追憶の歯車

りぃん、りぃん、と羽虫の音色がよく通る。
靡く風に、灰褐色の雲が濃紺の空を横切り、ふつりとそれを途切れさせる。雲間に隠された月がぽっかりと姿を表すだけで、縁側は充分過ぎるほど見渡すことが出来た。
青白い光の元、からんころんという下駄の音とざりざりと草履をする音が近付いてくる。

「お帰りなさい。喜助さん、一心さん」

「おう。邪魔するぜ」

「ただいま」

懐かしい黒衣に身を包み片手を挙げて答える男に続いて、帽子の鍔に手を掛けて視線を逸らした男が敷居を潜る。居間へ通すと、黒髪の男はどっかりと腰を下ろすなり口を開いた。

「考えてみりゃ、最初に真咲の命救ってくれたのは、お前だからな。ま、そこが何より不本意なんだけどよ」

「・・・一言余計っスよ」

対して縁側から外へ脚を投げ出して座った喜助は、煙管に灰を詰めて苦々しげに吐き出した。
救ったはずの命を、見捨ててしまったことはこの場に居る全員が認識している。辛うじて返答したものの、喜助は手元に落とした視線をあげようとはしない。
見かねた風華が声を掛ける前に、一心は呆れたように肩を竦めて喜助に語りかけた。

「俺と真咲が出逢って、家族になって、三人も子どもこさえて・・・ぜーんぶ、お前のお陰だと思うと、遣りきれねぇよなァ。あー、参った参った」

責めるようにも聞こえるその言葉は、しかし責めている訳ではない。
寧ろ、感謝しているのだ、と告げてくれている程だ。
けれど、そのまま受け取ることのできない喜助は批難するように眉根を寄せた。
当然だ。彼女の命を見捨てたのだ。
きっと助けられた。
きっと間に合った。
けれど、見捨ててしまった。

「・・・恨んでるなら恨んでるってはっきり言ったらどうなんスか」

彼の声に刺が混ざるのも仕方がないのかもしれない。
ちりん、と夜風と戯れた風鈴が澄んだ音色を奏でた。

「そうカリカリすんなよ。お前もとっととガキでも作りゃ落ち着くんじゃねぇか?」

「なんで今の話からコドモ作る話になるんスか?」

「さァな」

彼は鼻を鳴らすと、風華が引き留める間もなく「また来る」黒衣の裾を翻して帰っていった。

一人居なくなっただけで、途端にしんと静まり返る。先程まで聞こえていた虫の音も、澄んだ金属の音もなく。

「・・・本当に、狡い男だ」

主語のないその言葉は、けれど何よりも判りやすい言葉だった。風華は何も言わずにただ背後で控えていた。
喜助は彼女を振り返るでも、抱き寄せるでもなく、ただただ庭先に視線を放っていた。
それは、何かを見つめているようにも、はたまた何も見ていないようにも映る。

「そう思いませんか」

虫の音に掻き消されそうな程の掠れた声だったが、それは静かな水面に投げ入れられた石のように響いた。

「そうね。貴方は、・・・狡い人だわ」

いっそ怪しまれるように大げさな道化を演じて猜疑心を煽り、敵か味方かの判断は相手に委ねて。
相手からこちらの懐に入り込みたくなるように仕向けて。
そのくせ、自身の本心はいつもひた隠しにして。
これを"狡い"と言わずになんと言おうか。

「でも、それを分かっていて、こんなにも身を徹して、心を砕いて、抗ってきた・・・だから、もう、充分なの」

腕を伸ばしてそっと彼の髪に触れる。
喜助は「そうだといいけど」と目を伏せると、風華の方へ体を凭れかかり、そのまま彼女の腿を枕代わりに頭を預けて横になる。

「貴方を詰る人もいるかもしれない。批難する人もいるかもしれない」

「・・・うん」

「そのときは、私も貴方と一緒に受け止めるわ」

「ありがと、風華」

男の柔らかな月光色をした髪を鋤く。少しばかり癖のある髪は、ところどころ痛んでいるのか毛先が尖るように外に跳ねている。

「ごめんなさい、」

「どうして謝るんです?」

ーーー貴方の力になりたいのに、何の助力も出来なくて。
ーーー貴方の助けになりたいのに、慰めることさえ出来なくて。

「・・・ううん、なんでもないの」

けれど、これを告げればまた彼に要らぬ気遣いをさせるだけ。
せめて、彼の前では笑っていようと。
それだけは、固く誓ってきたことだから。
胸の内の翳りを押し込めて、ふわりと微笑んだ風華が彼の額に手を当てると、喜助はその手に自身の手を重ねて「少し、こうしてて」と呟いた。
暫く後にすうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。
寝入ってしまったらしい彼の細い薄色の髪に、指先を遊ばせて、風華は徐に重ねられた彼の掌にそっと口づけを落とした。

「ーーーーー遅かったようですな」

「鉄裁さん、」

身を起こして振り返ると、男が頭を下げて敷居を潜るところだった。
彼の体が大きすぎて、昔ながらの日本家屋では縦も横も足らないのは当然と言えば当然だった。それでも、喜助に合わせてあるのかある程度の身長には対応しているはずなのだが。

「ついさっき、寝入ったところで」

「ふむ。致し方ありませんな。代わりに、いかがですかな?」

鉄裁の手には、喜助に頼まれていたのか、酒と小鉢が乗せられていた。是非にと風華が破顔すると、彼は大きく頷いて彼女の隣に膝を折る。
空いた片手で注がれた酒を受け取る。
冷たい液体が注がれ、グラス越しに指先の熱が奪われる。
小さなその口を、かちりと合わせて煽ると鉄裁はひたりと彼女に視線を向けた。

「風華殿が居たから、ここまで来れたのです」

「そんな、私はーーー」

鉄裁は遮るように、掌をぴたりとこちらへ向けて首を振る。

「謙遜されるな。道を違わずに居られたのは貴女のお陰です。代わって、礼を申し上げたい」

突然の言葉で戸惑ったものの、座したまま両脇に親指をついて深く頭を下げる大男を見れば、本当にそう感謝されていることは確かだろう。
風華はゆるゆると首を振った。

「鉄裁さん。お願い、頭をあげて」

彼の厚い肩にそっと手を置く。彼に頭を下げられるなんてもっての他だ。

「私に出来たことなんて少ないわ。きっと、誰が欠けてもここまでは来られなかった。だから、これは、皆のお陰なのよ」

そう、風華だけの力でもなければ、鉄裁達だけの力でもない。彼に関わった人物の、誰一人欠けてもいけなかったのだろう。
自身の膝の上で、緩やかに胸板を上下させる男を見下ろす。
こんなに穏やかな寝顔を晒しているなんて。
けれど、まだ眉間に刻まれた皺が見受けられる。彼が本当にあどけない寝顔を見せてくれるまで、もう少しのところまで来れたのだろうか。
そうだといい。

「ん、・・・風華、・・・?」

「なんでもないわ。まだ寝てていいのよ」

ゆるゆると瞼を開きかけた喜助の額を撫でる。
数回撫でると、安心したようにまた眠りについた。
その様子を見ていた男と目を合わせてひっそりと笑いを堪えた。
いつかまた、皆で楽しめる時がきますようにと願いながら。



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