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62
 下唇に伊月君の親指がかかる。まるで感触を楽しむかのように強弱をつけて、ゆっくりと唇の端から端へと指が滑っていく。

「キヨシクン」
「え?」
「俺の前で、そいつの名前、呼ばないで」

 それは、どういう意味……?
 日中、清志君に会ったことを思い出すうちに、伊月君の、「彼氏だけど」という言葉を思い出した。あれだって、なんであんなことを言ったのかわからない。
 言葉が頭のなかでぐるぐると回って、意味を考えるとどうしても恥ずかしくなる。

 ふと、鋭かった伊月君の視線が頼り無さげにやわらかくなった。顎にかかっていた手がするりと滑って首筋をなぞっていく。それまでもずっとうるさかった心臓が、いよいよ体から飛び出すのではないかと思うほどドクドクと響いていて、だけど伊月君の言葉を心待にしている。

「俺だけを写して。俺の言葉で赤くなって。……どれだけ思ってることを伝えたら、涼宮さんの内側に入れてくれる……?」
「いづ、き、くん……」

 だんだんと伊月君との距離が近くなる。身動き一つでもすれば唇が触れ合いそうな距離で、肌に感じる吐息になにも考えられない。

 ちらちらと脳裏に過るのは嘲りの声。
 今日清志君と会うまで心の奥深くに仕舞っていた恐怖と疑心がこれから起きることを予期して、伊月君との未来を描いた端から、期待を押し殺していく。

「涼宮……」
「まっ……て、」

 耐えきれずぎゅっと目を瞑れば、待っていた衝撃はなく、代わりに肩口に重みを感じた。そっと様子を伺いば、伊月君が私の肩に頭を預けていた。

 キス、されるかと……思った。
 どくどくとうるさい心臓のなかで、本の少し、寂しい。
 まさか、期待、してたの? 伊月君と、って?

 いつの間にか背中に回されていた腕に抱き締められた。
 まさかと思いつつも、自分の中にある感情が形を持ったことを自覚した途端、伊月君の背に腕を伸ばしたくなってしまう。そっと、背に触れようとした時だった。

「急ぎすぎた……。付き合ってもないのに」
「……いづきくん、わたし、」

 彼の肩に私も額を預けようとすると、腕がほどかれて、ゆっくりと体を離される。見つめあっていたときよりも距離が開く。伊月君はそっと私の髪を耳にかけ、頬に手を添えた。
 
「千恵」

 初めて呼ばれた名前は、とても特別な音をしているように聞こえた。それだけで、今日一日あったこと全てが輝いて見える。それぐらい、甘い響きを伴って耳に馴染んでいく。
 柔らかく微笑む伊月君の瞳は相変わらず蛍光灯の光で瞬いていて、静かな公園の中で、二人だけの世界にいるようだった。
 だって、そう、きっと幸せってこういうことをーー

「…………ごめんね」

ーー言うんだと、思っていた。

 ごめんねって、なに?

 さっと指先から冷えていく。何を言われているのかわからない。
 だから、聞きたくなかったんだ。
 だから、知りたくなかったんだ。

――ごめんね

 そう、確かに伊月君は口にした。その言葉が頭の中で反響して、そのたびに夢見心地だった心が一つ一つ踏みつぶされていく。
 切なく、甘く、私を見つめる伊月君の隣にいたい。そう自覚したら、一緒にいたいと願ったら、叶わないことを知るなんて。

 ちりちりと脳裏を焦がす記憶が、ほらやっぱりと私を嘲る。

 喉の奥が苦しくなって、ほろりと涙が零れ落ちた。驚いたように私を見る伊月君は、だけど驚いただけで、いつもと変わらないように見えた。やっぱり、私だけがこんなに動揺している。
 ほら、期待をしすぎるから。都合よく考えるから、痛い目を見るの。

「泣かせて……ごめん。本当にだめだな、俺は。……それでも、君を――」
「優しく、しないで」

 さきほどあれだけ甘く名前を呼んでくれた声で残酷なことを告げ、再び頬に触れた伊月君の手を振り払う。彼を置いて駆け出すのは、ずいぶんと久しい。
 明日はまた朝から部活だってある。授業だってあるし席替えはまだ先だから授業でも顔を合わせる。シフトがかぶっている文化祭もすぐくる。
 今逃げたところですぐ向き合わなきゃいけないのはわかってる。だけど今だけは、今晩だけは、どうか現実を受け入れることを待ってほしい。
 だってせめて一晩だけ、伊月君との甘い夢に浸っていたかった。彼に特別に扱われていると、そう思っていたかった。

 彼氏だって、言ったくせに、!

 公園を出て横断歩道に一歩踏み出したところで思い切り腕を引っ張られ、たたらを踏んだ。目の前を無灯火の自転車が通り過ぎて行く。

「危ないだろ! ちゃんと見ろよ!」

 後ろからきつく回された腕に、耳元で感じる吐息に、怒ったような声に、ぎゅうと心臓が痛くなる。
 顔を見なくたって、後ろから私を抱きしめているのが伊月君だってこと、苦しそうな表情をしていること、それぐらい、すぐにわかった。

「言葉が足りなくてごめん……。嫌なら名前でも呼ばない。ただ、――」
「い、いや……! もう、聞きたく、ないっ!」
「俺はっ! 涼宮が――」
「やだっやめて!」
「……涼宮、さん」

 これ以上、何をどう受け止めろっていうんだろう。これが伊月君じゃなかったらまだ聞けるかもしれない。だけど、伊月君だから。伊月君だから、無理なの。聞きたくない。
 涙が止まらない。頬を伝って伊月君の腕に染みを次々と作っている。その腕に手を添えれば、案外簡単に腕から抜け出せた。

「ほっといっ、て!」
「……ごめん。……気を付けて」

 今度こそ一人で横断歩道を渡る。伊月君が追いかけてこないことに安堵しているはずなのに、どうしても引き留めてほしかった。



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