追憶の歯車

ーーーーー喜助さん、

風華はそう紡ぐはずだった唇を噛んだ。

薄闇が空を侵食する時間が徐々に早くなり、暑い季節がその身を隠し始めた頃。
風華はそっと開いた襖の隙間から寝室へと顔を覗かせていた。
見えるのは端末に向かい合う男の丸められた広い背中と、周りに乱雑に積み上げられた書物。
夕闇の中、灯りもつけずに食い入るように画面を凝視していた男が手元の資料へと顔を向ける。無機質な蒼白い光が鼻筋の通った顔を照らす。冷めた光に照らされた横顔は、目元に色濃い影を落とし、疲れを冗長して見せていた。
この半月で更に頬が痩けたようにも思える。
カタ、カタカタ、カタタ、カタンと、断続的にキーボードを叩く音が続く。打ち込んだ、と思えば左手は打ち込みを続けたままで、右手は手元の書類を開いたりメモをとっていたりと忙しない。

ふう、と溜め息をついて、彼は眉間を揉んでいる。そのタイミングで風華は今度こそ声を掛けた。

「喜助さん。少し、休まれますか?」

「うーん、そうしたいのは山々なんスけど」

喜助は受け取った湯飲みから一口茶を啜って「総隊長も人使い荒いっスよねぇ」と眉尻を下げた。

「でも、これはもう一息なんで終わらせちゃいますよ。あとは自分の分がね」

「自分の?」

「うん。崩玉対策もしないと。なぁんであんな面倒なモノ作っちゃったんスかねぇ。いやァ、天才っていうのは罪だなァ・・・なーんて、アナタには通じないか」

へらへらとだらしない程に気の抜けた笑いを浮かべていた喜助は、その口許を引き締めた。

「秘策はあるんスよ。ただね、実験しようがないのが少し賭けに近いところでさ」

絶対の成功が約束されている訳ではないと告げる彼の言葉に身を固くする。確かに霊圧を封じる実験など、おいそれと出来るものではないとはいえ、それでも不安材料であることは確かだ。何らかの形で実験出来るものがあればいいのだが、対象となるものが存在するはずがない。
今回の戦闘に参加せず、かつ、死神あるいはそれと同等の力を有している存在、など。

「ま、なるようになるデショ」

喜助はさして気にも止めていないかのように、肩を竦めるとふいに柔らかな瞳をこちらへ寄越した。

「これが終わったら、一度向こうに帰りましょう」

「向こう?」

「そう。向こうに置いてきた貴女の荷物、取りに行かなきゃ。殆どそのままにして来ちゃったでしょ?」

「ええ。でも、もう百年以上も無人だったから・・・」

誰の手も入らない邸がどうなっているかなど、考えるまでもない。どれほどの荒野になっているのやら。
そもそも、ちゃんと邸として残っているのかも怪しい。

「これを、」

「なぁに?・・・喜助さん、これ!」

差し出されたものは白い文。
宛名は『跡 風華様』と書かれている。名前に驚いたのではない。その筆跡に驚いたのだ。それを風華が見間違う筈もない。
彼は静かに頷く。読んでごらん、というように。

震える指先で開く。

ーーーーー跡さん、お元気ですか?
     貴女が無事だと分かって、とても安堵しました。

「卯の花、隊長・・・」

そう始まった手紙は、かつての上司であり、育ての親であり、実の姉とも呼べる人物からのものだった。
そこに書かれていたのは、彼女が居なくなってからずっと身を案じてくれていたこと、いつでも風華の帰りを受け入れられるように席を空けてくれていたこと、最低でも月に一度は手入れをしてくれていたこと、賊に取られてはなるまいと両親の形見になりそうな品々はすべて卯の花の家に保管されているという類いのものだった。

その一言一言に、目頭が熱くなる。
無茶ばかりしてごめんなさい。
何も告げずに居なくなってごめんなさい。
ずっと心配を掛けてごめんなさい。

必ず、また会いに行かなければ。
会って、話をしなければ。

まだ喜助の疑いが完全に晴れたわけではなく、それ故に、風華も接触を避けていた為、彼女とも顔を合わせてすらいなかった。けれど、そんな過去のことなど気負わずいつでも帰っていらっしゃいと言ってくれている。
風華がそう固く決意して、紙を畳む。と裏面に何やらまだ文字が続いている。

ーーーーー追伸:顔を見せにくるときは、
        浦原さんや、子どもも一緒にいらっしゃい。

「もう、烈姉様ったら、」

少しばかり茶目っ気のあるその締めの言葉に思わず風華が吹き出す。子どもも、だなんて。まだ籍すら入れていないというのに。
それを見ていた喜助は、僅かに眼を丸くしたものの、すぐに破顔した。

「イイコト、書いてありました?」

「ええ」

「そう」

しかし、これは一体いつ書かれ、そしていつ預けられたものなのか。
恋次がここに居候として訪れたときだろうか。
だとすると渡すのが遅いように思う。何かの資料と合わせて届けられたのだろうか。彼女のことだ。重要なものではなく私用の文などおおっぴらに、しかも他隊の隊士においそれと預けることなどないだろう。そのくせ「浦原元隊長の元でお世話になるのでしたら、これもお願いします。渡すのは時間のあるときで構いません。ちゃんと渡していただければ、本当にいつでも」などとちゃっかり口添えしたに違いない。

「喜助さ、」

「ーーー風華サンは、」

もしかしたら、これが紛れたまま渡されていた可能性も否めない。仮にそうだとすれば喜助の邪魔をしてしまっただろうか、と風華が口を開きかけたときだった。
喜助は彼女から視線を外したまま、言葉を空に放り投げた。

「帰りたいですか。すぐに」

嗚呼。
彼は中身を読んでしまったらしい。
やはり、邪魔をしてしまったのだ。

風華はゆるゆると首を振り、喜助の両頬に手を添える。
彼の視線がさ迷わないように。
彼の言葉が道端に転がってしまわないように。

「私の帰る場所はここ。貴方のいる場所よ」

深い深い海の底を思わせる碧色の瞳が揺れる。
その瞳を射抜くように見つめ返して「貴方なしにはいられないのに、」と啄むように唇を重ねる。
離した唇がまた引き寄せられる。
酸素を取り入れる為に空いた隙間から、「必ず、会いにいきましょうね」とくぐもった吐息が漏れて、返事の代わりに彼の羽織をぎゅっと握り締めるのだった。



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