リピカの箱庭
95

暗闇の中、手を伸ばす。手触りはあの頃よりもずいぶんとくたびれていた。それでもロザリンドが適度に洗ったりしてくれているおかげでみすぼらしくはない。私はぬいぐるみを抱き寄せて、ただじっと待っていた。
蝕むような嫌な予感と、内側から沁みだす痛みに苛まれる。息を止めて、目を閉じて。それでも意識だけは外側に向けて。
ドン、と慌ただしいノックの音が響く。応える前に飛び込んできたエドヴァルドはこう言った。
「レティシア様!たった今連絡が入りました!キムラスカ軍の夜襲です!」
「……夜襲ですか」
体を起こしてため息をつく。私はぬいぐるみを横に置いてベッドから抜け出した。
「連絡はヒルデブラントから?」
「はい。伝令がエンゲーブに到達したとのことで、そこから情報が入りました」
「わかりました。軍への伝達は」
「済んでいます」
この電話を使った通信網はガルディオス家独自のもので、軍で正式に使う許可は出していない。伝達というのも「個人的に」フリングス少将を通しているだけだ。
この戦争が終わったらこのあたりの整備もちゃんとしよう、これまでは崩落する大地に通信線を張るのも馬鹿らしくて必要最低限しかインフラを整えていなかったし。利権とかものすごく面倒になることは分かりきっているのでちょっと憂鬱だ。
それは今は置いといて、今後の戦況も我が家の通信網を通して入るわけなのでおちおち寝てもいられない。向こうはヒルデブラントが上手くやるだろうから、こっちはこっちでしばらく対応しなければ。
「全く、夜襲だなんて面倒なことをしてくれましたね」
どうせ戦争を起こすこと自体が目的なのだから、わざわざ夜襲なんてせずとも真正面から来ればよかったのに。損失を嫌ったのだか分からないが、気に食わない相手だ。宣戦布告までしておいて結局は不意打ちだなんて。教団と繋がっているせいか妙に強気だ。
窓から外を見るとチラチラと慌ただしい明かりがうつる。軍も動き始めたのだろう。このままグランコクマは閉鎖されるだろうから、グスターヴァスにも遣いをやらなくては。私はこの身分のおかげで比較的自由に行き来できるけれど、ホドグラドからグランコクマに入るのは難しくなるのでそのあたりも気にかける必要が出てくる。
派手には動けないから、地道にやるしかない。被害を抑えるためにルグニカ大陸の崩落の危険性の件もフリングス少将には伝えておこう。
さて、カーティス大佐たちはいつ戻ってくるだろうか。この後、確かナタリア姫が停戦のためにキムラスカ軍と接触するはずだ。それと崩落からのエンゲーブの住民を避難させる救出班と二組に分かれるのだっけか。
エンゲーブの住民はホドグラドに避難してくるはず。準備は整えているし、避難もきっと間に合うだろうけれど、念のためヒルデブラントに崩落の予兆がないか確認しておいてもらおう。

しばらくしてやってきたフリングス少将は、いつも通り軍服を身にまとっていた。ただ、雰囲気がすでに戦さ場に向かうそれだ。
「私も出陣しますので、連絡兵を残します。陛下の近衛ですので問題ないかと」
そうか、フリングス少将が前線で指揮を執ることになるのか。ならばむしろ都合がいい。
「わかりました。それともう一つ、お伝えすることがあります」
「何でしょう?」
「セントビナーが崩落したように、周りの大陸も落ちる危険性は十分にあります。足元には十分にお気をつけください」
「なるほど。……これもキムラスカの狙いでしょうか」
「いえ」
キムラスカはあくまで預言に従っているだけで、自軍もろとも崩落に巻き込まれるということは考えていないだろう。まあ、キムラスカの背後にいる大詠師はそれすら許容しているのだらうけれど。
この大陸の崩落を仕組んだのはキムラスカでも大詠師でもなく――ヴァンデスデルカだ。
「ですが、預言を盾にされると引く可能性は低いでしょう」
「崩落は預言に詠まれてはいないから、ですか……。厄介なことです」
一番面倒なのは神託の盾騎士団兵だが、ダアトで起こした騒動である程度は抑えられるのではないかと思う。 皆無というわけにはいかなくてもあの手の捨て身の人間が減るなら負担も少なくなると思いたい。
「フリングス少将、お気をつけて」
「ありがとうございます。伯爵もどうか無理はなさらぬよう」
胸騒ぎを感じながらフリングス少将を見送る。なんだろう、この感覚は。戦の気配とはまた別の……。
――セシルとフリングス。その結末は。
「今なのか?いや……」
セシル少将はこの世界には存在しない。だから彼らが戦場で出会うことはない、というかすでに出会っている。あの物語の通りならば、フリングス少将が亡くなるのはこの戦争の後だ。一体、何が理由だったか。
……いいや。
預言も、物語も、絶対的に信じられるものなんてない。出陣するのならいつ命を落としてもおかしくない。
「……」
崩落に巻き込まれる可能性?それは今助言したことだ。いくら大陸が落ちるといっても、無防備にキムラスカの襲撃から逃げ続けるわけにはいかない。仕掛けられた以上、軍が動くのは必然で、そうしなくては大陸に落ちて軍人が巻き込まれるよりも被害は膨れ上がるだろう。
考えても仕方がない。今できることはやった。全ての人の命を救うなどと、烏滸がましいことは考えるべきじゃない。
でも、フリングス少将の本来の死因は……そうだ、レプリカの自爆だ。譜業爆弾を用いて襲撃を受けたのではなかったか。
譜業爆弾の襲撃はこの件だけの問題ではない。兵器として、自爆を厭わない自我の薄いレプリカとの組み合わせは最悪すぎる。何か対策をすべきだろう。
今行なっている研究を考えてみて、ふと思いついた。障気蝕害の治療に用いている技術を転用すれば、あるいは。
夜が明けたらシミオンに相談してみよう。何かを考えていないと今ばかりは落ち着かなかった。


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