inversion



馬鹿げてる。
何が馬鹿げてるかというと、概ね全部だ。

八戒が追いつき傘をさしかけるまでの僅かな時間で、余暉は頭からずぶ濡れになっていた。下の服の色を透かした白衣の裾。そこから滴をしたたらせ続ける足元から玄関までを、小さな水溜りが結んでいた。
それを横目に風呂場へ向かい、蛇口を捻った。ややあって立ち昇り始めた湯気が浴室の空気を温めていく。しばしそれを眺め、余暉、と八戒はダイニングに立ち尽くしていた彼女を呼んだ。

「直ぐに溜まりますから」
「一緒に入るの?」
「どうぞお先に。着替えは用意しておきます」
「それっておにーさんのだよね?」

当然、そうだ。自分か。悟浄か。二つきりの選択肢でまさか人の服を差し出せよう筈もない。

「ご不満でも?」
「まさか。これ以上ないってくらいのベストチョイス」
「…でしょうとも」

嫌がるどころか、そう返ってこない訳がない。
結局のところ、こちらが眉を顰めるようなことならなんだって良いに違いないのだ。複雑な胸の内を映して微苦笑を浮かべた八戒に、余暉は例のごとく目を細くしてはにまりと笑う。

「先に入ってよ。こっちの身体のが希少じゃん」

言って胸元をなぞる細い指を、八戒は冷ややかな視線でなぞり返す。
家は遠いだの風邪をひいて死ぬだの、小雨の中、大して濡れもしない内から散々騒いでいたのは他でもない、彼女だ。

「…触られたくないものは除けておいて下さい」
「ねー」
「後は直接洗濯機に」
「ねーってば」
「一応洗うもののポケットは検めますのでそのつもりで。あの洗濯機にはまだまだ働いてもらわないといけませんから」
「………」

諸々を告げ脱衣所を出ようとする八戒の背後、余暉が大仰に手を打った。そうしてするりと正面に回り込んでくる。あぁそうだ、良い方法がある、と。

「一緒に入ろーよ」

伸ばされる手をいなす。底の見えない瞳は、それでも怯むことなく八戒へ視線を注ぎ続ける。

「お断りです。これ以上床に水溜りを量産するつもりなら服ごと放り込みますよ」
「問題解決、一石二鳥じゃん。せっかく家に上げてくれたのにお礼も無しじゃ悪いもの」
「お礼の話でしたら、お帰りになるまでの間その口を閉じていてくれるのでも構いませんが」

好きで招き入れた訳じゃない。その体裁は微塵も崩さずいる八戒に、余暉は少し考えるような間を開けた後、口にチャックの真似をしてみせた。





居付いて、いつの間にか当たり前の顔で家の奥にまで入り込み、気づけば足に体を擦りつけている。
飼ってない猫、というよりは謎の物体Xという方がしっくりきた。粘性の、それも形すら定かではない物体。それは時々チェシャ猫のような顔をする。


一先ず着替えを済ませてから、彼女の分の着替えとバスタオルを置いて、洗濯機も回した。
浴室からはくぐもった水音がしている。外からは、家に入るなり小降りになって、そこからずっと小康状態を保っている憎らしい雨音。そこへ古びた洗濯機がつっかえつっかえ垂れ流す唸り声が重なり、脱衣所がノイズで満ちた。空白を埋めるように、断続的に何かしらの音がしている。

悟浄の帰りは何時になるだろうか。
今日の晩御飯は残りもので許してもらおう。後は副菜を少しとお味噌汁を。
肩にのしかかる疲労感を押しやり台所へ向かおうとして、洗面台の端にある見慣れないものにふと気が付く。無造作に置かれているのは、文庫本ほどの大きさをしたレザーケース。

使い込まれた皮の表面へ指の先を触れさせると同時に浴室の扉が鳴った。小さなノック音。いつの間にか水音は雨のそれ一つになっていた。指を強張らせた様子を見てか、扉の陰からこちらを窺っているであろう音の主がくつくつと笑う。

振り返らぬまま短く詫び、脱衣所を出た。
戻った八戒が冷蔵庫の中を覗いていると、人の気配が側に立つ。肩にタオルをかけた余暉が、こちらを見て目を細めた。

「随分早いですね」

あれから直ぐに出て来たのか。髪は拭っただけのようだし、用意したTシャツもとりあえず被りましたと言わんばかりに一方の肩を剥き出しにずり落ちている。
返事はない。温まったか訊ねれば、彼女は代わりに口の端を歪め近寄って来ては、目の前で両手を広げた。

すっかり温まったと言いたいのか。触って確かめてみろなのか。
相手をするのも億劫で、黙ってはみ出した肩をしまった。子供のように彼女はされるがままになっている。
視線を下へと移せば、腿の半ばまでを覆う服の裾からは肉感とは程遠い棒きれのような足が二本、一糸纏わぬ状態で突き出ていた。思わず目を疑うほどに惜し気もなく晒されている。
大方の予想はつきつつも、向けた視線に身振り手振りで答えが返った。

「お礼はもう結構ですから、口で」
「…ウエストぶかぶかだったんだもん。邪魔だし」

答える余暉に頭を振り振り、また深い溜め息を吐き出した八戒の前髪に、伸びた指先が触れる。雨に濡れ艶と暗さを増した髪を二本の指が挟んで引けば、奥からじわりと滴が滲み出す。掬った髪を玩んでいたかと思えば、余暉はふいと踵を返した。
戸棚を開き、すっかり私物化したコーヒーセットへ手を伸ばす彼女の、背伸びの為に際どい所まで露わになった肌から目を逸らす。

「もうすぐ夕飯ですよ」

振り返る拒食児童は話を聞いているのかいないのか。ここは誰の家かと疑う手際で、着々と嗜好飲料の抽出準備を進めていた。

「…食べてっていいの?」
「どのみち直ぐには乾きませんから」
「服の話?」
「えぇ。流石にその格好で外に出るのは…」
「嬉しーな。心配してくれるんだ」
「誰だって止めます」

余暉はメジャースプーン片手に肩を竦めた後、「お風呂、空いてるよ」と風呂場を指した。用済みとばかりに放られたスプーンの柄が缶の縁で跳ねる。

「どうぞごゆっくり」

すり潰したような笑い声を洩らす彼女の脇、調理台の上には先程のレザーケースがあった。



財布ではないだろうし、彼女の性格とあの反応を思えば中身がキャンディの類だとも思えない。

浴槽の中、等間隔に水滴を並べた天上を見上げ、考えていた。
彼女と、三蔵と、そのまた上にいる彼らについて。
わざわざ彼女を迎えに行っておきながら、下された処分保留。今も監視下に置いてはいるものの、基本的には自由にさせているように見える。

ここへの出入りを黙認している辺り、危険性はないとの判断なのだろうけれど。彼のことだ、てめェの問題はてめェでといつの間にかその辺りの判断をこちらへ丸投げしている可能性もある。本格的な危機的状況を前にすれば口くらい挟んでくれる気でいるかもしれないが、それは本当にどうしようもなくなるまで手は出さないということでもある。

重い溜息を吐けば、身体は軽くなるどころか一層深く湯船の中へ沈んでいく。
好意を口にしながら、触れられたくない部分へ無遠慮に触れようとする彼女の真意も知れない。
そうしておいて対象からの好意を得られるなんて思う程おめでたくはないはずだ。
もしもこの身がまだ人間のものだったなら、彼女の興味を引く事も無かっただろうに。
持ち上げ眺める手の平を、透明な水滴が伝い落ちる。

赤と、縁。言い得て妙だ。
改めて並べ直せば全てが一本の線の上にある。
まさに身から出た錆そのものだ。起こした事件が三蔵と自分を繋ぎ、三蔵に連れられ訪れた先に彼女が居た。

彼女を惹きつけたのは、この身体に染み付いた大量の血の臭い。
この赤は呪縛のようについて回る。きっとこの先、どこまでも。

滴る水の音が静かに響くその向こう、今日は雨の音が一段と耳についた。

「―――――………」

かと思えば、帰って来たらしい家主と余暉の話声までがついでに漏れ聞こえてきた。

何か騒いでる…。

苦笑し、重たい身体を持ち上げる。
風呂から出れば、こちらも雨に降られたらしくタオルを被る悟浄の姿。部屋には微かな火薬の臭いが漂っていた。

「湿気てないか確かめてただけだってば、防水もしてなかったし、乾かせばまだいけるかなって。心配しなくてもそんなに危ないヤツじゃないよ。間違ったってこの家が吹っ飛ぶほどの威力はないから」
「おーおー、すげー説得力だ。なんたって自分の住処を瓦礫の山に変えたヤツの台詞だからな」

小皿の上の黒い粉が臭いの出所だろう。微量の火薬に見える。まー見ててよ、と掲げたそれに余暉が擦ったマッチを近づけた次の瞬間、巨大な鬼灯の実に似た炎が現れ、たちまちにかき消えた。

「ね?」
「…なーにが“ね?”だ! やめろっつったろ、人の鼻先炙りやがって!」

皿ごと燃えカスを取り上げた悟浄。気付いてはいないだろうが、その触覚の片方は先を焼かれたらしく、不発の線香花火のようにちりちりと音を立てて少しばかりの灰を落とした。対する余暉はというと、もはや対岸の火事と言わんばかり、頬杖をついてはおかしな生き物でも見るかのようにそんな悟浄を眺めている。

「熱かった?」
「ッたりめーだ!」

そうは言っても懲りないのが彼女だし、家主だって口ではあれこれ言うものの、結局は寛大というか雑把というか。飼っていない何かが入り込んで悪さをしても、まぁそんなものだろうといった結論に落ち着く事がほとんどだ。
性分なのだろう。雨の中で見ず知らずの男を拾って連れ帰っただけのことはある。

夕食後―――とはいえ一名は自分で淹れたコーヒー以外に殆ど口を付けていないが―――、ビール片手にポーカーを始めた二人は、足りないベッドを埋める代わりに朝までそれを続ける事に決めたらしかった。片づけを終えた八戒ももれなく引き摺りこまれ、台の上には早くも数本の空き缶が並んでいる。

「お前、誘うつもりがないんならその足仕舞え」

ゲームを幾度か繰り返した頃、悟浄が今しがた組み替えられた余暉の足を指した。

「誘ってるかもよ? 好みじゃないけど。ツーペア」
「ばーか、そりゃこっちのセリフだ。ストレート」
「フォーカードです」
「………フォーカードってこんなにバンバン出るもんだっけ」
「今日は調子悪い方だぜ」
「これで?」
「これで」

強制参加をさせられてからこちら、幾度か揃えた役を残し八戒は立ち上がる。

「僕はそろそろ失礼します」
「あぁ?」
「寝ちゃうの?」

頷けば、ゲームに興じていた二人からはブーイングが飛んだ。口々に何事か言い連ねているが、どちらも概ね言っていることは同じだ。二人にしてくれるな、と。

「心配しなくても、ずいぶん息は合ってるように見えますよ」

つとめてにこやかに告げた八戒を見つめたまま、余暉の指がくいくいと悟浄を呼んだ。

「機嫌悪くない? あれだけ勝ってて、挙句に勝ち逃げまでしよーとしてるってのにさ」
「…ま、良さそーには見えねえかもな」

顔を寄せ始まった格好だけのひそひそ話が漏れてくる。

「やっぱりぃ?やきもちかな」
「ねぇだろ。何した?」

悟浄が視線を流せば、受けた余暉の口元が歪んだ。

「心当たりは山ほど」
「早めに休みたいだけですよ」

どうせ直ぐまた無秩序に散らかるであろうテーブルの上を片付けながら潜めたやり取りに口を挟む。「ご心配なく」と言い置いた八戒を、黒過ぎる程に黒い瞳が見上げた。

「けど二割増し私に冷たいもの」
「あれで二割か、同情するぜ」

返事の代わりにトトンとテーブルが鳴る。軽い音はどうやら余暉の両手が打った音。伸びた指が琥珀色の液体で満ちた瓶を摘み引き寄せる。

「同情するならもっと飲もうよ。こっちも開けて良い?」
「手が先走ってんぞ。もうちょいなんか入れとけ」

言って悟浄が広げたつまみの幾つかを余暉の方へ押しやった。そうして八戒に向け片手を振る。さっさと行けと。

「…余暉、もし眠る様なら僕が、」
「いーよ。寝るのって大体8時とかそこらだし、こんな時間じゃ眠くもならない」

思わず見たばかりの時計を確認した。針はもう0時を回ったところだ。

「朝のか?」
「ご名答」
「完全に昼夜逆転してやがるな」
「おにーさんと同じだね」
「そこまで酷かねーよ」

雨音に混じり、静かなノイズさえもが耳に障る。

「…すみませんが、お先に」
「おー」

何か言おうとした余暉の頭を大きな手が鷲掴んだ。
白い首がぐるりと回り、それをさせた男の方を向く。

「次だ」
「…りょーかい」

素直に応じる余暉の放ったトランプが、ぱたりとテーブルの上にひれ伏した。代わりに、二つのグラスが宙に浮く。

「氷、入れて来るよ。いるでしょ?」
「ワリィな」
「いーえ」





********





「けど正直飽きてきたよね」
「張り合いがねーからな」

配られた五枚のカード。場に捨てた分と同じだけ引いたカードを、面白くも無さそうな目が追う。手札を開けば互いにノーペア。見計らったようなタイミングでの引きの悪さが、つまらなさに拍車をかける。勝った負けたも、とっくに惰性でしかなくなっていた。
ゲームというよりも、飽きているのは空気にだ。共通の話題もなく、そもそも互いに相手への興味すらない。

「体でも賭ける?左腕とか右足とか、もっと部位別に細かくしてもいいし。取ったパーツは好きにしていー感じで」
「………却下だ。勝ったところで使い道がねえ」

つまらないだの何だの言いながらカードを切るにやけ顔へ向け、悟浄は言う。

「ならゲームごとにそれぞれ一つ質問を上げるってのはどーだ?負けた方が答える。ただし、答えは正直に」

丁度、聞いておきたいことが幾つかあった。
口の端を歪める悟浄を真似るように、そいつもにたりと含んだ笑みを返す。

「正直にねぇ…。完全出たとこ勝負じゃない」
「嫌いじゃねーだろ?」
「好きでもないけど。で、それにのった場合のメリットは?私興味無いんだよね、お兄さんにはさ。したがって訊きたい事も特にないワケなんだけど」
「本当にそうか?」

どういう意味かと、隙のない目が悟浄に問いかける。

「同居人だぜ。曲がりなりにも」

束の間の逡巡。ノッてこい、そう心中で唱える思いに反し、あー…と一本調子に余暉は呻いた。

「やっぱあっちのおにーさんがいーなぁ」
「……贅沢言いやがって」
「何の差だろー。気品かな」
「黙らっしゃい」

つーか、そもそもなハナシ。そう言った悟浄へは向きもしない真っ暗な瞳。
似たものを最近見たなと思ったら、石だった。行きつけの賭場で、モリスンだかモスリンだかいう石の話をしている女が居た。白い手首にぶら下がるブレスレットについた、透明感がまるでない、ただひたすらに黒い石。

「なんだってそこまであいつに拘るワケ?」
「んー?」

力の抜けきった上半身がテーブルの上へ伸びている。一番上のカードの柄を覗き見ていた余暉は口の端を持ち上げただけで、するりと立ち上がった。

「また氷か?」

酒の無くなったグラスの中、乾いた音を立てたそれに視線を投げる。

「やめとけ」
「入ったら怒られると思う?」
「いーから座っとけ」
「ダメなの?」
「ダメなの」

ちぇーと倒れ込むように椅子へ腰かけたそいつが積んであったトランプの山を指で弾くと、一番上にあったカードが糸で引かれでもしたように悟浄の目前まで滑り、止まった。

「じゃあこれに勝ったら見なかった事にしてよ。悪いようにはしないからさ」
「………、ノれねーな」
「そっかぁ、残念」





********






鮮明に繰り返される悪夢。
見開いた目に暗い天井が映り、眠りから覚めた事を知る。

冷や汗が滝のように伝っていた。早鐘を打つ心臓。今の今まで溺れていたように、酸素を求め八戒は荒い呼吸を繰り返す。やがて強張っていた腕から力が抜けてくると同時に、肺がすっかり空になってしまうまで深く息を吐いた。

そのまま目を閉じ、断続的に聞こえているノイズが雨の音だと認識するまでに数分。
石を隙間なく詰め込んだような酷く重い頭に手を置いて数分。
薄く開いた瞼の隙間から、まだ光の一筋も差し込んでいない室内を眺め、隣に蹲るひと際濃い影の塊が毛布ではなく生き物らしいと気付くまでに数分。
伸ばした手が柔らかな毛に触れた。

……猫がいる。

やけに毛足の長いそれに指を埋めて数秒。

「雨はやだよね、湿っぽいもの」

……猫が喋った。

違う。これが猫な筈がない。
限りなく面倒で受け入れがたいが、無視もできない現状に、顔を覆う手が二本に増えた。
どうか、これも丸ごと悪夢の方向で処理をしては貰えないだろうか。
そんな思いを抱きつつ、しばらく身じろぎもせずにそうしていたが、相も変わらず部屋には置時計の針の音と糸の擦れる音とが互い違いに響いていた。

「……悟浄は…」
「寝てるよ」

ようやく絞り出した声に、端的な答えが返る。
そんな余暉の両手の間、あやとりらしき糸が緩急をつけて滑っていた。流石にまだやっているとは思っていなかった。

…一人遊びが得意なようで…なにより。

途切れ途切れに言葉を浮かべる八戒の心中を読んだかのようなタイミングで、その口が回り出す。

「創造と。構築と。破壊。やっぱり真理だよね」
「………」

水の底に降り積もる淀みにも似たその声は、すっと暗闇に紛れて溶けていく。柔らかで、冷え冷えとした静かな声。

「見て。メスシリンダー」
「………」

その手元には、細長く張られただけの糸がある。
……昼間の拘束騒ぎといい、創造云々以前に彼女にはできるのだろうか、あやとりが。
ぼんやりと開けていた視界に、ぼすり、と横倒しになる何か。スプリングが軋み、視界が波に揺られたようになる。

「…お兄さん、寝起き悪いね」
「………」

傍らで丸まっていたはずのナニカが人の形をとっている。
ゆっくりと瞬きをして、まだ消えずにあるそれへ向け、言葉を紡ぐ。

「………あなたは…、どうして名前を…?」

並ぶ視線。底の知れない瞳が八戒をじっと見つめた。

「だって混乱するもの。お兄さん、私の中では別の名前だからさ」

巻き戻る会話をものともせず彼女は答える。けれど意図は見えない。その真偽すらも、確かめる術はなかった。

「………そうやって僕に心底嫌われて…、貴女はどうしたいんですか」
「お兄さんだって私にはじゅーぶん難解。半端なのはなんでかな。警戒だって、してない訳じゃないけどすごく弱いしね。今もそう。これってどういうこと?」

質問の隙間をするりと抜けて、ふつふつと、泡のように言葉が浮かぶ。
どういうこともなにも…

「思い出したんです……人から言われた言葉を。…あなたを見て………」

あぁこういうことかと、妙に得心がいった。
言葉を切ったきり黙り込んだ八戒の目前、寝ちゃった?と手が振られる。その手を掴めば、ひとつ、湖面に波がたつ。

「あとは……この目ですね」

慣れと諦め。それと、もう一つ。
振り払いこそしないが、常に貼りつけられた薄ら笑いに小さな亀裂が入った。

「…時々、あなたがそういう目をするからです」

ほんの一瞬。そこへ浮かび上がっては、煙のようにかき消えてしまう怯えに似た何か。
臆病な動物ならば、不用意に驚かせたりしない限りそうそう噛みつきはしない。
手を離せば、一度滑るように身を起こした彼女の上半身が、腹の上へしなだれた。
深い溜め息を吐き出し目を閉じる八戒へ、彼女は尚も語りかける。

「お兄さんは、光が見たい?」

押しのけようと伸ばした腕を冷たい感触が絡め取った。

「もう少し眠りなよ」

声と同時に、腕へ走った小さな痛みに跳ね起きた。合わせて起き上がった彼女が両手を上げてみせる。その片手に認めた注射器のような物体と共に、垂直である筈の壁の線がぐにゃりと歪んだ。

「心配しなくていーから。危なくないよー、怖くもないしー。夢も見ないで眠れるから」

厚い膜を隔てて聞こえる声。頭が鉛と挿げ替えられたように重くなる。普段当たり前のように支えられているのが不思議なほどに首は安定せず、四肢からも力が抜けた。抗う意識とは裏腹に、自由のきかない身体が逆再生よろしく寝台へと倒れ込む。
かろうじて開いた瞼の隙間で、重ねた腕に頭を乗せた彼女が満足気に目を細めていた。

「光を知っちゃう事こそが不幸だと思うけどね。幸せになりたいって、口を揃えて叫びながら、誰しも不幸になりたくてしょうがないんだよ」

水の底へ引きずり込まれていく感覚。
錨を付けられた意識は身体の奥の、深く暗い場所を目がけて沈み、やがてふつりと消え失せた。



翌朝、目を覚ました時には服も彼女も消えていた。
ダイニングテーブルで酔い潰れていた悟浄と、流しに放り込まれた二つのグラス。彼女が昨晩ここに居た痕跡が、あれが夢ではないと語っていた。

「あー…くっそ…、頭がガンガンしやがる」
「随分飲んだみたいですね」
「いーや、二日酔いの痛みじゃねー」

琥珀色がたゆたう瓶のラベルを眺め、悟浄は「あの野郎…」と忌々しげに吐き出した。

「一服盛りやがった」
「………」

それで色々と合点がいった。顔を曇らせ、部屋に?と訊ねる彼に頷いて返す。

「入ってましたが特には何も……は嘘ですね。多少なり」

目覚め、真っ先に確認した腕には、ぽつりとささやかな鬱血痕。
蛇口を閉め、洗い終えたグラスを並べる八戒を、悟浄が振り返った。何か言いたげな視線に、一つささやかな笑みを返す。

「彼女が盛ったのが毒だったら、僕ら揃ってあの世行きでしたね」
「……洒落になんねーな。―――おい」

二度。悟浄の指は首の付け根を叩いた。
嫌な予感を抱きつつ、八戒は脱衣所へ向かう。
場所が場所だけに予想は付いていたが、鏡に映るそこにはくっきりと内出血の痕が見てとれた。

「…あー……これ…」

一見虫刺されのようでもあるが、撫でる肌にそれらしい腫れはない。
引き攣った笑みを浮かべる自身の鏡像の後ろには、苦笑ともつかない曖昧な笑みを浮かべ脱衣所を覗き込む悟浄の姿。

「“何も”ねぇ」
「その筈なんですが。……意趣返しじゃないですかね…」


 




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