鈍色の歯車
その日は冷水を頭から被っても、一向に気分は晴れなかった。
もう一度、風呂桶に冷水を溜めて、それを頭からざばりと被る。冷たさに体は冷えるものの、芯までは冴えてくれなかった。
カラカラ、と戸を引く音がして振り返る。濡れて張り付いた前髪の隙間から、タイルに触れた華奢な爪先が垣間見えた。
「・・・風華、」
「背中、流そうかと思って」
喜助が視線をあげたときには、彼女はこちらに背を向けて風呂の引き戸を閉めていた。片手に手拭いを持ち、白いタオルを一枚体に巻き付けて入ってきた彼女は、しゃがみこむと先程冷水を溜めた桶に温かい湯を張る。
髪をくるりと纏めあげていて、真っ白な項が晒されていた。
鉄裁が使うということもあって、脱衣場から洗い場、浴槽に至るまで広々とした風呂場を作っていたから、狭くはない。
風呂場を心を洗う場所と語る先人の言葉に倣い、ゆったりと羽を伸ばせる場所としたのだ。
ざばざば、と音がしてから暫くすると背中に手拭いが触れる。彼女は無言で背中を擦る。
喜助も何も言わずに、ただされるがままじっとしていた。
数回背中を擦ってから、湯をかけて泡を洗い流す。
ごぽごぽと音を立てながら、排水溝に泡が渦巻いて流れてゆく。
「・・・ごめんなさい」
ぽつり、と風華が呟いた。
それは、泡の流れる音に掻き消されてしまいそうなほどの声量だった。
「どうしてアナタが謝るんですか」
「私が、・・・私がちゃんと出来ていなかった。それで、貴方の足を引っ張ってしまった」
背中に置かれた小さな掌から僅かに震えが伝わってくる。
夕飯時に口を利かなかったときから分かってはいたが、先程のことに負い目を感じていたのだろう。
「あれは、ただ彼が観察眼に優れていただけでしょ」
「でも、」
「風華。言いたいことがあるんなら、ボクの眼を見て言って?」
びくりと動きを止めた彼女に「後ろ向きのままなんて、卑怯でしょう?」と追い討ちをかける。
「・・・ごめんなさい」
「風華サン、顔あげて」
どうにも動く気配のない彼女を、首だけ振り返ってみると、やはり視線を外して項垂れたままで。
こちらに伸ばされた白い腕と薄茶の髪しかよく見えない。
「風華サンってば」
それでも顔をあげない。
仕方ないな、と一息ついて喜助は「はい、交代」と風華の体を抱えて座っていた腰掛けに座らせる。
座らせるときについでにタオルも剥ぎ取っておいた。
「きゃっ!?」
「ボクだけ洗ってもらうなんて不公平だからね、」
「やだ、私はいいから、」
「・・・綺麗なカラダ」
ちゅっと背中に吸い付けば、赤い花が散る。
先程は気付かなかったが、項のあたりに、数日前につけたであろう痕がうっすらと残っていた。
「んっ、」
「風華はさ、」
「な、に?」
くすぐったいのか、既に快感を呼び起こされそうなのか、彼女が身動ぐ。しゃらりと鳴った鈴の音に、風華がいつもの簪で髪を束ねていたことに気づく。
「やっぱり今のままじゃ、不満・・・だよね?」
それは、ずっと喜助が避けてきた問い掛けだった。
訊けば、彼女が、どこか遠くへいってしまうような気がして。
都合のいいことを押し付けているとは思っていた。
だから、ずっと、訊かずにいた。
けれど、それを他人に指摘されてしまった。
あんなにも、激昂してしまったのは、結局認めたくないことを指摘されてしまったからに過ぎない。
随分と子どもじみたことをしてしまった。
「私があのとき、無理に」
「『着いてきたから言える立場じゃない』っていうのはナシで」
今さら気付いていない振りは、もう出来ない。
なら、とことん腹を割って話す必要がある。
風華とて、そのつもりなのだろう。
でなければ、わざわざ入浴中に押し掛ける必要などないのだから。
夕飯時は鉄裁がいて、就寝時は寝た振りで喜助が誤魔化してしまう可能性を考えて、逃げ場のないこの時を狙ったのだろう。
「・・・・・・」
「風華サン。返事は?」
「・・・はい、」
しかし、目論見が外れたのか出鼻を挫かれたのか、それきり黙ってしまった風華があまりに口を割らないので「早くしないと前も洗っちゃうよ?」と腕を腹に滑らせた。乳房の下にわざと触れるように掠めてからまた背中に戻る。
「んっ、もう、」
風華が不服そうな声をあげる。
つい茶化してしまうのは悪い癖だと喜助自身も分かってはいるが、彼女もこの方が馴れているだろう。
もう一度、指を這わせようとしたところで、悪戯なその手を払われた。
「・・・私は、満足してるわけじゃないです。・・・でも、そこまで不満にも思ってもないんです」
「そう?」
話を聞く片手間に、背中を流す。染み一つ、傷一つない白磁のような肌はすっと水を弾いていく。
「だって、目の前に為すべきことがあるのに、それを無視して、自分だけが幸せになるなんて。そんなこと、出来ないでしょう?」
「うん、」
「確かに私も、いつかは、貴方の名前が欲しいです」
「・・・うん、」
「でも、それはまだ早いから、だから平気です」
そこで彼女は振り返ると「それに、私は指輪以上のモノを貰ってますから」と破顔した。
しかし、彼には風華の話が分からずに首を傾げた。
「何かありましたっけ?」
「ふふ、これです」
そう言って彼女が指し示したのは件の簪。
頭を振るうことで、またしゃらりと涼やかな音が浴室に谺する。
そこまで大事にされるとこそばゆいモノを覚えて、ついぶっきらぼうな返事をしてしまった。
「そこまで大層なモノじゃないでしょ」
「でも『最愛』って意味を込めて、バラと一緒に貴方が下さったんだもの。私には、これで十分です」
そう言ってまた薔薇色に頬を染めて風華が微笑む。
しかし、それなら。
「・・・なら、どうして、」
風華が欲しいものとは?
彼女は何が足りなくて『寂しい』『恋しい』と嘆いていた?
「喜助さん、」
風華は一度何かを耐えるように瞼を臥せて、そうしてまた長い睫毛をゆっくりとあげてゆく。
澄んだ琥珀の双つの瞳が、迷いなく、告げる。
「私のことを、『連れてきてしまった』とか『巻き込んでしまった』とか、思わないで」
「・・・・・・それは、難しいよ、」
その視線を受けきれず、ふいと眼を逸らしてしまった。
いつまで経っても、それは自責の念として燻っている。
「分かってます。私も同じ。だから、」
彼女は無理に着いてきてしまった、と。
喜助は無理に連れてきてしまった、と。
彼らは互いにそう思っている。
こんなにも側に居るのに、互いを大切にしすぎて、それがかえって隔たりを生み出してしまっていたのだろう。
「私に出来ることなんて少ないとは分かってるんですが、私にも、もっと貴方のお手伝いをさせてほしいの」
ずっと、彼女が自身に言いたかったこと。
だから、先程も、『責めないで』と言ってくれたのか。
「風華、でも・・・いや、」
違う。
これでは、今までと変わらない。
彼女がさらけ出してくれたように、彼もまた、一歩踏み出さなければならないのだ。
「・・・ありがとう」
喜助は、その華奢な体を、まるで初めて触れるかのようにそっと抱き寄せた。
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