たった一つの我が儘


「貴方が、」

掠れて不鮮明な声がする。
渇いた口腔内で無理矢理唾液を呑み込む。

「貴方が望むのでしたら、いくらでも」

ふっと、その眼の翳りが揺らいだように見えた。
何かに怯えているようにも。
けれど、一体何に?

「どうして、アナタは、」

「え?喜助さん、今なんて?」

彼の言葉がよく聞き取れず、問い返すと、彼はそこで風華の手首を離した。
喜助はふらつくようにして身を引いた。

「すみません、研究が行き詰まってて、余裕がなくなってたみたいです。アナタのことになるとどうしても・・・でも、こんなつもりじゃ」

「いいえ、私が軽率でした。ごめんなさい」

額に掌をあて顔を背ける彼を見上げる。
下駄を履いている分、いつもより首を曲げなければならない。
傾いでいく陽光と掌のせいで、表情がよく見えないが、先程の剣呑とした雰囲気はない。

「前から言ってますけど、風華サン、結構好意持たれてるんスよ。今回は間に合いましたけど、いつもこうとは限らないでしょ?」

喜助は心配と呆れと、それから少し疲れの滲む声で告げる。
もう普段通りの彼のようだ。
風華はそっと詰めていた息を吐き出した。

「本当にごめんなさい」

「そんなところも含めて好きですけどね。・・・それに、ボクの方こそ、ごめんね。ああ、赤くなっちゃってる」

痛ましそうに顔を歪めて、彼は風華の手首を擦る。
彼女の細い手首には、戒めの痕がはっきりと残っている。
風華も自身の手元に視線を落として、それからまた喜助を見上げて微笑む。

「私は平気です。元はと言えば、私が原因ですし」

「ごめんね、風華」

「それより、無理なさらないで下さいね」

「うん、ごめんね、本当に」

「あの、大丈夫ですから、」

「ごめん」

「喜助さん、」

喜助は苦悶に表情を歪め、赦しを請う。
何度も、何度も。

ーーーどうして、
ーーーどうして、そんな顔をしてるの。

いまだ彼に捕まれた手首よりもずっと、胸の奥が、痛い。


「本当に、」

問題ないと三度伝えようとしたところで、喜助に言葉を遮られた。

「今日はもう仕事を上がって下さい。卯の花隊長には、ボクから伝えておきます」

「そんな、」

「痕が残ったら、大変だから」

ボクが言えた立場じゃないけど、と言いながら、鍵を開けて、そっと風華の背を押され、退室を促される。これ以上はここにいても仕方がない。

「分かりました」

「ごめんね」

「喜助さん、」

戸を閉められる前に風華は彼を振り返る。

「なに?」

「本当に、無理なさらないで下さいね」

「ありがと、風華」

いつものような、穏やかさも、狡猾さも窺えないものだったけれど、ようやく弱々しくも笑ってくれた喜助の様子に安堵して、風華は自室と引き上げた。

そうして、引き上げてから早々に湯を浴びた。
頭から湯を被って、すべて洗い流してしまいたかった。
けれど、気分は一向に晴れず、そこであることを思い出して、風呂敷を開いた。


昼間にもらった珈琲という飲み物を、同封されていた説明書通りに淹れてみた。

緑茶とは違う淹れ方で少々手間取ったが、頭の靄が晴れるような香りが広がってざわついていた胸の奥がいくらか凪いでいく。
初めての香りだが悪くはない。
確かに徹夜明けでも頭が冴えそうだ。
今度は喜助が居るときにも、淹れてあげようと考えながら、それをそっと口に含んでみた。

「苦い・・・」

金平糖を一粒かじってみる。
単体では苦味が強すぎる気がしたが、確かに砂糖菓子を添えるならちょうどいいかもしれない。


先刻の彼の様子を思い出す。
随分行き詰まっているのか本当に余裕がなさそうだった。
こんなものでもいいから、一息入れさせた方がいいのではないだろうか。
今度ひよ里にでも相談してみよう。

赤くなった手首を摩る。

『風華が我が儘の一つも言ってくれへんーてようノロケられとるんやで』

ふいに真子の声が耳の奥で再生された。

我が儘、だなんて。
既に充分過ぎるほど幸せな状況で何を言えというのだろうか。

昼間は確かにそう思ったのだ。
今もそうだ。

けれど、この想いには、絶対的な条件がある。


ーーーこの幸せな今が、突然、手の届かないところにいってしまわない限りにはーーー


幼少の頃の家族との幸せは、彼女の意思とは関係なく、呆気なく崩れ去っていった。
掌からこぼれ落ちる砂のように、手を伸ばすことさえ許されず、ただ享受するしかなかった。
そんなこと、そう何度もある訳がないのに、その記憶は今も彼女の心の奥を蝕み続けている。
いつか、また崩れ去ってしまうのではないかと。
宛のない仮初めの不安に怯えている。

母が居なくなった日の記憶が、
父が居なくなった日の記憶が、
小波のように寄せては返す。

死は万物に平等に訪れる。
逃れる術など有りはしない。
いつかは必ず訪れるものだ。
それらを何よりも理解しているべき『死神』という立場にあって尚、こんなにも、怯えている。
だが、だからといってそんな不安を常に感じたまま過ごしていくのか。

ーーーー馬鹿らしい。

こんなこと、彼に知られでもすれば事だ。
一切の表情を消した彼など見たことがなかったから、こんな気弱なことを考えてしまうのだ。

誰にだって、本当に余裕のないときがある。

きっと、風華のことを考えて、あんな態度をとらないように今まで気を付けてくれていたのだろう。
こんなに一緒にいるのに、今まで気付けなかったなんて。

自身の不甲斐なさにきゅっと唇の端を噛む。
こんなことだから、きっと彼は一人思い詰めてしまうのだ。
すべて、ではなくとも、ほんの少しでも支えていけるようにならなければ。
いつまで経っても甘やかされているばかりではいけない。
彼の側にいると決めたときに、誓ったのだから。
もう、逃げないと。

風華は頭を振って冷めかけた珈琲を飲み干した。


黒い液体の苦味だけが、いやに舌に残っていた。


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