鈍色の歯車
夕飯の片付けを鉄裁に引き継いで、早めに湯を上がった風華が紙袋を持ってきた。袖の長い白い衣を纏っている。
「風華サーン、今日はアタシも着いていっていいですか?」
「構いませんけど、」
腰をあげて振り返ると、「見ててもつまらないと思いますよ?」と風華が首を傾げている。その彼女の手から「そんなことないよ」と紙袋を奪う。
長い沐浴着に着替えた彼女の髪は、まだ乾ききっておらず、しっとりと水気を含んだまま下ろされている。
簪は先程部屋に置いてきたのだろう。代わりに彼女の掌には白い刀が握り締められている。
広く殺風景な地下室に降り、喜助は少し離れたところで静観する。
白い衣を纏った彼女の姿は、ひどく神聖な遠いモノに見える。
「謳え、君影」
すらりと抜かれた刀身が淡く青白い光りを放っている。
買い込んだ鈴蘭の花の苗を床に置くと、腕に切っ先を宛てる。ぷつりと肉が弾け、合間から赤い雫が盛り上がる。
軽く刀を引けば、その雫が後から滴り落ちて、白い花弁が赤く染めあげてゆく。
白い衣を一枚身に纏っただけの彼女が片膝を着くと、ふわりと地面に裾が広がった。
ざん、と鈍い音と共に刀を地面に突き立てる。
風華は指先で印を作り、高らかに諳じる。
赤い海 無数の手
鳴り止まない鈴の音
夜空を駆ける馬
惑い・嘶き・項垂れて堕つ
腐った果実 行方知れずの匣
聞け 偽らざる者にして改竄せし者よ
ーーーー印影回廊
吟うような声を響かせると、きん、と金属が触れ合うような音がして彼女は突如表れた海に呑み込まれる。
球状に生じた海中をゆらゆらと風華の髪や裾が靡く。
先程血液を分け与えた鈴蘭は、彼女の刀と同じく、青白く発光している。既にその血液は跡形もなく消えている。
彼女の周りにある鈴蘭の花弁もゆらゆらと揺れ、ひとつ、またひとつと花弁の先から丸い粒が吐き出されてゆく。
瞬く間に大量の粒がその海中に溢れだした。
風華が斬魄刀を地面から引き抜くと、すうっと音もなく海は消え去り、その粒がばらばらと地面に転がる。
海中にいたはずの彼女の体は一滴も濡れておらず、何度見ても不思議な光景だ。
濡れていないはずの刀を律儀に露払いをしてから、彼女はその刀を鞘に納める。
ふう、と大きく息をついた彼女を労うようにして、喜助が声を掛ける。
「・・・お疲れ様でした」
鬼道で傷口を治癒している風華の代わりに、散らばった珠を集める。
「いいえ。こんなことぐらいしか、私が役に立てることってありませんから」
「そんなことないよ。風華のお陰で随分楽させてもらってる」
掃除さながらに、箒と塵取りでその珠を回収して、纏めて袋に入れる。後は彼女特製のレシピで調合して、いつものように店先で香の代わりに炊くだけでいい。
時間の流れが違う人々の側で生きていくには問題も多い。一つ処に長く留まってしまえば、それだけで怪しまれることも増える。いくら関わりを控えようとも限界がある。
第二、第三の隠れ家を平子達と相談していたときのことだ。
『もうここも長いから、そろそろ移らないと。・・・平子サンはどうしますか?』
『せなや。まァ、俺等も適当に探すとするわ』
『町の人全体に、記憶置換使うのも大変なんスけど・・・仕方ないっスよねぇ』
『アンタら、何ゆーてんの』
『何って、大事な相談してねんや。ひよ里はあっちで遊んどき』
『なんやねん、ハゲのくせに、えらそーに!』
『ハゲてませんー!』
『まあまあ、』
『お前もなんでそんなへらへらしとんねん!』
『いやいや、真面目な話してるんスよ』
『せやから!なんでそんな無駄な話してんねん』
『無駄てなんやねん』
『せやから、風華に頼んだらええやん』
『・・・・・・は?えーと、なんでここで風華サンが出てくるんです?』
『喜助、アンタ知らんのかいな』
『何をですか?』
『風華の能力に決まっとるやろ』
なぜそんなことも知らないのかと、さも不思議そうな顔で見上げられて返答に窮してしまったのは記憶に新しい。
聞けば、風華の能力は神経に作用するもので、人々の記憶さえ左右できるのだという。元々侵食するしかなかった能力を、治療に使えるようにしたのは卯の花だそうだ。
そこから更に、風華は独自で鬼道を編み出し、特殊な丸薬を作っていたのだという。
急遽、風華を呼び出して訊ねた。
『現世の人達の記憶だけを?』
『そうです。攪乱、或いは記憶の改竄でも構いません・・・出来ますか?』
『はい』
二つ返事で頷いてみせた風華に、二の句を告げられずにいると、何か勘違いしたらしく、慌てて取り繕うように説明し出す。
『もう少し強力なものがいいんですよね?ちょっと配合を考え直してみますから、少しだけ時間をいただけませんか?喜助さんの邪魔にはならないようにしますから』
『・・・え、あの、風華サン?』
『たぶん香りが弱くてそんなに効いてないのだと思います。あまり強くすると脳に異常が出るかも、と思って控えめにしていたんですが・・・、でも、やっぱりもう少し強めの香りで調合しますね』
『ちょっと待ってください!』
『・・・え?』
『・・・風華サン、そういうの、結構前からやってくれてたんですか?』
『あ、はい。夜一さんか、鉄裁さんから聞いてませんか?』
『・・・いえ、・・・初耳っス・・・』
着る服や、石鹸などに混ぜて、極力接点のある人間の記憶を惑わすように仕向けていたらしい。
親友や同居人から聞いていないのは致し方ないと思っている。何故なら逐一教えてくれるような性格ではないからだ。
特に夜一は、喜助以上に風華を猫可愛がりしている風潮がある。わざと伝えていなかったことは明らかだ。更に、鉄裁にも、『喜助が気付くまで言うでないぞ?』と口止めでもしていたのだろう。いい迷惑である。
かくして彼女のお陰で一々移り住む必要もなく、こうして留まれている訳である。
「しかし、記憶に作用するって怖いですよねぇ」
「そうですね。神経に作用するものばかりですから」
鉄裁が「これで良いですかな」と擂り鉢で珠を擂り潰したものを風華に手渡している。彼女は擂り鉢を覗きこんで「はい、十分です」と受け取ったそれを薬研で更に細かくしてゆく。
「アタシらがそれに影響されることってないんスか?」
「それは有り得ないです。そういう調合はしてませんから」
ごりごりと石臼が磨れる音がする。風華はじっと手元に視線を落としたまま答える。
「じゃあそういうことも出来るんスね?」
「ええ、やろうと思えば」
挽き終えた粉末状の薬をさらさらと袋に流し入れる。
それをまた鉄裁に渡す。次に彼が小さな小袋に分けて詰めてゆく。
「薬の割合が違うのですかな?」
「いいえ。薬ではなくて、これを作るときの花の分量と、使う鬼道が違います」
「ふむ」
鉄裁が大きな掌に似つかわしくない繊細な匙加減で均等に八つの小袋をつくる。余った粉をまたも風華に返す。今度は彼女がさらに小さな小瓶に詰めていく。持ち運び用の小瓶だろう。一時的に錯乱させるだけなら、軽く香りを嗅がせるだけでいいらしい。
「まあ、それでボクらが記憶なくすようなことになったら一大事だしね」
「そうですな、なぜこのような人物と共に居るのかと頭を疑いますな」
眼鏡でわかりづらいが、神妙な表情で鉄裁が深く頷いている。一瞥を呉れても意に介した様子もなく、淡々と道具を片付けてゆく。
「それ、ボクのことっスか?」
「はてさて、どなたのことでしょうな」
「鉄裁さん、程ほどに。意外と根に持つみたいですよ」
風華がくすくすと笑いながら、そっと鉄裁に耳打ちする。
鼻の下を伸ばしているように見えてしまうのは自身の嫉妬故だろうか。それにしたって彼女の警戒心の無さも問題だとは思うのだが。
「むむ、忠告痛み入りますぞ」
「・・・風華サン、後で分かってますね?」
目深に被った帽子の下から、じと目で睨むと、風華は笑って「ごめんなさい」と呟いた。
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