微睡みの国へ招待せんと睡魔に唆されている名前は、双眸を包む眠気を飛ばさねばと目を擦った。それを見咎めた杉元は産毛の生えない陶器の腕を掴んで静止させる。

「名前ちゃん擦っちゃダメだよ。眼球傷ついちゃう」

うぅ、と歪曲の線を描いて唸った名前と一緒に杉元は寝転んだ。

「お昼寝しようか」

整整に部位が揃えられた顔を名前と付き合わせる。剛鉄の腕枕に髪の毛を敷いてうつらうつらしている名前は、緩く抱き竦める杉元の着物に顔を埋める。人口的な暗闇を作り、すよすよ寝息をたてた。

睡魔に誘われた先は桃源郷の夢国に非ず、吼々処であった。視覚と聴覚以外が機能しない小地獄で名前は、老年を迎え腰が曲がり顔が霞んだ爺さんと縁側に座っていた。大小四つの膝小僧を整列させ、滲む視界は水気の多い水彩画のようであった。正面を向く目玉を左へ滑らせると、目を凝らすことができぬが爺さんの萎びた肌に青い斑があるのが見えた。
爺さんの頭上に年中吊るされている風鈴が揺れるが、持ち味の音色は静黙したままである。手弱女の風が爺さんの衣香を弱々しく名前に嗅がせたが、無臭であった。どんな匂いであったかとんと思い出せないのである。鼻頭をひくひくさせて肺を膨らませたのだから、きっと良い匂いであったのだろう。
ぼやける指先についた米粒を舐った名前は「どうして主人は死んでしまった飼い猫の亡骸を剥製にして側に置いたんだと思う?」という問答に「ずっと側に居たかったから?」と懐疑心で吃った語尾を早々に打ち切って答えた。月並みな回答であったが、爺さんは名前を大袈裟に褒めた。

「もっと他の子達と遊びなさい。遊びは大切だから」

杉元、白石、父親、コタンの男衆が複合された得体の知れない声色は、腹話術のように爺さんの口に合わせて内側から鼓膜を揺らす。脳が覚えておらず、架空の声で代用したのだ。
利益が無いので進んで関わりを持つ必要は無いと、同年代の子らとは声も交わさなかった。では有益な大人に愛想を振り巻いたのか、と言われれば尻尾の振り方がわからず仕舞いで、ろくすっぽ顔の神経を使わなかった。小生意気に名前は口答えをする。

「別に遊ばなくてもいい。鳥や獣を撃ってる方が楽しい」
「そう言わずに。そうだ、私の孫と遊んでおくれ。この通り近年ますます腰痛が悪化しておちおち相手もできない」
「………」
「それと、もっと素直になるように。思ったことは最後まで言いなさい。人は超能力なんて便利な物を備えてない。最後まで言わなければわからない…お父さんに、ちゃんと自分が思っていることを言いなさい」
「わかった」

場面が暗転する。白地の背景に、己と同じ目線の幼子がポツンと一人立っていた。爺さんの孫であった。先程と打って変わり視界は良好である。友人となった爺さんの孫は饅頭のようだった頬が窶れ、落ち窪んだ顔と声で名前に言った。

「お爺ちゃんが死んだ」

病で呆気なく、ぽっくり逝ってしまったと言告ぐ。
良い人は神様が側に置きたいから直ぐ死ぬとはよく言ったもので、全くその通りだと薄情な名前は思った。冷塊の童女が嘆かわしいと観音菩薩が爺さんに化けて現れたのだから、いずれ神の元へ還るのは自然の摂理である。
落ち窪んだ友人を前にこの時の自分はどうしていたか追懐したが、碌なものではなかった。道徳心を説き、同年代の子らと管を繋げてくれた恩人が死去したというのに、血の通わない考えが浮かんでいたのである。そうすれば、ここに来て痛覚が蘇った。心臓が動脈に鋭い痛みを流すので息苦しい。どく、どく、跳ねるごとに苦しみは増す。この小地獄の胎衣で名前は過去をなぞり罰責の業火に炙られている。もう、肺に沁みたあの馥郁たる香りを思い出せはしないのだ。
業火が呵責を加え制裁を施していれば、壁越しから人の声が聞こえるように、聞き馴染んだ大人二人の声が膜の向こうから響いた。それに導かれ、吼々処の胎衣から名前はずるりと現実へ這い出た。


■■■


愛娘に腕枕をしたままの杉元に、尾形は断りもせず家に足を踏み入れた。腕枕をしている右肘を支えにして上半身を持ち上げている杉元と、その足元から見下ろす掻暗れた尾形は穏静な口論をしている。

「氏より育ちだがその育ちが上手くいったかどうかわからねぇだろ」
「上手くいってるじゃねぇか」
「父親の土手っ腹に風穴開ける奴でもか?」

杉元の眉尻が痙攣する。どういうことだと説明を要求した頃合いで、名前の少しだけ反れた睫毛の先が震えた。それを認めた尾形は口論を切り上げた。

「名前、帰るぞ」

髪の下に敷いていた逞しい腕から名前は機敏に体を起こした。ばくばく心臓を犯す、夢の名残の胎膜が拭い去れぬ間に父親にそう告げられ、言葉の痰が絡まる。

「どうした。やっぱり俺より杉元の方が好きか?優しいもんなぁ。ならずっと杉元の家にいるか?」
「オイ」
「ただ心配なのはお前が杉元の腹の風通しを良くしないかだ」
「尾形!」

肌で静電気を感じるほどの怒号であった。杉元を見遣れば皮膚の底から血管をこれ見よがしに浮かせている。直ぐに視線を父親に切り替え、ここに泊まる、と自分を気鬱にさせる心配を弾いた。

「どうしてわからない。お前の為を思ってやってるんだぞ」
「私の為じゃない。お父さんの為でしょ?」
「なんだと?」
「お父さんが嫌だからそう言うんでしょ。私は泊まりたいの。お父さんが私を心配してくれるのは嬉しいけど、今みたいなのはやだ。私もお父さんが好きだけどこんなことしないでしょ!」
「俺はお前が心配なんだ。前のような変質者がお前を傷つけるかも知れない」

水堰を切った喉から溢れる声の水が流れ、尾形の耳を塞ごうとしている。明確な拒否に耳詰まりを起こす前に説得したかったが、杉元が水量を増やした。

「名前ちゃんを心配してそう言ってんのはわかる。可愛いもんな。ただやり過ぎてんだよ、お前。やりたいこと制限されんのは辛いだろ?お前はそれを強いてんだ」

沈黙した尾形に杉元は畳み掛ける。

「街に出る時は臆病なくらい心配すりゃいい。だが行き過ぎないようにしろ」

頭をひと撫でした尾形は好きにしろと背を向けて家から出て行った。そうして世が眠る夜明け前に再びやってきた。心配が薄葉紙の厚さだけ軽減されたのを、朝ぼらけに杉元は知る。