道外れの機械人形
ーーーちゃぷん。
背後で湯が跳ねる音がした。
一拍遅れて、微かな吐息も。
「・・・、ここ、?」
「どうですか、傷は」
喜助は浴槽の縁に背を預けたまま問い掛ける。
ようやく目を覚ました風華は慌てたように、喜助の羽織を掴む。
「喜助さん・・・?そうだ、私!・・・雨ちゃんは!?」
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて。とりあえず、今はアナタの傷を治してくださいな」
振り返って、自身の羽織を掴む濡れた彼女の手をそっと剥がす。
風華は手が濡れていたことに気付くと、はっとしてその手を浴槽の中へ引っ込めた。
あれから、帰宅するなりすぐに風呂釜に薬湯を張った。
喜助と鉄裁が現れたことで安堵したのだろう、帰宅前に眠るように彼女は意識を手離していた。凡その傷は鉄裁により塞がれていたから、後は薬湯に浸かってもらえばいい。
湯を溜める間、雨が今にも泣き出しそうに瞳を潤ませて駆け寄ってくる。その頭を「大丈夫だよ」と撫でてやると、ほっとしたように目元を袖で拭うと、「・・・風華さんの着替え、とってきます」と二階へ上がっていった。
その合間に、喜助自身も汚れた衣服を洗濯籠の中に放り込み、シャワーで身を清めて、新しい作務衣に着替えた。
そうして、彼女には浴衣を羽織らせて今に至る。
喜助はまた背を向けて、胸の奥に溜まった息を吐き出して新しい酸素で肺を満たす。
それは思った以上に深い呼吸で、先程まで息を詰めていたことを示していた。
「喜助さん、・・・あの、」
「ん?」
「・・・ごめんなさい」
背を向けた喜助に対して、彼女はおずおずと言いづらそうに謝罪する。
怒っていると思っているのだろう。
実際、怒りはあった。だが、その怒りが、風華に対してのものなのか、それとも喜助自身に対するものなのか。はたまた雨に対するものなのか、葬ったあれに対するものなのか。
未だに判別できずにいた。
だから、その謝罪になんと返すべきかが分からなかった。
「・・・どうして、」
どう返事をすべきかと悩む頭の片隅で、彼の思考回路は確認すべき事柄を弾き出した。
「どうして、刀を抜かなかったんですか」
「それは、・・・雨ちゃんが、いたから」
「どういうことですか?」
護るべき対象がいて、何故力を放棄することを選んだのか。
それでなくとも、あの状況で斬魄刀を振るわない理由などあるのだろうか。
何を視るでもなく、適当に浴室の壁へと視点を投げたまま喜助は眉根を寄せた。
「喜助さん、言ってたでしょう?"強い力に引き寄せられて暴走してしまう可能性がある"って」
確かに語った。
だから、今別の義骸を調整しているのだ、と。
「やっと、怖い思いをしなくて済んでるのに、また怖い思いをさせたくなかったの」
望んで戦いに身を置いている訳ではない。
雨は被害者だ、と。
だから彼女は自身を囮にしてでも、少女を護ることを選んだのだ。
合点がいった。成る程、それで彼女はあの状況下で躊躇ったのだろう。
「だからといって、自分の身を危険に晒してまですることじゃない。それは、愚か者のすることだ」
間違っていたことは彼女も分かっている。
己と相手の力量を判断できなかったこと。
最も適切な対応ではなかったこと。
叱責されて当然だ。
彼女も言われるがまま、謝罪を繰り返す。
「本当に、ごめんなさい」
「・・・アナタのそういうところ、分かってたはずなんスけどね」
ーーーーー違う。
そんなことを言いたいんじゃない。
謝ってほしい訳じゃない。
喜助はそこで漸く体ごと振り返る。
雨上がりの土のように重たげな色に姿を変えた湯に濡れた髪が、まだ擦り傷の残る顔に張り付いている。
春の木漏れ陽を宿した琥珀色の瞳が切なげに揺れて、けれど真っ直ぐにこちらを見ていた。
その風華の頬にそっと手を伸ばす。
ところどころに痛々しい擦り傷が残っていて、それは指先にいくつもの凹凸を告げた。
彼の胸の内にあるものは、彼女への感情は怒りではない。
「綺麗な顔に傷が残ったらいけないね」
「喜助さん、」
湯を掬って、もう一度その顔に触れる。
薬湯は直ぐ様、その傷を埋めて、白い肌を修復し、再び磨かれた珠のごとき滑らかな肌となる。
三度めに触れた肌は、指先に先程の傷も何も伝えてこない。
代わりに、かけがえのない彼女の存在を伝えてくれる。
「無事で、良かった」
「ーーー・・・っ、!」
眼を見張った風華は、何事か口を開こうとしたが、それも僅かな合間のことで、きゅっと、強く唇を引き結ぶ。
その彼女の頬をつう、と一筋の透明な滴が滑り落ちてゆく。
「良かった。本当に、良かった」
口許を抑えて、彼女は俯いていた。
声を上げることなく、ただただ静かに打ち震えるように涙を流す風華の濡れた髪を、肩を、背を、何度も何度も繰り返し撫でた。
その存在を、確かめるように。
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