鈍色の歯車

「そんなわけで、俺ここの担当終わることになりました」

下校中の子供たちが居なくなり、店仕舞いをしようかという頃を見計らったかのように、ふらりと姿を現せた桑折は茶を一口飲んでから、笑ってそう告げた。

「おやまァ。寂しくなりますねぇ」

「ったく、よく言うよ、この御仁は」

片手間に火鉢の番をしながら相手をする喜助に、視線を投げつつ桑折は苦笑していた。
陽が落ちると急激に冷え込むようになり、灰が尽きると次に火を起こすまでに時間がかかるから、手を抜けないのだ。

「いやいや、本当ですって。いい金ヅル、じゃなかった、いい話し相手だったのに」

「くく、金ヅルか!確かにここには最初から最後まで世話になったもんだ」

続く喜助の嫌味も、さらりと交わして彼は笑う。大した男だ。これで新米だというのだから、恐ろしい。もう十分な地位があっても良さそうなものを。それとも、自身が去ってからは、優秀な人材がごろごろ転がっているのだろうか。
そこへすっと障子が引かれて、風華が茶菓子を運んできた。
入ってきた風華を見上げて、彼は思い出したように「そうそう」とまた口を開く。

「最後だし、訊いておきたいことがあってさ」

「なんデショ?」

「いや、浦原さんじゃねェんだ。奥さん、じゃなかった、風華さん」

彼はあろうことか、盆を手にして立ち上がろうとした風華の手首をとって引き止める。
それを制止する喜助の声も聞かず、彼は風華に話しかける。
彼女は驚いたものの、膝立ちのまま、彼と視線を合わせる。

「ちょっと、桑折サン。人の奥サンに何してるんスか」

「名前、教えてくれません?」

「・・・名前、ですか?えっと、風華ですけど」

「違う違う。苗字の方!」

「・・・旧姓、ですか?」

風華が困ったように此方に一瞥を呉れてから、首を傾げた。
揺れる琥珀の瞳に、しかし、喜助にも彼の質問の意図が把握できず答える術もなく、同じように首を傾ぐしかなかった。

「・・・まぁ、そりゃそうか。質問を変えるよ、風華さん」

「・・・?」

「あんた、実際にはまだ結婚はしてないんだろ?」

「・・・っ!?」

びくりと風華の肩が跳ねる。
彼女は身を引こうとしたのだろうが、男の手が、その白く細い手首を捕らえているからそれも敵わない。
明らかに狼狽した彼女の様子を見て、「やっぱりな」と桑折は嘆息している。

「桑折サン、それはどういう意味ですか」

ざわりと血潮が騒ぐ音が脳内に谺する。
事と次第によって、残念だが、彼の帰路を絶つ必要がある。
一気に緊迫した空気に気付いているのかいないのか、彼はあっさりと自身の考察を口にする。

「んー?いや、話しを聞いてた感じだと、二人ともここに移り住んで長そうなのに、風華さんが指輪してるの見たことないな、と思ってね」

「・・・指輪?」

「そ。現世だとさ、夫婦は指輪してるんだぜ。愛の誓いだとかなんとかで」

知ってるだろ?と問われて僅かに首を縦に振る。
風華も同じように頷いている。
確かに、近年の現世の人は指輪を嵌めていることが多い。特に、女性は大事にしている人が多いように思う。
時折、風華が問われて「勿体無いから仕舞っているんです」と誤魔化しているのを聞いたことがある。
それほど普及しているということだろう。

しかし。

「そんなことで、」

そんなこと。
けれど、そんなことの積み重なりが歪みを生むこともある。喜助の中で歯牙にもかけないはずのことでも、このように嫌疑の元になることもある。

「そんなことじゃないさ。それによく見てれば違うんだよなァ」

火のないところに煙はたたないものさ、と彼はあっけらかんとして続ける。 

「何が違うんです?」

「気付いてないか、浦原さん。風華さんさ、"奥さん"って言われると、ちょっと寂しそうな顔してるんだぜ」

「・・・そう、なんですか?」

はっとして振り返る。言われた本人も無自覚らしく驚いたように目を見開いて、それから、喜助から顔を背けるようにして睫毛を臥せる。

「分かりません・・・けど、」

「けど?」

「騙してるみたいで、ときどき心苦しいことはあるかも」

申し訳なさそうに風華が頭を垂れる。
何も彼女が気に病むことではない。だが、彼女の様子は、それだけではないように思う。
何か、言いたいことを呑み込んで、胸のうちに蓋をしているような。まだ何か、彼女に強いてしまっていることがあるのだろうか。既に風華の地位も未来も奪ってしまった。だから、これ以上彼女に強いることはしたくない。
けれど、まだ、何かーーーー。


「なぁ、風華さん。それって俺が思うに恋しいんじゃないか?」

「・・・恋、しい?」

思いも寄らなかった単語を、辿々しく彼女が鸚鵡返す。 
そんなはずはない。彼女が想いを馳せるようなものは、すべてこちらに移したはずだ。
これ以上、彼女を惑わせるものなどーーーー、

「そう。向こうが恋しいんじゃないか?事情は知らねェが、仮の夫婦やってんだろ?それって、本当は向こうに一番大切な人がいてその人が、」

ガタン、

「喜助さんッ!!」

卓袱台の上に転がった湯飲みから、ぼたぼたと茶が畳に落ち、じわりじわりと染みが広がってゆく。
風華の自身を呼ぶ悲鳴に近い声をどこか遠くで聴いていた。
だん、と勢いよく引き倒された男は頭と背中を強く畳に打ちつけられた衝撃に顔をしかめている。
批難されて然るべき行動を起こしていることは分かっている。凡てを無に帰してしまいかねないほど、愚かなことを。
けれど。

「ってー・・・」

「それ以上無駄口を叩くようなら、」

まだ始解もしていない杖を喉元に押し付ける。
自分たちのことを何も知らない男がぬけぬけと。
ましてや、彼女がどれほどの覚悟でもってここに居てくれているのか。
何も知らないものが。よくも。


ーーーー彼女を、騙るな。


「二度と口を利けない体にしてあげます」

誰に何を咎められようとも、加減など、出来よう筈もなかった。



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