鈍色の歯車
ふと気付けば、子どもたちだけではなく桑折も居なくなっていた。先程まで大口を開けて笑っていたはずの男は、いつの間に帰ったのだろうか。
残されたのは、喜助と風華の二人。
急にしん、と静まり返ってしまった。
こんなときはいつも世界と切り離されてしまったような感覚を覚える。
灰色の雲間からしとしとと降る長雨に。
或いは、冬の夜にしんしんと降り積る雪に。
すべての音が吸い込まれてしまうかのような感覚。
外の世界が明るく映れば映るほど、その取り残されてしまったよう感覚は強くなり、怖くなる。
風華がまた一つ緩く頭を振り、そうして話題を探すように振り返ると、彼は店先に置かれた小さな文机に、帳簿を開いて算盤を弾き出していた。
彼ならすべて暗算で出来てしまうのに、何故わざわざそんなものを使っているのか。
「喜助さん、」
「どうせアタシはだらしなくて怠け者で頼りなくてオジサンで引きこもりで変わり者でヒモですよ」
誰もそこまで言っていなかったのだけれど。
一息に捲し立てた喜助の様子に目を瞬かせて風華はいつものように首を傾げた。
「喜助さん、もしかして怒ってます?」
彼に合わせて言ったつもりだったのだが、気を悪くしてしまったのなら、謝らなければ。
親しき仲にも礼儀あり、だ。
「いーえ、別にィ?」
ぱちぱち、ぱちん、と喜助の指先で音を立てていた珠が止まる。
やはり機嫌を損ねているらしい。
思えば今日は今朝ーーというよりも昼だがーーから彼の相手をまともにしていない。風華に非はないはずだが、子どものように口を尖らせてしまった彼をこのままにしておくわけにもいかない。
「機嫌直してくれませんか?そんなつもりじゃなかったんです。怒らないで、ね?」
「怒ってませんよーだ」
「もう。喜助さん、ねぇ、こっち向いてください」
「今帳簿つけてるんで無理っス」
「喜助さん、お願い」
風華が近寄ってきた気配は感じているだろうに、それでも喜助はだんまりを決めていた。
隣に座り、肩に手を置いてもまだ反応がない。
そっと首を伸ばす。
ほんの一瞬、それが喜助の頬を掠めて、すぐに風華は体を離す。
僅かに触れ合っただけなのに、それでもその触れた肌の感触はまだ彼女の唇にも残っていた。
喜助が驚いた様子で此方を振り返る。
「風華サン、」
「機嫌、直りました?」
「まだ、・・・まだです」
「本当に?」
「ええ。正しい位置にくれたら考えてあげてもいいですよ」
勿体振った大層な言い方に、風華はくすくすと笑いながらそっと喜助の頬に手を沿える。
「できれば目を瞑ってて下さると嬉しいんですが」
「残念。それは出来ない相談だ」
「もう、仕様のない人。せめて帽子ぐらいは外してくれますか?」
「仕様のない人なのは、どっちですか」
嘆息しながらも彼は片手で帽子を外す。
風華は睫毛を僅かに臥せて、喜助の顔を自身の方へと向ける。
あまり自身から口付けをしないせいか、彼女はまだ躊躇いがちに唇を寄せてゆく。
それに焦れた喜助が一気に距離を詰めようと、彼女の後頭部へ手を回そうとしたときだった。
「うおっほん!」
「きゃあっ!!?」
「うわっ!?」
喜助の背後から突然聞こえた激しい咳払いに驚いた風華が、どこにそんな力があったのか彼を突き飛ばした。
「只今、戻りましたぞ」
「お、お帰りなさい!あの、私!掃き掃除してきますね!」
ばたばたとサンダルを引っ掛けて、首まで真っ赤に染め上げたまま風華は庭先へ出ていった。
未遂とはいえ、まさか見られてしまうなんて。
あまりの恥ずかしさに勢いで飛び出した庭先で、一人膝に顔を埋めるようにして風華は踞っていた。
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