たった一つの我が儘
遅番に当たっていた風華が、浮竹の部屋から戻る途中、見知った姿を認めて声をかける。
「これから任務?」
呼び止められたひよ里は不満そうな顔で振り返って頷く。
「喜助のヤツに押し付けられてん!」
「そっか。頼りにされてるのね」
途端、彼女の顔は更に歪む。
「なんでアイツと同じことゆうてんねん!」
「同じこと?」
「せやで。アイツもウチのこと頼りにしとるとかワケわからんこと言うから、しゃーなしにやな、」
不満しかない、と言った様子でひよ里は捲し立てているが、どう聞いても、ただの照れ隠しにしか聞こえない。やはり副官として頼りにされているのだろう。思わずくすりと笑うと「なに笑っとんねん!」と怒られてしまった。
「風華、悪いけど、ウチ急ぎやねん。また後でな!」
「あ、ごめんね、引き止めて。気を付けていってらっしゃい」
ひらひらと手を振り交わしてひよ里と別れる。
「只今戻りました」
「ご苦労様でした、跡さん」
詰所に戻ると、遅番に当たっている数人の隊士と自隊の隊長が書類の山を整理している最中だった。
ここ一ヶ月ほど、『死体が消える』という変死事件が続いており、その対応に追われているのだ。
といっても原因も対策も何も決まっておらず、時間ばかりが過ぎていく。
今月から本格的に調査をすることになり、九番隊に依頼したところだ。
風華も気合いを入れて、その書類に取り掛かる為に先日もらった珈琲を傍らに用意した。
頭の隅まで冴え渡るような芳しい香りを胸一杯に吸い込んでから、その書類の山を切り崩しにかかる。
そのときだった。
けたたましい音が夜の静寂を切り裂き緊張が走る。
緊急召集である。
「皆さん、少し出てきます。留守は任せましたよ」
「はい、行ってらっしゃい」
けれど、卯の花は落ち着いた様子で一番隊へ向かう。卯の花が居ない今、風華がもっとも上の立場にある。
卯の花が彼女が出て行ってから残っていた隊士の一人がそわそわとしている。
一昨年入隊したばかりの新人だ。
「九番隊って、変死事件の調査を依頼したばかりですよね!?ど、どうなってるんでしょう、まさかもう、」
それをもう一人の隊士が宥めている。
風華程ではないが、こちらはもう十数年属している隊士だ。
「落ち着けって。今俺たちが慌てたってどうにもなんないだろ」
「でも、」
「いいから、仕事しろって」
そう言いながら、彼は席を立って風華に一枚の書類を渡してきた。
指で差し示された箇所に走り書きで『こいつ、今日初めての夜勤なんです。ちょっと付き合ってください』と書かれている。
風華がどういう意味か、と顔を上げると彼は「そういえば、」と口を開く。
「技局の連中にも調査を依頼するって話ありましたけど、あれってどうなってるでしたっけ?跡八席は、ご存じですか?」
「いいえ。私は何も・・・」
突然振られても話が見えず、風華はわすがに首を振る。
「あ、そうなんですか。浦原局長から、何かお話でも伺ってるのかと。仕事以外では、あんまりそういう話ってしないんですか?」
「そう、ですね。あまり、そういったことは。あくまでも他隊の業務になりますし」
仕事で疲れている彼とそういう話はしたくない。せめて側にいるときは頭を休めてほしい。
そもそも、自身が聞いても解らない、というのもあるが。
「へぇ、意外とお固いお付き合いしてるんですねぇ。俺なら、彼女に逐一話しちゃうなあ」
「え、先輩、彼女居たんですか?」
それまで黙っていた新人が口を挟む。
「居るに決まってんだろ。まあ跡八席みたいな美人じゃないっすけど。いやぁ、浦原隊長が羨ましいなぁ」
風華は額を押さえて嘆息した。
なるほど、『付き合え』とは、そういう話か。
「貴方のお付き合いしてる方がどういった女性かは知りませんけど、」と前置きをしてから、後輩を軽く睨む。
「浦原局長と、貴方は、同程度の御方なんですか?」
「はは、仰る通りです。これは失礼しました、八席」
彼と比べる等と烏滸がましい真似はするな、という意味と、そういう話は振るな、という意味を込めての一言なのだが、伝わっているか甚だ怪しい。
「そんな余計な話してないで、手を動かして下さいね」
この話にはもう付き合えない、と会話を切ろうとしたのだが、今度は新人が尋ねてくる。
「あの、八席って浦原隊長の彼女さんなんですか?」
「なんだ、お前、知らないのか?有名だぞ。あの人の溺愛ぶり。跡八席に手を出したら人体実験されて生きて帰ってこれないって噂知らないのか?」
「あ、それ、僕、新人の頃に聞いたことありますよ」
まったく別の隊士まで話に加わってきてしまった。
人から聞くと未だにこの話は恥ずかしいやら居たたまれないやらで、思わず耳を塞ぎたくなってしまう。
項垂れる風華を他所に後輩たちは盛り上がっている。
「ええ!?そうなんですか?知りませんでした」
「お前疎そうだもんなぁ、そういうの」
「貴方たち、いい加減になさい。隊長に言いつけますよ」
もう十分気晴らしは出来ただろう。
新人の顔も暗くない。
風華が次の書類に手を伸ばしたところで、卯の花が戻ってきた。
「戻りました」
「お帰りなさい、卯の花隊長」
彼女は詰所内を見渡してから、「跡さん、此方に」と風華を手招いた。
奥の隊首室に入るなり、卯の花は「落ち着いて聞いてください」と表情を険しくした。
「九番隊からの要請で猿柿副隊長が現場へ向かっているそうです」
「そん、な」
先程会ったのは、調査に向かう途中だったのか。
ただの任務かと思ってしまっていた。
なぜもっと頭を働かせなかったのか。
なぜどこへ向かうのか訊かなかったのか。
なぜあの場でもう少し引き止めて置かなかったのか。
だが、今更何を言っても無駄なこと。
そもそもそんなことをしても、無駄だった可能性が高い。
「ですが、九番隊の方々もですけど、まだ死んだと決まったわけではないですよね?」
「それも含めて調査中です。総隊長自らが指揮を執っています」
「本当、ですか」
「ええ。ですから跡さん、貴女は今日はもうお休みなさい」
「いえ、私も此処で友の帰りを、」
「跡さん、気持ちは分かりますが、今は耐えるときではありませんか」
卯の花の視線から、風華は反論すべきではないことを悟る。
「・・・分かり、ました」
納得しきれないままに、彼女は自邸に戻った。
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