銃を手にした名前はいつでも銃を発砲できるように構えて林を獣のように駆け抜け、友人達の背中に追いついて声だけを張った。銃口は誘拐犯のもう一人の男に狙いを定めている。

「みんな早く誰か呼んで来て!この人達は誘拐犯だ!」

姿を現さず、遠距離から誘拐犯の脳に弾丸を到達させることなど名前はお茶の子さいさいであった。だが、それをしてしまうと友人達に一生ものの癒えない傷を記憶に刻み込んでしまうと思った。それは血なぞ、死体なぞ、見せられたくないだろうという名前の気遣いだった。だからこうしてわざわざ敵に姿を表したわけである。合理的ではないだろうが仕方のない状況だった。

「早く!」

急かす名前に友人達は狼狽えたが、もう一度発破をかければ一目散に斜面を駆け下りた。
気を割く存在が居なくなった今、誘拐犯を撃ち抜けば終わりだった。当たり前だが名前には誘拐犯を生きて返す理由が更々無いので気兼ねなく引き金を引けるのである。
血を吸う蚊は叩き潰さねばなるまい。そうしなければ、血を貪りに幾度でも肌に針を刺さんと舞い戻ってくるのだ。名前にとってこの誘拐犯達は蚊同然の存在であった。ここで仕留めなければ名前達を殺しにやってくる可能性がある。

「…あんた、その銃を持ってるってことはあいつを殺したね?」
「まだ生きてるから殺してない」
「屁理屈ごねるんじゃないよ全く…親の顔が見て見たいね。どうやったらあんたみたいなガキが育つんだい?」

この子供らしくない子供は人を殺めても平気な部類に属する人間なのだ。罪悪感に魘されることなく普通に食事を済ませ、寝床につき、快調な朝を迎える。殺した人間の顔などこびりつかず、綺麗さっぱり忘れ去って生きる。
どうにかしてこの子供に爪痕を残してやりたい。その鉄仮面を恐怖で変形させ、十分に怯えさせてから殺してやりたい。
実を言うと誘拐犯達は名前を殺す気は更々なかった。積み重ねた犯行がついぞ判明してしまい、この山に尻尾を巻いて逃げて来ただけだったのである。当分誘拐は控えるつもりであったのにこの有様だ。腹立たしいことに仲間を殺され自分たちも殺されそうになっている。なればこの子供らしくない子供を殺害し生き延びてやるのだ。

「…うーんと…お父さんに見て欲しかったから銃を初めたけど、お父さんは私を見てくれなかったの…それでやめようかなって思ったけどやっぱり諦められなくてたくさん練習して…」
「あーもういい。今のは皮肉だよ。オツムの弱いガキだねほんと」

そのオツムの弱いガキにしてやられたのを棚に上げ罵った。的外れな回答をする生意気な子供に苛立ちは最高潮に達しているが、いかんせんその生意気な子供は此方が何か行動を起こせば躊躇せず脳を破壊するのをやってのける。
仕方ないか。女は覚悟を決めた。指先すらピクリとも動かせない状態を引っ繰り返す方法が女にはあった。

「クソが」

素早く右手を懐に滑り込ませ短銃を取り出した。引き金に引っ掛けた人差し指に力を加えれば火花を散らして弾丸を吐き出す。
女が短銃を懐から取り出すよりも先に反応した名前は狙いを変え女に発砲したが、女は頭を撃たれたまま最期の力を振り絞って名前を絶命させようと目論んだのである。しかし射線は外れ名前に直撃はしなかったが弾丸が紺色の袴の裾を掠め土の水飛沫をあげた。
女は額の真ん中に開いた小穴から血を派手に振り撒いて地面に崩れ沈み、横に立っていた男も間髪入れず射殺した。男が鈍い音を立て、冷たい土に前のめりに崩れると尾形が姿を現し、そのまた奥には杉元と見知った大人達がいた。

「お父さん?」

普段とどこか違う父親の空気に名前は戸惑った。一方、名前が生んだ惨状に杉元とコタンの大人達は絶句するばかりであった。
パッと外見から怪我がないのは視認できる。喜ばしい。なのに素直に喜べない。杉元はその理由をもう理解していた。自分を兄と慕ってくれる愛らしい少女が、殺人を犯してしまった衝撃の所為だ。他の者も同じくコタンで年相応に遊ぶ、あの名前が人を殺すとは到底信じ難く現実を受け止め切れていないはずだ。
凍てついた視線を名前に送り、二つの死体を越えた先に銃口を下ろした我が子に土を静かに鳴らし詰め寄る。尾形は名前の前でしゃがみ目線を合わせた。

「その銃、どうやって手に入れた」
「もう一人いた男の人から盗った」
「どうやってだ」
「仕掛け矢に引っ掛けたの。多分まだ死んでない」
「仕掛け矢までそいつを誘導したのか」
「うん」

肯定した瞬間バシィンと盛大に頭を叩かれた。衝撃で体が右斜め下によろける。左手を銃から頭へ移動させて叩かれた箇所を押さえ、痛みに生理的な涙を目尻に浮かべながら現状を呑み込もうとする。
悪い人間を殺して何が悪い。死んで当然の人間はこの世にいる。それと偶々鉢合わせてしまっただけだ。と言わんばかりの堂々たる態度の悪びれない名前に尾形は手を上げた。それを受け入れられなかった名前は足元に向いていた顔を勢いよく尾形に向けた。

「仕掛け矢に獲物がかかって使えなかったらどうするつもりだった。いいか、お前は運が良かっただけだ」
「でもちゃんと殺せたもん!」

鈍い痛みをぐっと堪え尾形の言葉を遮り、両の眉頭をくっつくくらいに寄せ歯を剥いて怒鳴り返した。ビリッと尾形の頬が動いたかと思えば名前の右肩を掴み鼻先を近づけ、名前が怒鳴った倍の声量で叱る。
軽率にその身を危険に晒したのを尾形は許せなかった。

「今回は上手くいっただけだろッ!もう一度こんな状況になっててめぇが生きてられる保証がどこにあるッ!弾が当たってりゃ終いだったんだぞッ!」
「だってこのままあいつらと一緒にいたら危なかったかもしれないじゃん!」
「どっちにしろてめぇがしたことも危ねぇだろうがッ!てめぇがしたことと誘拐犯共と一緒にいる状況下を天秤にかけりゃ、後者の方がまだ安全だッ!誘拐するだけで危害を加えることはまずねぇだろうからなッ!」

目先の尾形の迫力に名前は沈黙した。鼻頭がくっつきそうだ。視界は般若になった尾形で占められてしまっているので視線の反らしようがなく、怒る父を見るしか道がなかった。

「下手に誘拐犯刺激してお前の友人が怪我したら責任取れんのか?取れるわけねぇよなぁ?お前は自分だけじゃなく友人を危険に晒したんだ」

打って変わり、今度は諭すように言い聞かせる。
尾形の胸裏に怯える子や顔をぐしゃぐしゃにしてしゃくりを上げる子がいる。その中で一人しれっとしている名前の姿は異様であった。腐っていない清い果実の集団に、一つだけ腐り蝿がたかる異物が混入してしまっているかのようである。自分の娘に対して酷い言い様だが、言い得て妙だ。
そこで、余計なことに思いを馳せてしまう。

「俺のせいか」

欠けているからこのような強行に出れたのだろうか。だとすれば元凶は自分になる。
正直なところ、俺じゃなくてもいいんだろう。
名前は俺がいなくても大丈夫だ。欠けた人間だろうが、それなりに周囲と折り合いをつけて上手く溶け込める。直すのであれば杉元辺りが最適だ。
尾形は名前が周囲と打ち解け、仲良くなる度にそう思っている。父親といっても名ばかりで、自分の子供にどう接すれば良いか分からず放置していたら自分と同じような欠けた人間になっていた。腹を撃たれてようやくこれではだめだと思い連れ戻したが存外平気だったらしい。最初は尾形の愛を求めることはなかった。

「俺がお前をそうしたのか」

実際、尾形が放置していたから名前が欠けてしまったのか、生まれつき欠けていたのか知る由も無いが、尾形は自分の所為であると頑なに信じている。

「ち、違うよ…?何言ってるの…?」
「俺より、杉元達の方がいいか」

その台詞は今の名前にとって一番恐ろしいものであった。親から与えられる無償の愛を名前は知ってしまった。今更それを失うのは何よりも耐え難い。
誰もいない静寂な空間を一人過ごす寂しさ。偶に帰ってきては何も喋らずに直ぐ出て行く父親の後ろ姿。虚しく引き戸が閉まる音。幾ら銃の腕を磨こうとも一向に振り向いてくれず、ようやく相手にして貰えたかと期待に胸を弾ませれば生返事をされるだけの会話。冷たい床に大の字に寝転び、染みのある天井を眺めては次はいつ頃帰ってくるのかと指折り数える日々。
そんな苦痛の日々にもう戻りたくはなかった。

「ごめんなさい…もう危ないことしないから…!ごめんなさいぃっ…!」

いなくならないで、捨てないでと泣きじゃくる声がこだまする。銃を滑り落とし尾形に力の限り名前は縋り付く。涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を尾形の肩に押し付けわぁわぁ泣き叫ぶ名前の頼りない未だ小さな背に銃を握り続けた硬い掌を這わせ、抱きしめた。

「…取り敢えず、もう一人の生きてる方を俺達は探してくるからちゃんと話し合えよ」

行く末を見守っていた杉元が口火を切り、杉元達は根を張っていた足をゆっくりその場を後にした。
そして名前を落ち着かせようと背中撫でて何分か経過した頃、肩に顔を埋めたまま名前が鼻をすすりながらポツポツ喋り始めた。

「おっ、お父さんっはっ…!もうっ、私のこと…!き、きら、嫌いにっ、なった…っ?」
「…アホか。好きでいてやるって言っただろ」
「もうっしないからっ…!危ないっ、ことっ…しないからぁ…!」
「わかりゃいいんだ。お前は良かれと思って殺したんだろうが、本当に危険な時以外はやるな。心臓に悪い」
「わかったぁ…!」
「今夜はお前が好きな物を食うか」

手触りの良い艶やかな髪の毛を撫でてから名前を抱き上げ、尾形は先に下山した。
可愛い娘は想像より自分を必要としているようである。それがとてつもなく嬉しくてしょうがない尾形は泣き疲れて腕の中で眠る、何者にも変え難い重みの額へ優しい口付けをした。

下山した尾形から事の顛末を聞いたアシリパは生のつくものを手当たり次第名前に食わせた。その甲斐あってか尾形に叱られた衝撃から立ち直り、コタンを走り回る名前を杉元は微笑ましく見守る。
コタンの人々は正当防衛だと口々に言い、やがてほとぼりが冷めると名前が人を殺害したことを話さなくなった。
今日も名前は愛に包まれ輝かしい笑顔で過ごしている。