言われた通りに――起き上がる気力のないまま横になり、目を閉じる。この無気力は障気蝕害のせいだけではない。心を蝕む考えのせいだ。

カチャ、と硬いものの擦れる音がかすかに聞こえる。カップの音だ――そう気がついて、ティアはばっと体を起こした。
「伯爵さま!?」
急に飛び起きたティアにも、伯爵は全く動じずに書類から視線を上げた。
「起きましたか。流石にソファで夜を過ごさせるわけにはいきませんから、そろそろ起こそうと思っていたところです」
「え、あっ、すみません!」
「いいえ、構いません。お茶でも飲んで落ち着きなさい」
伯爵はそう言うとティーコジーを傍に起き、ポットを傾けて用意されていたもう一つのカップに液体を注いだ。それを覚醒しきらない頭で眺めていたティアは、再びはっとする。
「すみません、伯爵さまにこんなことを!」
「ふ、あなたはグランツ響長ではなくメシュティアリカとして来たのでしょう?今更気にすることでもありませんよ」
ソーサーに載せたカップを渡され、ティアは俯いた。紅茶よりも黄緑がかった水面に自分の不安げな顔が映る。
「今日はホットミルクではありませんが、落ち着きますよ」
「はい……。いただきます」
幼い頃も、アクゼリュスの夜も、ガルディオス伯爵に作ってもらったホットミルクは不安なティアの心を和らげた。けれど今夜は違う。ハーブティーに口をつけたティアは、温い液体を飲み込んで小さく息を吐いた。
「……伯爵さま、あの、シェリダンで……兄に会ったとき……兄は、どうでしたか」
そう切り出すと、伯爵は小首を傾げた。
「どう、とは?」
「兄だって同じはずなんです。パッセージリングを動かして、障気が体に流れ込んできているはず。でも、兄さんは治療もできていないんです」
「……それは、必要がないからでしょう」
ティアは顔を上げてガルディオス伯爵を見た。ひどく冷たい、いや、なんの感情も浮かんでいない顔にぞっとする。
ガルディオス伯爵は厳しいひとだが、優しくもあるとティアは思う。差し伸べてくる手はあたたかい。なのに、兄に対しては――。
「ヴァンデスデルカはレプリカの世界を作るのですから。ならば、最後に自身もレプリカにならなければ完成しない」
「そんな!じゃあ、兄さんは死ぬつもりなんですか!?」
「あなたの兄はそれができるのですよ、メシュティアリカ」
まさに兄を倒そうとしている自分が言えたことではないが、兄が理想を果たしたとして自死を選ぶのはティアにとっては信じがたいことだった。預言からの解放とはつまり、ヴァン自身も解放されなければならない。それは死を以ってなされることなのだ。
「あなたが心配していたのは、ヴァンデスデルカのことだったのですね」
「……わかっています。兄さんのことを今更心配するのなんて、無意味だって……。でも、私は……」
説得できるのではないかという期待がないと言ったら嘘になる。覚悟は決めている、そのはずなのに。ルークやイオンのレプリカを作り、アクゼリュスを滅ぼし、戦争を起こし、悉く作戦の邪魔をしてきたとしてもヴァンはティアにとってただ一人の兄だった。
あのとき、殺せていたのなら悩まなかったのかもしれない。獣のまま何も考えずにいられたのなら。でもティアは知ってしまって、思ってしまった。
「メシュティアリカ、あなたが肉親である兄を心配することは何もおかしくはありません」
「……伯爵さま」
ガルディオス伯爵は哀しそうに微笑む。あの凍えるような無表情が嘘のようだった。伯爵が兄をどう思っているのはわからない。ガイのように糾弾し、正そうとしているのだろうか。……兄があれだけ慕っていた相手は。無表情の裏に何が隠れているのか、ティアには想像がつかなかった。
立ち上がったガルディオス伯爵はティアの横に腰を下ろした。冷たい指先がティアの頬を撫でた。
「あなたが思ってしまうことは、あなたの自由なのです。間違っていると思って苦しくても目を背けられない。つらくて、息ができなくて、泣けもしなくて、本当に――」
白い手がティアの肩を抱く。淡々と、雨音のように落ちる声色は少しだけ滲んで聞こえた。
「本当に、ヴァンデスデルカはひどいひとです」
「……はい。兄さんは……っ、」
語尾が震えて、ティアは喉を詰まらせた。どうしようもなくて伯爵にすがりつく。ティアの背に手を回した彼女は黙って背中を撫でいた。
しばらくそうして、ティアの呼吸が整ってきたころにガルディオス伯爵は静かに呟いた。
「好きなようにしなさい、メシュティアリカ。思い詰めるだけではいけません。――これは、命令です」
「わ、たしは、ガルディオス家の騎士では……」
言い訳にガルディオス伯爵を使うほどティアは厚顔ではない。けれど彼女ははっきりと、語気を強めた。
「いいえ、ここに来たあなたはフェンデ家の人間です。ユリア・ジュエの正統なる後継者、メシュティアリカ・アウラ・フェンデ」
たぶん、とティアは思った。
この優しくて厳しいひとの仮面の奥を覗くことは自分のはかなわない。けれどきっと、ティアが望むことと同じことを想っている。何を盾としても、そう言ってしまうくらいには。
「……はい、レティシア・ガラン・ガルディオス伯爵」
ガルディオス伯爵はティアのわがままを許してくれた。だから今度は自分の番だ。
首を垂れたティアに、彼女がどんな顔をしているかは見えなかった。


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