リピカの箱庭
10

ホドが遠ざかってゆく。その光景はまるで現実味がなかった。
研究所から連れ戻された私はしばらく客室に閉じ込められていた。お父さまは結局私を怒鳴りつけるようなことはしなかった。ただ、疲れたような、恐れるような瞳で私を見た。そして告げたのだ。お前はグランコクマに行きなさい、と。
まさか物理的に引き離されるとは思っていなくて船上で私はぼんやりするしかなかった。悪くて屋敷に軟禁、くらいかと考えていたのに。なぜ――なぜなのだろう。
私がそんなにも煩わしかっただろうか。ずっと、お父さまが妄言だと切り捨てるようなことを口にしてきたから。私は――レティシアはそう思うと悲しかった。見捨てられたような気分になったからだ。
ホドはこのまま滅び、あれが家族との今生の別れになるのだろうか。私は、いつ、戻れるのだろう。
「お嬢様」
船室のドアをノックしたのは私専属になった執事、エドヴァルドだ。ペールギュントの甥で、お父さまから事情も聞かされているその人は私を持て余しているようでもあった。
「お嬢様、入りますよ」
それでも放っては置かないので律儀な人だと思う。エドヴァルドはただ窓際のベッドに座ってぼうっとしている私を見てため息をつきたそうな顔をした。
「お食事の時間です」
「……いりません」
「お嬢様。昨日も何も召し上らなかったではありませんか」
船酔いではなく、単純に食欲がなかった。何をする気にもなれなかった。エドヴァルドには悪いが、放っておいてほしい。視線を逸らして海を見る。ホドの海と繋がっているはずなのに、まるで違うもののように見えた。
「お嬢様」
もう一度エドヴァルドが声をかけてくる。私は今度は振り向くことすらしなかった。
「旦那様や奥様が心配なさいますよ」
「……そんなこと」
カッと感情が溢れる。でも叫ぶ気力なんてものすらなくって、私は海を見たまま呟いた。
「そんなこと、あるわけない……」
捨てられたのだ。私は捨てられた。見捨てられたから、心配なんてされるはずない。
お母さまは早く良くなってと言ったけれど、そんな日はこない。だって私は病気なんかではないのだから。そのことはお母さまも知っているはずなのに。
私はホドが滅ぶなんて言わなければよかったのだろうか。私は知っていて、でも口にせず、何もせずにいればこんなふうに遠くに追いやられることもなかったんだろうか。一緒に、ホドで――死ねたのだろうか。
「いいえ。マリィベル様も、もちろんガイラルディア様もお嬢様が食事をなさらないと知ったら心配なさるでしょう」
それはエドヴァルドにとっては慰めの言葉の延長だったのだろう。けれど私ははっと顔を上げた。
今後起きると「知っている」ことが本当かどうかなんてわからなかった。それでもホドにはフォミクリーの研究施設があって、ジェイド・カーティスがいて、ヴァンデスデルカが人体実験をさせられていた。だから私は恐れている。
でも――ホドが滅んだとしても、ガイラルディアだけは生き延びるはずだ。私は拳を握った。
「エドヴァルド。ガイをとってください」
「は、」
「そこのぬいぐるみです」
「……ガイ様ですね」
ガイラルディアが私にくれたぬいぐるみを、ガイラルディアと同じ名前のせいかエドヴァルドはやたらと丁寧に渡してくれた。金色の毛並みはガイラルディアと同じだ。碧い瞳も、きらきらと輝く宝石はガイラルディアにそっくりだった。
ぬいぐるみを抱きしめると安心した。ガイラルディアは私の近くにはもういないが、ガイラルディアと同じ色のぬいぐるみはいる。私はぬいぐるみを抱いたままベッドから下りた。
「しょくじにまいります」
「かしこまりました」
エドヴァルドがドアを開けてくれる。ぬいぐるみを持っていることは咎められなかった。

長く感じた船旅を終えてグランコクマについた私は、ホドとはまるきり違う光景に目を丸くしてしまった。水の都というのもそうだけど賑やかな場所だ。建物も人も多い。
私が住むのはガルディオス家が所有する別邸だ。皇帝に目通りするときなど、首都に用があるときに使うための屋敷らしい。とはいえホドから首都まで赴くことは基本的にないようで、使われるのは久しぶりとか。それでいいのか貴族。
ホドからついてきたのは執事一人とメイド三人で、加えて別邸の管理人夫婦が共に屋敷に住むことになる。とはいえ私と話すのは一番えらいエドヴァルドがほとんどだ。エドヴァルドは騎士の家系で使用人ではなく臣下なので当然だろう。執事と言ってるけど、エドヴァルドはアルバート流を修めた立派な剣士でもある。
さて、別邸で最初にしたことは医者に診てもらうことだった。病気じゃないのに、と思ったけど名目上は療養だし。
「ふむ。お嬢様は気の病を患っておられるようですな」
初老の医師は私を診て、かつカウンセリングのような質問をしてからそう言った。気の病か。間違ってはいないと思う。
「グランコクマにはお嬢様の見たことのないものもたくさんありましょう。閉じこもるのではなく、気を紛らわせたほうがよろしいでしょうな」
エドヴァルドは医師の診察を聞いて顔を歪めた。そりゃそうだ、貴族の娘を連れてウロウロするなんて万が一があったら面倒だろう。何せ今はすべての責任をエドヴァルドが負っている。
とはいえ外出許可も下りたので、色々と散策したいなあと考えてはいた。考えるだけで、あまり出られなかったのは単純に私の体調が優れなかったせいだ。
気の病であっても、いやだからこそ、私の体は沈んでいくこころに比例して無気力になっていった。一日の大半を寝て過ごすのも珍しくなかった。
そのくせガイラルディアがいないので寝つきも悪い。ぬいぐるみを抱きしめて、ようやくまどろめるくらいだ。隈ができてげっそりとした顔の私はさぞ不健康に見えるだろう。
リミットまで時間はゆっくりと、でも確実に進んでいる。たまらなくなってエドヴァルドに手紙を書かせてもらったが、届いているか定かではない。エドヴァルドが握りつぶしている可能性もある。
「ガイ……」
不安になるときはただぬいぐるみを抱きしめて震えていた。私の逃げ場はこの世界のどこにもなかったのだ。


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