たった一つの我が儘
そのときだった。
後ろに強く引かれて風華がそちらを振り返るのと同時に、真子が白旗をあげるように両掌をこちらに向けた。
「なーんてな、」
「喜助、さん?」
目まぐるしく変わる状況についていけず、唖然としたまま喜助を振り仰ぐ。
就業中だというのに、『浦原隊長』と呼ぶのを忘れていたことに後から気づいた。
「なんちゅう顔しとんねん、喜助」
苦虫を噛み潰したような顔で真子は嘆息している。
押し黙ったままの喜助の顔には、いつものへらへらとした愛想笑いはない。
いや、それどころか、その瞳には何の感情も映していない。
無表情。
こんな彼は初めて見た。
けれど、彼は風華とは視線を合わせず、ただ真子を見ているようだった。
「風華ー!!」
遅れてひよ里の声がした、と思うと次の瞬間には真子が派手な音をたてて地面に倒れ伏していた。
「ひよ里ちゃん、」
風華の名を呼んだものの、ひよ里は真子の相手に忙しそうにしている。
「イダダダ!?何すんねん、ひよ里ィ!」
「何すんねん、はこっちの台詞やハゲぇ!喜助がなんや突然走るからついに気ィ狂ったんか思たら、アンタが風華に手ェ出そうとしとったんやろ!」
ひよ里は彼に馬乗りになって胸ぐらを掴みながら、斜め後ろにいる風華をを指差す。
「そんなことしてませんー!」
「しとったやろボケェ!ハゲはハゲ散らかしとったらええねん!」
未だ脳内で状況整理が出来ていなかった風華は、ようやく今の状況理解するに至った。
おそらく真子の様子から察するに、ただのお遊びだったのだろう。
だから想定内のことで。
ただ、一つだけ想定と違ったのだろう。
「イダ、イダダダ!!ちょお待て!髪の毛引っ張んな!」
「うっさいわ、真子の分際で!」
「分際てどーゆーコトやねん!隊長やぞ!?敬えや!」
「こんな隊長誰が敬うねん!寝言も大概にせーや!ホンマに!!風華!アンタもなんで黙っとんねん!」
「あ、ごめん、ね」
何が何だか分からない、というのもあるが、それよりも。
先程から一言も口を開かない背後の人が気になってそれどころではない。
腰に回された腕の拘束もそのままに微動だにしていない。
「ホンマに確りしぃや!?今回ばっかりは喜助のストーカー振りも多目にみたるわ、・・て喜助?どないしたんや」
「・・・」
さすがに彼女も不審に思ったのか、珍しく心配そうに眉尻を下げている。
だが、そんなひよ里の呼び掛けにも反応がない。
やはり、怒っている、のだろうか。
見当違いでありませんように、と恐る恐る謝罪を口にしてみる。
「喜助さん、あの、ごめんなさい」
常々、『アナタはもう少し警戒心を持ってください』なんて言われていたのだ。
真子だから良かったものの、これが別の誰かだったら?
考えるだけで背筋がひやりとした。
「あー、スマン、ほんの冗談やってんて」
ひよ里を引き剥がして真子が身を起こす。
その様子をただ眺めている風で変わらず動きがない。
きっと彼の想定とただ一つ異なっていたのが、
喜助で。
おそらく『人の大事な彼女に何してくれんスか!』と騒ぎ立てるのを想定していたのだろう。
風華でさえ、そんな喜助を想定してしまうというのに。
「喜助さ、」
その矢先。
ぐいっと手首を引かれてよろけるが、辛うじて堪えた。だが、そんなことには見向きもされず、引き摺られらようにしてその場を離れた。
「きゃ、」
「ちょ、喜助!風華!」
ひよ里が慌てて呼び止めようとするが、真子がそれを制しているのを視界の端に捉えながら懸命に喜助の後に続く。
歩幅を気遣う様子もなく、下駄が荒く地面とすれる音から、やはり怒っているのだ、と察した。
「痛っ、喜助さん、待って」
何度名を呼ぼうとも、何度痛みを訴えようとも離してはもらえず、有無を言わせず十二番隊の隊主室まで連れていかれた。
部屋に入るなり、彼は後ろ手に鍵をかけて、風華を壁に押し付ける。
両手を顔の横で壁に固定されて逃げられない。
ぎりっと締め上げられた手首の痛みに風華は眉を寄せる。
「約束して下さい」
唇が触れ合いそうな程の距離で、射抜くような視線で見詰められる。
僅かでも視線を逸らすことは赦されず、翳りを帯びた暗い瞳に、初めて、恐怖を覚えた。
「今後一切の、貴女の全ては僕のものだと」
返事をしようとしたが、喉からは掠れた音がしただけだった。
舌が喉に張り付いていて、巧く動かせない。
日が傾き始めているのか、西陽の陰で、彼の瞳がより暗く翳り、半透明で美しいはずの翡翠のそれが、ひどく濁ってみえた。
「お願いだ、風華」
それは、懇願というよりも。
命令のように、思えた。
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