ストリングス・パラドクス




退屈は人を殺す。
人生に何かしらの楽しみを見つけることは、時に荒波のごとく心身を呑みこもうとする停滞への抑制剤。それとも徐々に精神を蝕むそれから目を背け、漫然と終焉を待つ為の緩和剤だろうか。
けれどそれも熱が過ぎれば依存を生み、美酒は悪酒に、妙薬も劇薬へと変異する。

「…えーと、つまり?」
「つまり、楽しき事は素晴らしきかな」







ダイニングテーブルの上に赤い毛糸が落ちていた。摘んで持ち上げてみれば紐の途中には結び目が一つ。円環になったその形状はよく見知ったものだ。
残された痕跡は落し物が一つだけ。側に持ち主であろう者の姿はなかった。


「すみません、遅くなりました」

扉を開けた先にはいつもより数段割り増しで眉間に深い皺を寄せた三蔵の姿があった。本日の機嫌の良し悪しが一目で知れる。

思わず目が向いたのは壁の時計だ。一度家に寄りはしたが、予め伝えていた時間を大幅に過ぎているという事もなかった。けれど八戒が尋ねるよりも先に、答えを示す三蔵の顎が執務机の端を指す。

何か乗っているのかと思いきや、指されたのはその先であるらしく、天板の端からは頭が二つ身切れていた。

「あーだめ痛い痛いそんなとこ突っ込まないでよ。力任せにしないでって。もっとゆっくり」

鼓膜にぬるりと被さってくる声。机を回り込んだ八戒の視界に現れるのは、灰色の白衣から突き出た枝のような腕。薄く厚みのない皮膚には真っ赤な毛糸が喰い込み、両腕を纏め上げている。

「…余暉、ここで何してるんですか」

問いかけに、悟空と一緒になって直に床へ座り込んでいた彼女がちらりと目だけで八戒を見上げた。

「あやとりしてたら絡まっちゃって」
「全然ほどけねーんだ」

向かい合う悟空はそれを解こうとしていたのだろうか。てっきり締め上げているのだとばかり思っていた。

「流石にこれは止めとけばよかったかな」

ねぇ、と彼女がごく自然に悟空へ向けて呼びかける。

「貴女、前に太陽がどうとか言ってませんでしたか」
「んー、うん。言ったねぇ」
「モグラはどこに行ったんでしょう?」
「やだなぁ。不思議の国にモグラは住んでないじゃない?」

そんなもの、実際に行って地面を片っ端から掘り返してみないことには断言できないけれど。

目の前の彼女が無軌道に繰り出すカードの数々を思えば、不思議の国でそんな意味も途方もないことを仕出かして来たところだと言われても、そこへ一考の余地を見出せてしまう。

不思議の国? モグラ? それ何の話と顔一杯に書かれた悟空に、彼女は束の間きちんと答えて返したかと思いきや、すぐさま投げ出してはあしらうように煙に巻く。
そうしてあっけらかんと口にするのだ。

「慣れって怖いよねぇ」
「適応力が高いようで何よりです」

死んじゃう、なんて言っていたのにもうこれだ。
それ、と八戒はもはや絡むどころか縛り上げたようになっている腕へと視線を移す。

「自分から縛られに行ったんじゃないですよね?」
「まさか。私の趣味嗜好に対する大いなる誤解だよ。あ、でもこの子がわざとこんなぎちぎちに締め上げたんだと思うとちょっと興奮する」
「悟空。とりあえずその人から離れましょうか」
「それよりこれ解ける? さすがに感覚なくなってきちゃって」
「それにもそのうち慣れるんじゃないですか?」
「お兄さんが毎日縛り上げてくれるなら慣れちゃうかも」

溜め息をついて腕の締め上がり具合をみるが、厄介なことに一分の隙も見出せない。

「…どうしてまたあや取りなんて始めたんですか?」
「世の真理に触れたくてね。理が詰まってるでしょ、遊びには。非生産的でありながらその心に安定をもたらし、かと思えば人生をもぶち壊しかねないリスクを孕む。如何とも複雑怪奇な生への救済。悪魔の所業」

ぽかんと余暉を見ていた悟空が八戒を仰ぎ見る。

「どゆこと?」
「僕にはさっぱり」
「要するに、全ての命は誰かの手の上で踊る玩具なんだよ。神ですらもね」
「かっこよく決めてるところ悪いんですが、毛糸が絡んだままな事覚えてます?」

言いつつ八戒が取り出すのは一丁の鋏だ。指の一本も易々と入らないのなら解きようがない。

「手っ取り早い方法でいきますから、じっとして下さい」
「あ、待って待って閃きそう。解ける気がしてきた」
「ちょっと、大人しくして下さいって」
「あっあっ、待って、ヤダッ」

大量に焼き増した模造品のような艶めかしさが声に漂い、思わず鋏を取り落としそうになった。

「…なんて声出すんですか貴女」

咄嗟に余暉の口を覆った八戒の掌の下で、減らず口の続きを舌にのせているであろう唇が蠢いている。
刃を入れれば、ぷつりと音をたて張っていた糸がばらけた。

「あーよかった。一生このままだったらどうしようかと思った」
「ずっとあのままの方がいくらか問題は少なかったように思いますけどねぇ」

自由を取り戻した腕の痕をなぞるその様子は、名残り惜しんででもいるようだ。本当に偶発的なものだったのだろうか。残る疑問は疑問のままに、見上げた三蔵からは同意が返る。その手元で握り潰されているのは先ほどの嬌声の飛び火で書き損じたらしい書類だ。

「―――今日はもういい」
「え?」

それを引き上げてくれ。と指されるのは余暉その人。当人はどこ吹く風で、言った三蔵を振り返りもしない。

「ねーお兄さんさ、」
「…おい」

下りろ、と三蔵が渋い顔をするのは、糸の跡に見惚れていた余暉が机の端にお尻から乗り上げたことが原因だ。挙句にそこで悠々と足など組んでみせるものだから、一層眉間の皺が深くなることは言うまでもない。

「最近露骨に嫌な顔してくれなくなったよね」
「おい…ッ」

八戒を見つめる余暉の向こう、大仰に嫌な顔をしてみせる三蔵の顔がもう一段渋さを増した。寝台のごとく机上に余暉の肢体が横たわった為だ。広げられていた書類を下敷きに、寝そべる余暉の眼は幾許かの媚を潜ませ八戒を見上げる。

「前の方が好きだったなぁ」
「貴女が喜ぶだけなので」
「喜ばせてよ」
「お断りです」

俎上の鯉―――飛沫を撒き散らして跳ね回る鯉の方がまだ数十倍ましだ―――のように身体を投げ出すその頭へ銃口が突きつけられる。

「あ、三蔵」

止めた方が…。
声をかけようとした八戒を、じろりと剣のある目が見やる。その隙をついて首にするりと腕が巻き付いたかと思うと、伸びた身体が三蔵へしな垂れかかった。
目を三日月形に、口が裂けんばかりににたりと笑んで、余暉の指が三蔵の頬をくすぐる。

「開けてもいいけど、穴はちゃんと塞いでよね。ナニ突っ込んでくれてもいーからさ。」

仕上げにその耳へと吹きかけられる息に、あぁ…と八戒は苦笑する。

「止めた方が良いです。…喜ばせるだけなので」
「………先に言え」
「そんな無茶な」

ふと、何かに思い至ったように三蔵の顔を覗き込んだ彼女が、その通った鼻梁の先を指でつつく。それだけで新たな青筋が幾本も浮かび上がっているのだが、目に入っていないのか心底疑問とばかりに余暉は首を傾げてみせた。

「でも最高僧ってどこまで戒律守ってるの? 挿れ方分かる?」

ぶちぶちと、何か千切れる音が空気を震わせたように思うのは、おそらく思い過ごしなどという日和見的な言葉では片付かない。

「…さんぞーがすげー顔になってる」
「アハッ、今まで見た中で断トツ嬉しそうな顔だ」
「…ぶっ、殺す…ッ!!」
「わー」
「きゃー」

間延びした悲鳴に被さり轟く銃声すらも、彼女には遊びの一環のようだった。






*********







切断されただの紐に回帰を果たしたそれには、輪になっていた名残の結び目が一つ。夜に線を引く赤が、摘んだ指の先でぷらぷらと遊んでいる。

「連れて帰れー、だって」
「貴女が際限なく嫌がらせをするからですよ」
「愛情表現かな。嫌がらせじゃなくて」
「相当屈折してますね」
「そう?どストレートだと思うけど」

以前は話をとうるさかったのに、あっという間の手のひら返しだ。勝手だよねぇと余暉が言えば、僕からは何ともと濁される。

「だってお勉強が始まっちゃったらお兄さんはあの子に構いっぱなしでしょ。だから邪魔しないよう余りもの同士で仲良くやってたのに」

ひひ、とすり潰されたような笑いを唇の端から零し、余暉は空を見上げる。

「降って来たね」
「え? あぁ、本当だ」

ぽつぽつと肌を叩く雨が、外灯の明りに線を引いていた。白い円に舞い込んだ滴は、瞬く間もなく闇へと紛れる。

一瞬の光を纏い消えゆく無数の蜘蛛の糸を背景に、夜と同じ色の髪が緩く吹いた風に揺れた。反らされた白い喉に陰影を刻む喉仏。尖った顎の線を辿った先にある翡翠の色をした瞳。

外見から負の要素を引き過ぎると、全てに置いてどこか作り物めいてくる。
そうも美しく見えるのは、なぜか。紙上に並ぶ文字の上でしか人たり得なかった存在が今こうして目の前にあるという事実が、余暉から客観性を奪っているからだろうか。

「ついでだし遊んでく?」
「…遠慮しておきます。健全な遊びとは思えないので」
「まぁそう言わずにさ」

静かな声が余暉を呼ぶ。さして低くも無く、柔らかで落ち着いた声音。

「なーに?」

応じながら、余暉の指は彼の手首を滑っていた。

「濡れますよ」
「濡れよーよ」

そこに線を引く赤を見下ろす瞳。浮かぶのは、安穏の色ではない。
穏やかさに潜む冷たさ。遠目に凪いだ海が何食わぬ顔で人を深い水の底へと攫ってゆくのに似て、青に寄った緑は憩いや穏やかさとは真逆の、冷やかな嗜虐の色を内包している。

「お断りした筈なんですが」
「だってその方が面白いもの」

ほら、と余暉が少し掲げて見せるのは瞬く間に拘束された自身の手首だ。本当ならこうなっているのは彼の腕の筈だったが、つい一呼吸前まで手中にあった赤い紐は華麗に寝返り、今となっては、かなり良い部類に振り分けられるであろう彼の手際によって余暉の両手を縛り上げている。

「…本日二回目。いいんだけどね、別に。でもこれっておにーさんは変な気分にならないの?」
「まったく」

言った彼の首に結束された腕を回しかける。咄嗟に仰け反ろうとした頭が、重みに引かれて間近にまで下りてきた。

「私はなるよ」
「…元から盛っていらっしゃるように見えましたが」
「あは、大正解」

腕の輪の中、睦言を囁こうかという距離にまで迫る余暉を、聡明な瞳が探るように見つめた。すらりとした頬に顔を寄せ、余暉はにまりと目を細くする。

「気を引くためならなんだってするよ。私にプライドがあるなんて思って貰っちゃ困るなぁ。―――にしてもお兄さん縛るの上手いね。取れそうにないや」

血流を阻害しない程度のゆとりを残し、けれど結び目はかたく噛んでちっとも弛む気配がない。こんな所にまで現れる気性の主張が可笑しい。

「赤い紐で結ばれた――――なんてね」
「趣味嗜好が誤解だなんてとんでもなかったんじゃないですか?」
「縛り上げて欲しいよ、お兄さんになら。言うじゃん“求めよ、さらば与えられん”」
「貴女、踏み絵は笑って踏みにじりそうだと思っていたんですが」
「無神論者には違いないよ」
「神を信じない人間がそんな引用を?」
「お兄さんが好きかと思って」

そんな風に見えますかと、尋ねた八戒に余暉は考える素振りもないまま首を振る。

「素質はあると思うけどね。敬虔な信者ってやつの。お兄さん自分を律するのは好きみたいだからさ」
「好きでは無く、せざるを得ないこともあるでしょう」
「飼い殺してるみたいに見えるよ。お兄さん、そんなもんじゃないでしょ? 無難の皮なんて被ってても何にもなんないよ」

それにおそらくは、“みたい”じゃあないのだ。
面白いから見てみろと余暉宛てに送られて来た分厚い紙束は、その皮がいかにして脱ぎ捨てられたかを纏めたものだった。半身を失くして怒り狂い、村の半数近くを屠った一匹の獣について。
日を置かずして、牙はさらに計上ミス――もしくは意図的な嵩増しを疑う程の、無数の妖怪の血を啜る。そうした虐殺の果てに、彼は長らく迷信でしかなかった変貌をその身で体現する事となる。

最初は鼻で笑った。書き手の執着ばかりが透けて見えたからだ。
生い立ちから今に至るまで。一人の人間の半生が入念に、そして異様なまでの執拗さでもって調べ上げられていた。微に入り細を穿ち、時に必要であったか全くもって疑問でしかない情報も交えつつ、唯の一つも取り洩らすまいとするように。
また何をしているのかとせせら笑うも、手ずからページを捲るうちに事の次第が呑み込めた。

―――あァ、これは惹かれもするよねぇ。

単純かつ複雑。そうして実に醜く美しい。

ぶなん、と余暉の言葉をなぞって端整な唇の端が持ち上がる。言葉を付け足すのなら、皮肉なカタチに。

「皮を被るどころか。貴女が望むような面白みもないと思いますよ、僕には」
「それは私にしか分からないよ。でしょ?」

同意を求めながらも、ねェと余暉は絡める腕に力を込める。

「一緒に住んでたってお姉さんにも、その顔みせたことある?」
「――――…」

言葉も無く、すうと彼を取り巻く温度が下がる。色味が変わった。雨に湿り、夜に溶け込んでしまいそうな髪の下、片方の瞳だけが暗く鋭い光を帯びていた。

「怒った?」
「いいえ」
「―――なんだ、つまんないの」

言いながらも、暗い熱を込めた瞳は八戒へ向いたままだ。

「余暉、そろそろ腕を」
「輪に縛られるなら、切っちゃえばいいんだよ」
「正に今ぶった切ってしまいたい輪が頭の後ろに有るわけですが」
「自分で結んだんじゃん」

いかにもうんざりといった風に重いため息を降らせた彼は、余暉の二の腕を捕まえ浮かせた輪から頭を抜いた。更なる面倒事の回避か、解いた毛糸を取り上げる。

「お兄さんはさ、なんで私の事余暉って呼ぶの?」
「貴女の名前だからですよ。他に理由が?」
「不思議だなーって思って。だって嫌いでしょ? 私のこと」
「否定はしませんが」
「肯定も?」
「…毛嫌いという程ではないので」

へぇ、と意外な思いで、余暉は振り返りもせずに歩き出したその項を見つめる。

「光栄だね」
「基準が低すぎやしませんか」
「それくらいの方が幸せでしょ」
「………第一、その理屈だと貴女だってそうなりますよ」
「それは困るね」

おざなりな会話を続けるうち、いくらも経たずに彼等の住まう家へ辿り着いた。人一人入るのがやっとの狭い軒下で、道中三度くらい帰宅を促されているにも関わらず、当たり前の顔で跡を付いてきた余暉を彼が振り向く。

「一つ訊こうと思ってたんですが。貴女、そんなに退屈してるんですか?」
「んーん? 最近はそうでもないかな。面白き、事もなき世も、少しは面白さを取り戻せそう。お兄さんのおかげでね」
「……そんなにも僕の身体に興味が?」
「そ、全部にあるの。身体はもちろんだし」

こっちもと額を指し、それにこっちもと指は胸へ向く。

「頭と心臓?」
「思考と心」

そっちもすっごく興味あるけど。言って、余暉は目を細める。

「心が見たくてね。あわよくば売り渡して欲しい」
「悪魔に?」
「私に」
「…そんなものが在る人間が、あんな事を仕出かしますか?」
「正気の沙汰じゃないよね。一人の愛した人間の為に? それは心があるが故? それとも心がないからできたのかな」

へらへらと笑う余暉を見下ろす感情の窺えない目。
その奥の奥に興味がある。大いに。多大に。途方もなく。

「初めてなんだよ、こんなに誰かに惹かれたの」
「それに、僕はどんな顔をすればいいんですか?」
「お好きにどーぞ。おにーさんからの反応ならなんだって嬉しいから」

嘘ではない。おそらくこれほどの存在には二度とお目にかかれないのだ。よく知りもしない内に壊してしまうのではあまりにも勿体ない。

「踊ろうよ、ワタシとさ」

ひひ、と笑い細くなる余暉の目をじっと見つめ、彼は口を開く。

「……僕はアリス?」
「可愛い可愛い私のアリス」
「…傘をどうぞ。おやすみなさい」
「つれないなァ」

口の中で呟いて後ろ向きに一歩二歩。差し出された傘を受けとらぬまま小雨の降りしきる中に立った余暉は、白衣のポケットから没収を受けていたあやとりを摘み出した。目にした彼は、束の間動きを止め、それがしまってあった筈の場所へ手を入れる。もちろん、そこは空に違いないのだが。

「私とお兄さんの間にご縁が在らん事を」

言いながらくるくると指に巻き付けた赤を見つめる彼の顔に、薄い、上辺だけの笑みが浮かぶ。
薄っすら湿り気を帯びた白衣の裾を翻し、余暉はくるりと踵を返した。


家を離れ、すこぶる良い気分を引き連れたまま寄り道無しの家路を辿る。
けれど、いくらも歩かない内に靴先で土が弾けた。ばらばらと地面が音を立て始め、次々と大きな斑紋を作ってはまだらになる間もなく足元が濃く染まっていく。

「あー…」

澱んだ空を仰ぐ余暉の頬を特大の雨粒が打つ。本降りを通り越しての土砂降りだった。
まったく、降るなら降るとひと言くれても良いものを。いつだって空は気紛れだ。
腕にも頭にも雨は容赦もなく降り注ぎ、我が身の不幸を嘆く間に上の方から衣服は重みを増して行く。

「…ま、いーんだけどね。なんだって」

気が早いもので、水を吸った地面は既にぬかるみ始めている。
その上を悠々と歩いていれば、身体に叩きつけていた雨がぴたりと止んだ。変わらず鼓膜を打っている一斉射撃の弾音は、足元から頭の上の、そのまた上へと移っている。
現れた傘の露先。そこへ触れれば、ひっきりなしに垂れる雫が手首を伝い袖の中へと吸い込まれた。

「―――あるかもね。ご縁ってやつがさ」

言って振り返る。口の端を歪めた余暉へ傘を差し出していた彼が、言葉の代わりにため息を吐き出す。そうして今来た道を戻り始めた。余暉のいる側とは反対の肩に雨の雫を受けながら。

「…どうぞ」

余暉を通すために扉が開かれる。この家に入る時、いつも決まってする匂いが今日も鼻先をかすめた。
何度嗅いでもいまいち馴染むことのできない匂い。何のとは言えない、生活そのものであろう匂いの中に身を投じるべく玄関を潜る。

非、合理的。かつ不可解。

興味なんてものは、一つ湧いてしまえば、それこそ糸で繋ぎでもしたように次々掘り起こされる。二面性を併せ持つその内面ですら、不可解さでもって余暉のことを惹きつける。
呼びかけに応じ、問えば答えを返して寄越す。例え一つも利をもたらさないと分かっていてさえ、捨て置く事が出来ない。それはどういう感覚だろうか。

傍を通り抜けるほんの一瞬。冷えた碧緑の瞳を見上げて余暉は微笑う。


願わくは、御縁の在らん事を。
その頭の天辺から骨の髄に至るまで。

興味が尽きるその日まで。
踊りに飽く日が来るまでは。






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