子供の連れ去り事件が多発しているから気をつけろという警告が、尾形親子が居着いたアシリパのコタンへ人の口に乗って流れてきた。
他の親子と比べれば歪な親子関係であるが尾形は、あまり遠くに行くな、夕暮れまでに早く帰ってこい、何かあれば大声を出して大人を呼べ等、子を思う親がする言いつけを名前にしたのだった。
名前が尾形の腹に穴を開ける前までは考えられない出来事だ。これに名前は父親の体調を酷く心配し熱を計ろうとしたが、尾形の苦笑を買っただけで終わった。名前はコタンでできた友達達と山で遊ぶ約束をしていたので、尾形は最終確認だと玄関先で見送る際にもう一度同じことを言えば、わかったと素っ気ない返事をしてから家を発った。

この時尾形はコタンからは出ずに精々近くの開けた平地か友人の家だろうと思っていた。それは周囲の大人達も同じで、まさか山の中へ入るなどと考えが及ばなかったのだ。それに山へ入るといっても子供の足で行ける場所などたかが知れている。そう遠くはいけまいと高を括っていた。だが子供というのは時に大人の想像をはるかに絶することをやってのける。

「助けて!」

いつも通り欠伸が出るほど長閑だったコタンに声変わりする前の異常を訴える絶叫がこだました。
一人の男の子が血相を変え足を縺れさせながらコタン全体の家に響き渡る声で「助けて!誘拐犯に襲われた!」と叫び倒したのである。
それを聞いて急遽、尾形や杉元、腕の立つ男達は猟銃や小銃を携え男の子の先導で山に登ることとなった。

「誘拐犯は何人いた?友達と何人で遊んでた?」
「男の人が二人、女の人が一人!俺と他の子四人で遊んでた!」

男の子はウンマシといい、遊んでいた子供達の中で一番年上であり足も早く体力もあった。だから他の子らよりもいの一番に危機を知らせに来れたわけである。
大人に背負われたウンマシが詳細にことに至った経緯を説明し終えたその時、複数の軽く忙しない地を揺らす音が聞こえた。正体は名前を省いた三名の子供達であった。息を切らし、焦りと恐怖が入り混じった形相で斜面を駆け下りてきたのだ。

「名前ちゃんが誘拐犯と戦ってる!早く助けて!」

未だ距離がある中で届いたその言葉は尾形の顔に深い影を落とした。

■■■

場面は遡り快晴の正午、一人の男の子が名前は狩猟を手伝っているんだろう。山はどんなところだ。から名前の誘拐犯殺害は始まりの合図を鳴らした。好奇心を掻き立てられた男の子が山を指差し行きたいと言い出したのだ。名前や他三名の友人達は渋ったが、大人達が狩猟をしている山がどんな所なのかほんの僅かに燻っていた興味に負け、少しだけならと了承してしまった。

「待って、早いよ名前ちゃん。休憩しようよ」

不安定な足場を物ともせず、名前は魚が優雅に水中を泳ぐようにすいすい登る。それを筆頭に必死について行く友人達の足は悲鳴を上げ、根を上げた友人により少し休息を取ることにした。
林の幹に背を預け足を放り出している者、地べたに座り込む者、様々に休憩していれば前方から三人の三十代前半の男女が下ってきた。

「あぁ、そこの君達!おじさん達迷っちゃって…良ければ近くにある家を教えてくれないかな?」

遭難したという三人を村へ案内するため来た道を引き返す最中、後に山を駆け下りて助けを求めることになるウンマシが振り返って疑問を軽く投げつけた。

「おじさんも狩りをするの?」
「ん?あぁ、そうだよ。狩りをしに山へ登ったら迷っちゃったんだ。丁度君達がいたから助かったよ、ありがとう」

子供達に挟まれて歩く大人達は微笑んで話に付き合ってくれている。そんな皆楽しげに騒ぐ中、名前は後列で訝しむ。
どうして銃を持った大人が一人だけなのか。そしてなぜ猟銃でないのか。それが気になって仕方なかった名前は疑問を解消しにかかった。

「おじさん、その銃って猟銃じゃないでしょ。どうして?」
「…お嬢ちゃん、銃に詳しいのかい?」
「お父さんと狩りをするからちょっとだけわかるよ」
「へぇ、凄いな。銃の種類とかわかったりするかな?」

男は顔を横に向け眼球を動かし後方の名前を見つめる。そう問われた名前は、はたと気付く。
男が担いでいる物は父が愛用している銃と同種の物であった。どうしてか家を発つ前の父の言葉が脳裏で再生され、嫌な予感が胸をよぎった名前は誤魔化した。

「…んー…銃の種類はあんまりわからない」

この大人達が誘拐犯であるという確証が欲しかった。早く確証が得られなければコタンへ着く前に誘拐されてしまうかもしれないのだ。だから名前は確かめることに踏み切った。

「おしっこ行きたい。ここら辺は熊がいるからおじさんついて来て」

小銃を担いだ男に声をかけた名前は帰り道を外れた横の林へ移動する。

「先に行ってるからな」

ウンマシが名前と名前について行く男の後ろ姿にそう言うと全員はそのまま足を進めていった。名前は男を待たせ、少し進んだ先にある林の幹の前で一人立ち止まり振り返る。

「あのね、おじさんの銃、三八式でしょ?どうしてそんなのもってるの?それは…」
「まどろっこしいな。お前は俺達が悪い大人かどうか確かめてぇんだろ?」
「………」
「馬鹿なガキだ。銃を持った大人と二人きりになって“悪い大人ですか?”なんて聞いて、悪い大人だったらどうするつもりだったんだ?」

悪い予感の通り、彼らは善人の毛皮を被った誘拐犯であった。
瞬時に名前は小桜が散りばめられた袖を翻して大股で駆け出した。そんな名前を小走りで付かず離れずの距離で追いかける男は、無力な少女を相手に圧倒的な強者である自分に驕り高ぶっていた。

「逃げ切れないから大人しくおいでぇ?無駄な抵抗をしてもなぁんにもならないよぉ?」

未発達の面積が狭い足裏が地面を蹴るたび踊る、ふわふわとした髪の毛や伸び盛りの背は加虐心をそそるものがある。
高揚感に支配され、なすすべもない獲物に不気味な薄ら笑いでどうしてやろうかと企み林と林の間を通過しようとした。

「ぐうぅっ!?」

途端、膝小僧付近の左太腿に重い衝撃を受けた。痛みの原因は矢であった。銃を離し急いで引き抜く。
男は足元に気が行かず、潜んでいた仕掛けに引っかかったのだ。肉を抉り刺さる矢じりにはトリカブトの毒が塗ってある。
狩猟で通い慣れているので、仕掛けの場所をある程度覚えていた名前は、もし手練手管の凶悪な誘拐犯でも殺せると勝算を見いだしていた。
痛みを堪える潰れた声に名前は走るのをやめ、傷口を抑え蹲る男の元へ引き返すと若干の距離を保ち、息を切らして見下す。

「お父さんによく銃の話を聞くの。それでね、戦争の話もしてくれるんだよ」

大量の透明な汗の玉を顔から流す男を憐れむでもなく、一度だけ深呼吸をした名前はただ見下す。感情の灯らない、その父親を知る者であれば否が応でも彷彿とさせる特徴的な目で。
強者である安心感に溺れ、捕食される側の弱い人間だと侮らせ誘い込みまんまと罠に掛けたわけだ。
自分が捕食する立場だと思っていただろう。その甘っちょろい頭のお陰で助かった。獲物はお前だ。見下され、勝手な想像だが名前が言外にそう物語っているように男は思えた。完全に立場が逆転してしまっている。

「どうやって助かったとか、撃つ時の心構えとか…こんなとこまで弾がちゃんと当たるわけないって油断してる隙を狙うとか」

然るべき時に然るべき場所で然るべき相手を殺す。それを名前はあと二回しなくてはならなかった。荒い呼吸をする男は遂に蹲った体勢から地べたに横になる。
手離した銃を取る余裕は痛みと毒によって根こそぎ奪われた。安心感から一転、苦痛に支配された男の銃を名前は拾う。

「おじさん、銃貰ってくね」
「……俺を、撃っていかねぇのかい…?」
「どうせ死ぬのに撃ってどうするの?無駄撃ちになっちゃう」

いずれ息絶える弱った男を放置して皆の後を追いかけて行った。おおよそ子供とは思えない冷血な発言に男は名前の欠けた部分を垣間見たのだった。