それでは、また明日 | ナノ
 背中の鼓動

 

尾形に言わねばならない事が出来た。

その日、佐久楽は鬱々した気分で布団に入った。どう声をかけたものかと考える内にあの人をなめた笑みを思い出し居もしない人間相手に腹を立ててみたりもしたが、横になっていればいつしか眠りが訪れる。そうして次に目を覚ました時、そんな悩みはものの見事に吹き飛ばされることになった。

まだ夜も明けきらぬ頃、ふと人の気配に目を覚ました佐久楽の真上に女の顔があった。
黒曜石のような目が「…あら」と瞬く間に、佐久楽は布団を跳ね上げ飛び起きた。慌てふためき転げるように襖に張りついて、寝起きでうまく回らない頭で必死に現状の把握に努める。
常に布団の傍へ置いている筈の刀が見当たらない。女の手には捻じり上げられた手拭がある。猿ぐつわを噛ませようとしていたのだと気づくなり、ドッと冷や汗がふき出した。合わせたように、かつてないほど心臓が早鐘を打つ。
言葉を詰まらせた佐久楽に、洋装を身に纏ったその女は、まるで些細な悪戯が露見したようにそのぽってりと厚い唇を尖らせた。




*******





ガタガタと何かをひっくり返したような物音に尾形が目を開けば、白み始めた空の色が障子を透かして差し込んでいた。小銃を手繰り廊下へ続く障子へ近づけば、手をかける前に映り込んだ影がそれを勢いよく開け放った。
そこには永倉の娘が立っていた。娘は真っ青な顔をし化け物でも目にしたかのような形相だったが、足元にいた尾形の姿を認めるや顔を歪め、その鼻先でぴしゃりと叩きつけるようにして障子を閉めた。えらく必死な足音が廊下を遠ざかってゆくのが、白々と明けの光を映す障子紙越しに聞こえていた。



それを一日目と数えるなら、奇行三日目にはふらふらとあちこちにぶつかりながら廊下を歩いていたし、四日目ともなると味噌汁の椀を持ったまま船を漕いでいた。
次に姿を見た時には、娘は居間の壁際で刀を抱いたまま小さくうずくまっていた。
ミシ…と尾形の足が畳を軋ませた音に、弾かれたように顔が上がる。

「なんだ、尾形か…」

火鉢の横へ落ち着いた尾形を認め、肺の底から絞り出したような息を吐いて目を伏せた。
そのままうつらうつらしだしたかと思えば、尖りっぱなしの神経を持て余しているのか小さな物音にも反応し、その都度閉まりたがる瞼を持ち上げている。
幾度目か、廊下を行き過ぎる足音にがばりと顔を跳ね上げた娘は、ふと思い出したかのように炭に手を翳す尾形に目を止めた。その目の下にはどす黒い隈が浮き出ている。

「眠いなら寝りゃいいだろ」
「………眠れない」
「気の病か?」
「違うわバカ者…ッ」

怒れるだけの気力はあるらしい。むしろ気を張りすぎてぴりぴりしているといったところか。娘はまたぼんやり黙り込んだかと思うと、首を振り振り普段の半分も開いていない目を擦った。

「……この家に女がいるだろう?」
「女?アンタ以外にか?」

尾形が問い返せば、怯えなのか驚愕なのか、その憔悴具合も相まって判じ難い顔になる。

「…いるだろう、この間まで寝付いていて…」
「あぁ…家永のジイさんか。本復してたな」
「…ジイさん?」
「ジイさんだ」

今度は分かり易く怪訝な顔をする。待ってくれと額へ手をやり、回らない頭を懸命に動かしているようだった。

「…ジイさんじゃなく、ジイさんの娘の方だ」
「それはアンタだな?」
「いや………いや、違うだろう。……とてもじゃないが見えないぞ…?」
「あんな成りをしちゃいるが、同物同治とかなんとか言って人を食いまくった刺青の囚人らしい」

同物同治について説明してやれば、何かあったのか、娘は額に当てていた自分の手を見て青ざめた。

「前も話に出てきたろう。俺と出ていかされる前だ、聞いてなかったのか?」

呆れたとばかりにため息をつけば、愕然と畳に両手をついた娘は、ぶつぶつ何事かを言い始めた。いつもはきっちりと結い上げられている髪にも雑さが見てとれ、垂れ下がる後れ毛の隙間から窺えるその目は死んだ魚に負けずとも劣らない。
不眠は頭の方にもにくるからなとその姿を横目に尾形は熱の移ってきた手を擦り合わせた。

「その、…家永が」

ようやく受け入れられたのか、しばらくしてむくりと身を起こした娘は、都合の悪い部分はそっくり無視して話を戻した。
その家永が、眠ろうとするとどこからともなく現れ出るのだと言う。障子の影から床の下から、その出没先が余りにも変化に富んでいて、はて笑い話だったかと首を捻る。少なくとも話している当人は至って真剣な様子だ。
普段の威勢はどこへ行ったものか。切ればいいだろと言えば、娘はまたしてもぐっと言葉に詰まった。やはり頭が回っていないのか、いつもは喧しい口がすっかり鈍っていた。

「永倉のジイさんに相談しろよ」
「……訳を話したら、自分でどうにかせいと…」
「………」
「…言われるに決まっている」

言ってねぇのか。
そこでまた一つ大きく船を漕いだ娘は、はっと正気付くとぶんぶん頭を振るった。
もう開けているのもやっとの目で「…それに………恰好悪いだろう、泣きつくなんて…」と弱々しく零すものだから、どうやら事態は深刻らしいと知る。娘の頭の中では、だが。
そんなこと言ってる場合かねと言いながらその頭の天辺から爪先までを眺めれば、それに気づいた娘が警戒心も露わに尾形を見やる。

「…どこが美味そうに見えるもんかと思ってな」

ついでに皆目わからんと付け足してやれば、喧嘩なら他所で売れ…!と呻いた。
口元が緩むに任せている尾形に言いたいことは山ほどあるのだろうが、纏め切れずにその腕が頭を抱える。

「いいじゃねぇか。あれもお前の好きなジジイだろう」
「やめろ尾形…!滅多なことを言うな、取って食われるぞ…!」

鬼でも出たかと思わせる顔で、娘は飛びつかんばかりに尾形の口を塞ぎにかかった。先ほどまでは頭を動かすのも億劫という風だったというのに、あれだけ大事に抱えていた刀まで放り出して、余程家永が怖いと見える。
お前は馬鹿かとのたまう一方で、もう一押しすればベソでもかくのではないかというほどに情けなく眉根を寄せる。
その剥がれかけた仮面の真ん中を押し返して「少し寝ろ」と尾形は畳を示した。

「……私の話を聞いていなかったのか?」

聞いていたと答える。

「眠れないんだろ?家永がくれば起こしてやる」

娘はぽかんと口を開いたままになり、その顔に一瞬喜色が浮かんだように見えたが、それも直ぐに疑いの色に取って代わった。
またぞろ何か企んでいるのではと思われたらしい。眠気か不信か、極限まで目を細めお守りか何かのように刀を抱き直すのを、内心面倒くせぇなと呟きながら眺めるが、

「…いいからさっさと眠れ。俺もいつまでも座ってるわけじゃない」

待ってはみるが何の反応もない。眠ろうとするわけでもなく、ぎゅっと膝の上で拳を握った様子にやれやれと息を吐いて、尾形は立ち上がるため畳に手を置いたが、半分ほど腰を浮かせたところで縋りつくものがあった。尻を打ち付けながら畳の上に引きずり戻され、以前にも一度似たような目に遭った覚えがあると思い出す。

「…おい」
「わ、悪い」

じろりと睨めば娘は慌てて手を離した。

「いや…なんだ、その…」

言って黒の中に僅かに鳶色の浮かぶ目を泳がせる。油の注されていない歯車のように引っかかっては止まりを繰り返す頭で、言いたくない言葉を選り分け、口にできるものを探しているようだった。

「お願いします、だろ?」

覗き込めば苦いものを噛んだ顔で娘が口を噤んだ。にやにや笑う尾形が近づけた分だけその頭が後退し、伸びた指先がついと尾形の肩を押し返す。

「…冗談だ」
「………」

どうする、やめておくか?と尋ねてやれば不信の色を濃くし再び距離を取ろうとするが、思い止まるように寸の間動きを止めると、思い切りも良くがばりと畳に伏せた。横を向き転がったその背が、ぴたりと胡坐をかく尾形の腿に押し当てられる。

「…何の真似だ?」

おさまりの良い位置を探してか、身じろぐ様子を見下ろしてもその頬骨の辺りまでしか窺い知ることができない。

「…お前が私を置いてどこかへ行かないようにだ。これなら動けばすぐわかる」

胎児のように体を丸め、娘がゆるゆると深い息を吐いた。触れている部分から、じわり、熱が伝ってくる。
…ま、賢明だな。
そう思い火鉢へ視線を戻した時だ、
――すまなかった
吐息に掠れた声が混じった。聞き違いかと見つめた背中が僅かに震える。

「私も、少し…邪険にしすぎた…」

早くも半分夢の中へ足を突っ込んだ口調で呟く。何に対してか、尾形に対してだとすれば一体何がそんな事を口にさせたものか。

「…おい…痛い」

先日怪我を負っていた箇所を軽く蹴りつければ、もう口で相手をすることすら億劫そうに応じる。

「もう良くなったのか?」
「…平気だ」
「そうか」

尾形の返事を待たず、娘はすぅと寝入ってしまったらしかった。



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