たった一つの我が儘

凭れかかった体が壁伝いにずるずると落ちる。
そのまま地面に腰が下りる。
このまま、もう、動きたくない。
何もしたくなかった。

喜助は頭を抱え、膝に顔を埋めて踞る。


どのぐらい経っただろうか。
よく知る気配が音もなく窓から滑り込んできたのを察知したが、いまだ顔をあげることすら億劫だ。
しばらくすれば立ち去るだろうか。
いや、彼女に限ってそんなことはない、と諦めて口だけを動かす。

「急用じゃなければ、放っておいてくれませんか」

「お主の霊圧が乱れておったので、わざわざ来てやったというのに」

喜助は答えずに、いや、答えられずにいた。
霊圧が乱れてしまうほど、我を忘れていたのか。
後悔の念が今更押し寄せてくる。

膝の間から視線だけ動かして見ると、黒い衣が前を横切って、「茶の一つぐらい出しても、バチは当たらぬと思うがの」と、何かをがさがさと漁る音がする。普段ならそんな自由人な彼女に付き合えるのだが、今はそんな余裕がない。それを分かっていて、こういう振る舞いをする友が憎らしい。

ずずっと啜るような音がしてから、彼女は「それで、喜助、」と呼ぶ。
帰る気配は、ない。

「何があった」

はぁ、と深く息を吐き出してから、ゆるゆると視線をあげる。
既に室内は暗く、夜一が持つ燭台の灯りだけが部屋の中を柔らかく照らしている。

いつの間に陽が落ちていたのだろうか。
風華を帰してやったときは、まだ陽があったはずだ。そういえば、あの場に置いてきた同僚と自身の副官はどうしただろうか。同僚は分からないが、副官も帰ってきていないのか。
いや、彼女のことだから、きっとまた研究にかまけていると放置しているのかもしれない。

「喜助」

督促されていると判っているのだが、開く口は重い。

「彼女、拒絶しないんですよ」


喜助はそれでもようやく自嘲気味に語る。

先刻の彼女の様子を思い出す。
至近距離で見詰めた薄茶の瞳が恐怖に染まっていた。
初めて事に及んだときでさえ、彼女はそんな様子を見せなかったというのに。
そんな怯えた眼をしながらも、彼女は言ったのだ。

『貴方が望むのでしたら、いくらでも』と。

「ボクは、どうすべきなんでしょうね」

「知らぬ。儂が口を挟んでいいことでもあるまい」

聞き出しておいて、それはあんまりじゃないか。
そう思うが、確かに友の言う通りだった。


「じゃが、そう時間はないのじゃろう?」


喜助はまた押し黙る。
窓から流れてくる風に揺れて、蝋燭の光が揺れる。
黄金の瞳が鋭く光って、こちらを射抜く。
誤魔化されてはくれない。


「お主が思うておるほど、か弱い娘ではないと思うがの」

「別にボクも、か弱いだなんて、」

風華のことをそんな風に考えたことはない。
彼女は救護要請があればすぐに赴き、状況によっては加勢さえしている。
一見穏やかそうにしているが、やはり彼女も死神で、刀を奮うときには容赦はない。
彼女の師が卯の花であることも関係しているのだろう。

「ほう。ならば何を恐れておる」

「恐れるだなんて」

「では、少しはあやつを信じてやれ」

「信じていない訳では、」

「肝心なことは何一つ言わずにおいて、よく言うわ」

親友の言う通りだ。
真っ先に告げるべき相手へ伝えていない。
いや、彼女だからこそ言えずにいる。
大事なことは伝えずに、甘い毒で侵した。
周りなど、その眼に映らないように。

「あれほどの器量良しで引く手数多であったところを、根回しをして自身の手元に置いて、そのくせ、危険を理解しつつも研究からは身を引けず。かといって、あやつを拐ってやるほどの覚悟もない」

「それは、」

鼻で嘲笑う夜一の視線から逃れるように喜助は顔を背ける。

本当は、この手を離すべきだと判っている。
けれど、真子が風華の腰に手を回しているのが眼についたときにはもう、何も考えられず、気付けば彼女を奪い返すように抱き寄せていた。

手を離すべきなのに、それが出来ない。
甘い毒に溺れさせようとしていたはずなのに、溺れているのは自身の方で。

もう、風華が隣に居ない世界など考えられないのだ。
ただ、『一緒に来てくれないか』と告げればいい。
きっと優しい彼女のことだ、側に居てくれるだろう。

けれど、果たしてそれでいいのか。
彼女を愛するが故に、彼女の幸せが、視えない。

黙りこくってしまった喜助に、夜一は苛立ったように湯呑みを机上に、たん、と叩きつける。

「喜助、後悔だけはするなよ」

「そんなこと、」

「わかっておるのならよい」

端折った言葉尻を肯定と捉えたらしく、夜一はそれだけ告げると窓辺へと消えた。


後悔しないなんて、そんなこと、出来るわけがない。
どんな選択をしても、必ず後悔するときが訪れる。

それでも、彼女が自身を選んでくれたら。
先程の約束を守ってくれたなら。
そう願わずには、いられなかった。

あんな言質をとってまで、彼女のすべてが欲しいのに。

『肝心なことを何一つ、言わずにおいて』

親友の言は的確で、その上一切の容赦がない。


「愛してる、風華」

受け取り手のいない愛の言葉は、ただ虚しさを色濃くするだけだった。




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