しょうしつ日和


雨の翌日、目を覚ました時には服も彼女も消えていた。
家に帰ったのだろう。当たり前のようにそう考えていたし実際それに違いはないはずだ。気まぐれな彼女の事を思えば、それから数日、姿を見かけ無くとも気にも止めていなかった。悟浄の方は先日の件で一言文句を言わないと気が済まない風だったけれど、おそらくもう忘れている。
そもそも気にかける謂れもない。…はずだった。
“あれはどうしてる”と。しかつめらしい顔の三蔵がそんな質問を投げかけるまでは。
あれとの言葉で真っ先に浮かんだのは悟浄の顔だ。けれど三蔵がわざわざ彼の近況を尋ねるとも思えない。つまるところ動向を探られるような人物はただの一人だけだった。

「僕は何も。ここのところは来てないですよ」

にこりと、意識するよりも早く引き出される笑みを浮かべた八戒に、緩められている場面になどまだ一度も出くわした事のない眉間がより一層の皺を刻んでみせた。

書類もそのままに執務室を出た三蔵は、熾火のような怒りを背にたぎらせ、寺院の廊下を行く。その後をついていく悟空の、さらに後ろを歩く八戒は、先頭に立つ背を追い越すように声を投げた。

「僕がですか?」

忌々しげな舌打ちを零したその口が言うには、数日前、自ら三蔵の下を訪れた彼女が持ちかけた交渉があったらしい。
それに自身が噛んでいると言われても、当然身に覚えなどある筈もなかった。
思わず聞き返した言葉に、足早に先を行く三蔵が振り返らないまま答える。

「本人からの申告だがな。監視をさせるのならお前にさせろと。了承を得たとも聞いた」
「信じたんですか、それを?」

下らない事を言わせるなと、不機嫌な瞳が八戒へ向いた。

「端から信用なんざしちゃいねえ」

それならどうしてと思うも、彼がそれについて語ってくれる様子はない。
言われてみれば、ここ数日は悟空のデリバリーもぴたりと止んでいた。
三蔵が言うには彼女がその旨を伝えに来たのは、八戒が強制的な睡眠を贈られた日の翌日らしく、そこから数えても数日。その間にも八戒は何度か三蔵の下を訪れていた筈だが。
どうにも彼には言葉足らずな、というよりも意思疎通に向けての積極性が圧倒的に不足している節がある。そうは思えど、指摘した所で改善など見込めよう筈もなく。

「管理不行き届きだ」
「任された覚えはないんですが…」

目下、確かめるべきはどうして彼女がそんな嘘をついたのかだが、そこに何も魂胆がないと考える方が難しいだろう。

「いっそ目の届く所へ置いてみては」
「あんなのと一日中空間を共有してみろ、三日で病院送りだ」
「それは、胃の話ですか?それとも精神面の方で?」
「どっちだっていい」
「腹減るって事?」
「…そうですね。最悪の場合、食べられなくはなりますかね」
「あぁ、だから余暉はあんなにメシ食わねーんだ?」
「あいつは穴を開ける側だ」

吐き捨てる彼が目指しているのは彼女の住処だ。
その穴掘りが得意な彼女は果たして家で大人しくしているだろうか。おそらくしてはいない。可能性は限りなくゼロに近いだろう。

「何か目的があっての事ならとっくに動いてる。それすら遅すぎるくらいだがな」

目的のためか、飽きてふらりと姿を消したのか。随分唐突な話ではあるものの、八戒にとっては喜ぶべきことのはずだった。例え目の前の破戒僧が誰彼構わず撃ち殺さんばかりの苛立ちをその眉間で表現していようとだ。

「餓死していないといいですが」

ふと頭を過った更なる可能性。口に出せば意味ありげな視線が刺さる。

「……さすがに嫌じゃないですか。死体が転がってたりしたら」
「第一発見者だけは御免だな」




そうして訪れた彼女の家を前に、八戒は束の間言葉を失くすことになった。
くすんだ外壁に流れる錆。窓には板が打ちつけられ、廃れた空気が建物全体を取り巻いている。
朽ちるに任せているそれを、はたして家と呼んでいいものか。

建築構造からすれば家屋には違いないのだろうが、おそらく頭に“元”がつく。
塞がれた窓へ近づいた八戒は、僅かな板の隙間から中を覗き込んで絶句した。
暗い室内に射していたなけなしの光が、自身の影によって消え失せる。後には白茶けた闇が広がるばかりだったが、それが目視できる事がそもそも間違いだ。
窓にガラスがはまっていない。
外が見えもしない割にここだけ手入れがなされているのかと思えば、実情はあるはずの物が存在しないというだけだ。
まさか勝手に住みついているのではとの疑念が一層色濃いものになる。

唖然としつつ、この在り様に今さら驚くでもない二人を振り返れば、丁度悟空が玄関ドアへ一撃を見舞った所だった。ベニヤ板と見紛う薄っぺらな扉が、やられた、とでも言いそうにぱったり内側に倒れ込む。

「三蔵がやれって」
「あぁ…そうですか…」

何か文句があるか。あっても黙りやがれ。そんな顔でずかずかと入って行く三蔵の後を悟空が追う。
外観に負けず劣らずやはり中も廃墟となんら変わりなかったが、三蔵が照明のスイッチに手を伸ばせば真っ暗な廊下にも薄暗い明りが灯った。確かに人が住んではいるらしい。部屋と廊下を仕切る扉はなく、行く先には所々でぽっかりと闇が口を開けている。元々の仕様ではないらしく、残っていた一つも蝶番が外れ、かろうじて引っかかっているような有り様だ。

「余暉ー」

がらんとした箱のような空間に、悟空の声が反響した。
彼女はどこへ向かったのか。探そうにも手掛かりどころか、どの部屋にも家具の一つだって置かれていない。たまに廃材同然の家具の亡骸が積み重なっているのみだ。しかも家の中だというのに乾いた土の臭いがする。廃屋だと言われてもそこに疑いの余地はないように思われた。

そんな中、どこへ行くべきか心得ているように、三蔵は最奥の部屋を目指していた。
覗き込んだ先には独房のような空間が広がる。やっと家具を見つけたと思えばそれも机とベッドが二つきりだ。壁は冷え冷えとした打ちっ放しのコンクリート。殺風景で温かみに欠けたその雰囲気は、彼女が以前住処にしていた研究所によく似ていた。

「なぁ、あれ」

無彩色ばかりが幅を利かせた室内に、一部分、色のついた箇所がある。悟空がそれを指さし振り返った。
ずっと昔からそこに取り残されていたのか、もはや部屋と一体化しているのではと思う程に古び馴染んだパイプベッドの下からは、力の抜けきった足が突き出ていた。
側に屈む八戒の隣にしゃがみ、悟空は尋ねる。

「生きてる?」
「だといいですね」

余暉、と足首を叩き呼びかける声に、ぴくりと僅かな反応が見えた。どうやら生きてはいるようだが、緩慢に動き出した足はずるずると床を這いずり奥の暗がりへ消えようとする。

…もぐらどころか。
ナメクジか。

完全に引っ込んでしまう前に足首を掴んだ悟空が腕に力を込めれば、ずるりとボロ雑巾のような本体が姿を現す。引き摺り出された余暉の薄く開いた瞼の隙間、不機嫌の色を浮かべた目が並ぶ三人を見渡した。





「信じらんない…。蹴破る…?ドアだよ…。人ン家の…。しかも…こんな時間に…」

ベルトコンベアーで運ばれてくるように不満が連なる。珍しく正論を掲げながら、早くも座る事を放棄した彼女は、灰色をしたシーツの上にぐたりと横たわっていた。

「真昼間だ」
「夜行性じゃない人間の感覚でいうと…夜中の三時」

部屋にあった唯一の椅子には三蔵が陣取り、手も足も組んでふんぞり返っている。

「…で、何しに来たの」
「余暉のこと探しに来たんだ」
「あー………そう……なるほど…」

ゾンビのように蠢く腕がベッドの端から垂れ下がっていた布切れを掴み、「なるほど…」とうわ言染みた台詞を繰り返しては頭からそれに潜り込む。かと思えばすぐさま三蔵にはぎ取られ、顕わになった頭を庇う余暉が呻いた。

「私の睡眠時間…」
「確保したけりゃまず質問に答えろ」

いつもに増して薄汚れた襟首を鷲掴みにされ、座り直しを余儀なくされた彼女はぼさぼさになった髪をかき上げる。

「なんだっけ、質問…?」

そう空とぼけては、傾げた頭の重みに負けたフリででろりとベッドに伸びた。

「……何処に行ってたか、だった?それならお兄さんが想像してるようなところじゃないよ」

物資の調達、兼ゴミ漁り。使えそうなものを色々と。そんな説明をうやうやと並べ、欠伸をした余暉の目が、今にも閉じてしまいそうにとろんととける。

「稼ぐ術を手に入れないと。コーヒーが飲めなくなると困るもの」
「その結果があれか?」

三蔵の親指が指すのは壁に向け置かれた机。“無。”とのテロップが踊りそうな室内で、その上だけが雑然としていた。底の焦げたビーカーに乳鉢。他にも何かの粉末が入った瓶やガラクタが無造作かつ乱雑に放置されている。

「…約束したじゃん。爆発物は売らない」
「何なら売る」
「何だと思う?お兄さんはあんまり興味ないんじゃないかな。でも世の為にはなってる。人の為にも」
「…条件は」
「ここで大人しくしてること…でしょ?長安から出たなんて言った?」

三蔵の舌打ちに唇を歪めた余暉はある一点に目を止め、次いでだらりと起き上がった。

「あー……もー…」

ベッドから降り億劫そうに足を引き摺る彼女の向かう先には、机上に広がるそれらを興味津々に覗き込む悟空の姿があった。その手からタグのついたガラス瓶を取り上げ、そのままどこかへ消えた彼女は壁一枚隔てた先で何やらがさがさやっていたが、やがて透明な液体の入ったビーカーを手に戻って来た。

「なに?」
「あげるよ」

言った余暉が悟空の口に短く切られたストローを差し込んだ。

「ほら、吹いて」
「…!!!」

促されるままに息を吹き込んだ悟空の目が、これ以上ないくらいにまで瞠られる。
白色灯に照らされた、どうにも廃れた空気の漂う室内に、ぷかりと場違い極まりないシャボンが浮かぶ。それはのんびり宙を漂い、同じくらいにまで目を丸くした悟空の伸ばす手の先で、思い出したように弾けて消えた。

「あれは?」
「皆サンご存知シャボン玉。液は私作の特製品」
「すっっっげーーー!!!!なァさんぞー!今の見た!?」

わあわあと頬を上気させ三蔵に駆け寄る様子に、余暉が八戒を振り返る。

「………何この反応。…もしかして初めてだったりする?」
「色々と事情があるようでして」

苦笑する八戒に気の無い返事を返し、余暉は眠たげな目を擦る。その視線の先で、唇にストローを挟んだ悟空が不思議そうに首を傾げた。

「あれ、出ない?」

言っては吹き口にしていたのと逆の端を覗き込む。

「…まず、その手に持ってるヤツに浸けてから……あー…完っ全逆にいったね…」

ずぽりと本来口を付ける側が小さな気泡を浮かべたシャボン液に沈んでいる。
「逆?」と言葉を拾った悟空が、今しがた浸けたのとは反対の方を液へと突っ込む。同時に隣の余暉がギッと音を立てて固まったように見えた。

「………本気?」
「でしょうね」

驚きに言葉を失くす余暉の表情を見てとり、これも違うのかと難しい顔をしていた悟空は、何を思ったか、持っていたビーカーを余暉の手中へ押し込んだ。

「余暉、吹いて」

弾き出された解決策は至ってシンプルだ。
渋い顔の彼女が摘み上げたストローは、どちらの断面もてらてらと濡れ光っている。

「………絶対苦いやつじゃん」

する?と差し出されるそれに八戒はすかさず首を振った。

「お譲りします」
「………」

ちらりと三蔵を振り返った余暉を、離れた位置で待ちかまえる悟空が呼ぶ。

「…ねぇ」
「せっかくのご指名じゃないですか」
「………」

特製配合らしいそれに口をつけるまでもなく、彼女は苦々しい顔をする。けれど逡巡の末にその薄い唇が僅かに開いた。細く息を吸い込み、ストローの先端を咥える。
ぷくり、と。雫を滴らせ、薄い膜でできた球体が生成された。そこそこの大きさをしたそれは不安定に形を変えながらふよふよと宙に浮く。

「…ぅ…げぇ…」

隣で余暉が呻いた。何が入っているかは知る由もないが、シャボン一つで音を上げたその舌の上に広がっているであろう味は想像に難くない。
それでも、もっととのリクエストに余暉は再びストローを咥えた。漂う無数のシャボンを追って悟空が跳ね回る。

「…っは……犬みたい」

目を輝かせる悟空を鼻で笑いながらも、彼女の横顔はどこか満足そうだ。

「…よく性格悪いって言われません?」
「耳に入る所では言われないかなぁ」
「あぁ…」
「はいはい、お手本終わり。外でしておいで。なんならずっと外に居てていいから」

差し出されたビーカーを受け取りながら、悟空は無垢な目で問いかける。

「余暉も行く?」

体よく追い払おうという意図も通用しない。もはや問答する気力もないらしく、戻った余暉は早々にベッドの上でとけていた。

「…夕方になったらね。もー寝かせて。ギブだよギブ」
「―――おい、誰が寝ていいと言った」
「…少なくとも帰っては来たんだからよくない?上出来じゃん…もー大目に見てよ……」

言い終えると同時に、シーツと掛布の間に潜り込みそのまま動かなくなった。
顔を見合わせ、八戒が肩を竦めれば三蔵からは大きな溜め息が零れた。






結局、彼女の在宅を確かめに行っただけになってしまった。
それでも手持無沙汰のまま数時間の待機を課されることにはならなくて済んだのは幸いか。
自分で言っていた通り、彼女は帰るつもりであの家へ戻って来たのだろう。あっさりと引き上げた辺り三蔵も同意見ではあるらしく、執務室へ戻り椅子へ腰を下ろすなり、三蔵は「無駄足だった」と吐き捨てた。その顔に精神的磨耗が浮かんでいる。

「逃げなかった、という情報は得られたのでは?」

まめまめしく運ばれてきたお茶に口をつける三蔵に告げれば、眉間に深い皺が寄る。

「三蔵、少し教えて頂きたい事が」

応じる声はなかったが、ちらりと悟空へ視線を投げ、戻る目が先を促した。

「彼女は一体何を?」
「罪状については以前に説明した通りだが」

素っ気なく、だが、と言葉は続く。

「同姓同名の別人がいる可能性がある」
「…そうある名前じゃないですよね」
「あぁ。しかも外見は生き映し。順当に考えりゃ疑いようもなく本人だが、どうにも説明のつけられねぇ事がごろごろ出てきやがった」

俄かには信じがたい返答に、八戒は目を瞬いた。
無罪放免、大手を振って野に放つ訳にいかなかった理由がそれか。おそらく確証が掴めずにいるのだろう。けれど、曲がりなりにもそんな事があるものなのか。

「そもそも彼女が名前を騙っている、という可能性は?」
「三仏神が言うには、名前に違いはねえんだと。あいつは違えようもなく黄余暉で、追われているのも同名。だがどいつもはっきりした事は言いやがらねえ。あいつがやったか、それとも本当にそんな人間が存在するかのどちらかだ」
「………」

黙りこむ八戒へ向いた紫暗が細くなる。そんな三蔵の隣にぴょこんと悟空の頭が覗く。

「分裂したりすんのかな!」

それってすげくね?とはしゃぐ声に三蔵がこれ見よがしな溜め息をついた。

「……ねぇよ」
「…アメーバみたいですね」

ともかく、と仕切り直した三蔵は、時間を置いての再訪問を口にする。

「起きた頃にな」
「それは貴方も?」
「冗談じゃねえ」

愚問だとばっさり切り捨てるのに、そうですよねとの思いも込め、八戒はささやかな笑みを返した。



夕方まで待って、八戒は再び悟空を伴い余暉の元へ向かった。
ベッドに横たわる彼女は目を覚ましていたものの、未覚醒な頭では情報処理が追いつかないらしく、ゆっくり眠たげな目を瞬いた。いつもの底意地の悪い笑みもどこへやら。僅かに眉をひそめたその顔は、迷惑千万、なんでいるのかと言いたげだ。

「そろそろ起きた頃かと思いまして」
「食いもんもって来た!」

ぼんやりと目を擦り、彼女は棒きれのような身体を起こす。

「食べないよ…」
「なんで?」
「…寝起きだから。シャワー浴びて来る」
「水出るんですねここ」
「さすがに文明から切り離されてはないからね」

くたびれた声で応え、足を引き摺る彼女が廊下に消える。
纏う白衣も泥で汚れ、一体どこの山奥を這い回って来たのかという有り様だったが、お風呂から戻った彼女はいくらかこざっぱりとして見えた。濡れ髪を雑に纏め、白衣も纏わない姿は全くの別人のようでさえある。

「じゃー行くよ」
「どこに?」

頃合いだからと余暉に連れられ外へ出た悟空は、果たされた約束を前に、大きな目をさらに大きくして息を呑んだ。

「……すげ…」

思わず漏れ出たような声。魅入られたようにただひたすら目を丸くして、悟空は空を見上げる。
傾く陽の光の中に舞うシャボン玉。
青や緑に加え、赤に紫、橙と。一層暗く色濃い虹を纏ったシャボンの向こうに、黄金色の西日が照り映える。

「―――っめちゃくちゃきれーだ!!」
「そんな力いっぱい言わなくてもなぁ」

振り返る悟空に苦笑を浮かべ、余暉は八戒を振り返る。

「水の中みたいだよねぇ。あぶくがいっぱいって感じ」

言われ見つめる景色の中を無数の気泡が上って行く光景は、本当に世界を丸ごと水中へ沈めてしまったようで。頭の奥が少し痺れるような感覚があり、頬の辺りには薄っすらと鳥肌が立つ。目に映る夕景はそれほどに幻想的だった。
ゆるく吹いた秋風に運ばれるまま列を成して飛んで行く様子が楽しいらしく、消えていく側から悟空は夢中でストローを吹いている。

「何か混ぜたんですか?」

この色、と訊ねる八戒に余暉は機嫌もよく口の端を持ち上げた。

「んーん?溶液自体は昼間のと一緒。全部斜陽の成せる技かな。絶妙な光の角度ってのがあってね。黄昏時の、この一瞬だけ。知らなかった?」

そう言った彼女の指が流れてきたシャボンをつつけば、それはぱちりと弾けて消える。残された細かな水の粒子でできた円も、煙のようにくゆりやがてかき消えた。

「…えぇ。僕も初めて」

頷き、とても綺麗ですと素直な感想を舌に乗せる。

「そう」

短くこぼし、彼女は笑った。色濃く明度の低い、それでいて透明なこのシャボン玉のように掴みどころのない笑みで。
かと思えばすっと追加で二本のストローが現れる。手招く彼女に呼ばれるまま、悟空が駆け戻って来る。これまたどこからか取り出した紙コップに液を半分注がせていたが、どうやら自分がしたかっただけのようで、いかに巨大なものを作るかに方針転換したらしい悟空に代わり、余暉が量産を引き継いでいる。
彼女の言っていた通り、空を映したシャボン玉は黄金色から徐々に夜の色へと染まり始めていた。

「それで、わざわざあんな嘘をついただけの成果はあったんですか?」
「……うそ?あー…あ?…あぁ!」

次第に精彩を欠いてゆくシャボン玉を見上げていた余暉は、はいはいと合点がいった様子で頷く。液に浸けたばかりで滴のしたたるストローを指の先で遊ばせ、彼女は言う。

「それはまた別件。だってほら、君等の手間は減るし、私だって死にそうな目に遭わなくて済むから」

死にそうな目…とは悟空の来訪を指しているのだろうか。慣れはどこに、ともうそんな問答をする気にもなれず、八戒は本筋を拾う。

「ちなみにその嘘、本当になりましたから」

今まさにストローを咥えようとした唇を半開きにしたまま、余暉が八戒を振り返る。

「………なに?」
「本当になりました。その嘘が」

黙って咥えたストローの先。返事の代わりに彼女はいくつもの小さなあぶくを吐き出した。

「ちょっと、やめて下さい」

真っ直ぐ八戒へ向け宙を滑ってきたそれが、顔の周囲でぱちぱちと弾け飛ぶ。

「……実はさ、好きじゃないんだー構われるの」
「奇遇ですね。僕もです」
「お兄さんのは私限定じゃん」
「あなたが出した申請ですよ。お望み通りに」
「思い通りに行くもの程面白くないものもないよね」
「おや、これが思い通りだっていうんですか?」

返すボールに、余暉は口の端に笑みのなごりを残したまま押し黙る。
常々したり顔ばかりを見せられているせいだろうか、負けを認めたかのようなこの顔は案外嫌いじゃない。

「どうせまた来るんでしょう?」
「…毎日?」
「えぇ」
「楽しい事ってね、義務化した途端に楽しくなくなるんだよ」
「この際、あなたにとって楽しいかどうかは全く重要ではないので」
「…お兄さんこそ、性格悪いって言われない?」
「さぁ?記憶にはないですねぇ」

マウントを取った手応えと共に、内心でぺろりと舌を出す。このくらいの意趣返しは許されて然るべきだろう。

「嘘をついて約束を反故にしかけた事を思えば、住処を追われなかっただけマシだと思いますが」
「私が消えたら困るのはそっちでしょ」
「逃げた方が簡単だって、あなたも言ってたじゃないですか」
「……最悪」

ついに反論も放り出し不貞腐れたその様子に、八戒は小さく吹きだした。わざとらしく口元を隠す様子をしばし言葉もなく見つめた余暉が、再び顔を狙ってシャボン玉を吹きつけてくる。

「ちょっと、やめて下さいってば」

次々と特攻をかけてくる泡玉を片手で阻みつつ、ただし一つ条件がと付け足し、完全にひねた一瞥をくれる彼女に向けにこりと笑う。

「食べて貰います。名目といった方が正しいのかもしれませんが。あと、出入りは玄関から」
「ひとつじゃないじゃん」

言って話を切り上げた余暉の目は、生まれてはたちまちに消えゆく泡を追う。その瞳に細い光が映り込むのを横目に八戒は久方ぶりなそれを膨らませた。軽く息を吹き込むだけで、何の抵抗もなく膨らむ透明な球体。中でゆらゆらと渦を巻く光を眺め、ふと思う。
知ってしまう事が不幸だと言いながら、誰よりも光に焦がれているのは彼女ではないだろうか。

「…にが」

上を向き過ぎたのか、プラスチック製の筒を逆流したらしい液体に余暉がぽつりと零す。
肩をつつかれ、振り向くなり唇に柔らかいものが触れた。軽い音を立てて離れた後に、にんまりと細くなる瞳が間近に映る。

「お裾分け」
「………」
「あ、ちょっと、痛いってば。怒らないでよ。ねぇ」




以降、解し難い人語を製麺機のように吐き出し続ける猫とナメクジを混ぜたような、かつモグラでもあるらしいナニかは、連日家を訪れるようになった。
既に何度か穴を空けはしたものの、思っていたよりは余程真面目に通っている。

「もう二度と薬は盛りません」
「もー薬は盛りません」
「二度とだ」
「…二度と。ねーこれいつまで続けるの?」

ダイニングからは、恨みはしっかり腹の底に抱え続けていたらしい悟浄に捕まった余暉の宣誓が漏れ聞こえてくる。

「おい、正気か?マジでこれとメシ食えってか?」

台所にまで苦情を言いにやってきた悟浄の隣、何食わぬ顔で余暉が頭を覗かせた。

「いーじゃん、仲良くやろーよ。なんなら私の分もあげるからさ」
「うるせぇ。どうせテメーが食いたくねえってだけだろうが」
「この優しさが分からないなんてね」
「優しいのはそれでもまだお前みたいなのを家に入れてる俺の方だ」
「余暉」

呼びつけ彼女に手渡したお椀を覗き込んだ悟浄が怪訝な顔をする。

「テーブルで」
「ふぁーい」

口にスプーンを突っ込んで、余暉はふらふらと寝起きのような足取りで歩いて行く。

「ねこまんま…」
「あぁすると食べるんですよ」

次は鰹節も試してみようと思ってますと袋を取り出す八戒に、悟浄が呆れて笑う。
他の何を残しても、毎度味噌汁だけは完食していることに気付いたのはごく最近だ。
この識別不能な生物は、一体何なら進んで口にするのか。その辺りは、目下、模索中である。

 




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