住まわせて貰っているアシリパのチセにて杉元は胡座をかき銃の手入れをしていた。杉元を特徴付けている軍帽は右膝のすぐ横に置かれている。
上に簾が巻き上げられた玄関口から聞き慣れた幼い声で名前を呼ばれた。随分と切羽詰まった声であった。危急の事態かと手入れを丁度終えた銃を構え、金剛力士像のような面持ちで騒々しく床を駆け玄関口へ急ぐ。

「どうしたの名前ちゃん。何かあった?」
「……杉元お兄ちゃん…」

玄関口には名前が一人、陰気に佇んでいた。目玉を左右に動かし周囲を確認するも異常は見られず、いつも必ずといっていいほど側にいる嫌味な父親の姿は伺えない。その父親は数日前からどうも様子がおかしかった。というのも、母猫が子猫に近づく外敵を威嚇するように名前の周囲にいる大人を警戒するのである。それに例外は存在せず、このコタンに暮らす大人を含めあらゆる大人が対象であった。
日に日に陰る名前の顔はコタンへ来たばかりの頃を彷彿とさせ、ぼうっと物憂げな態度が射撃に反映されている。父親の気を引くため名前が日夜磨いた射撃の練度はもはや子供の範疇を超えていた。明らかに子供が持っても良いとされる腕ではないのである。血反吐を吐くほど練習を重ねた狙撃手が名前の神仏じみた射撃を見ればあっさりと、未練なくその道を捨てるほどの腕前なのだ。空を優雅に飛び回る鳥を撃ち落とすなぞ、そこな眠る鹿を撃つことと相違ないのである。であるのにここ最近の名前は鳥を撃ち損じていた。

「どうしたの?とりあえず上がりなぁ…?」

火急を要する事態でないと金剛力士像から菩薩へと変わった杉元は、銃から離した左手で力の抜けた両手を下げ佇む名前を手招きをする。白い肌に相反し際立っている、黒い二つの瞳を嵌めた赤い目縁に光が反射した。それに心臓が一度強く跳ね、擡げたままだった左手の指頭がゆっくり地面へお辞儀する。

「名前ちゃん…?」

白百合の肌にぽつんと咲く血色の良い唇に歯型の痕があった。戸惑い気味に呼ばれた名前は俯く。重力の流れに沿った髪の渓流で外界から遮断された。

「お父さんと何かあったのかい?」

羽を休める蝶が驚いて飛び立たぬような速度で距離を詰め名前の目前でしゃがんだ。柔軟な髪のカーテンを人差し指と中指の背で開き、耳へ掛けてやる。引っかかりきらなかったひと束の髪が溢れた。そのまま絹の頬を硬い掌で撫ぜてやれば、名前は杉元へ突進し膝と膝の間に体を入れる。逞しい鉄の体はその衝撃を吸収した。
この夥しい傷が刻まれた肉体は、少女の突進ごときで尻餅をつくような軟いものなどではない。名前は杉元の首に両腕を目一杯に巻きつけ縋り付く。

「お父さんがね、最近おかしいの。怖いの」

弱い息が首筋を擽る。杉元は前を向いたまま名前の背を二度、軽く叩いてやった。抱きつかれた拍子に強く振り撒かれた白檀の香りが、断りもせず鼻孔に侵入する。

「二日前に銭湯に行ったんだけど、月島さんと会ってね、その後お父さんがもう月島さんと話すなって…“名前はいい子だからお父さんの言うこと聞けるよな”って言ってくる…」

話を進める毎に両腕の力が増すが黙して耳を傾ける。懸命に紡がれる苦渋の音が鼓膜を震わせた。

「お父さんが心配してくれるの嬉しいけど、嫌だなって思っちゃう…前みたいに放って置かれるのもやだけど、今見たいなのもやだ」
「…名前ちゃん。今日はここに泊まりな」

どうやら一度腹を割って話さねばならないようだった。度が過ぎる愛情を注ぐ者はそれが良いことであると信じて疑わぬであろうが、注がれた者を追い詰め苦悩させる。溢れそうな愛情の水を溢すまいと躍起になり、器がひび割れてしまった時の末路を想像したくなかった。
顔は見えぬが名前が恐らく不安の表情を浮かべていることは容易く想像できる。

「安心して。お父さんには俺が言うから」

この暖さを失ってなるものか。刃物のような鋭い眼光は折れない決意の表れであった。