親が偉大な人であればあるほど子にかかる重圧はそれはもう計り知れない。情報将校であり生粋の人誑しである鶴見の子供として生を受けた名前は人生を諦めている。自分を透かして背後にいる権力者、父親を見ている薄汚い大人を相手にするのに疲れてしまっていた。
名前の人生の大半は父親の顔に泥を塗らぬよう教養を身につけ、取り入ろうとしてくる者をあしらい続ける毎日であった。立派な父君を持つのに子供が出来損ないだと嘲笑い哀れまれたくなかったのだ。

父親の顔に泥を塗らぬよう、などと歯ざわりの良い言葉を並べたが、本当の所は父親を思ってではない。全部我が身の可愛さ故だ。
あれほど立派な父親から生まれたのに自分は何も持たない薄汚い人間だった。人を誑かす程の技術は持たず、何をしても人並みの成績を収め、特別美しくもない。本当は血なぞ繋がっていないと明らかにされても大して驚きはしないくらいにもう自分を諦め失望していた。
飽きもせずゴマをする父と故意になろうと躍起な人間、父親の素晴らしさを永遠と語る父親の部下。一体誰が名前一個人を認めてくれているというのだ。全て父に通じているではないか! 名前は偉大な親という渦に飲み込まれ這い出られず勝てなかった敗者なのだった。

あの鶴見中尉のご子女だ。 さぞかし立派な人なんだろう。勝手に名前という人物を憶測だけで塗り固め、高級な像を作られた名前はそれに応えられるほど自分は優れていないと自負していた。
かといって高級な像を内側から破壊することもできない。せめて心だけは清くあろうとしていたのに成長するにつれ体と共に心にこびりついた小さかった黒ずみがどんどん広がり、気づけば真っ黒に塗り潰されてしまっていた。その黒ずみは名前を蝕み病ませ、発狂させ喉を壊さんとする原因であった。

圧死してもおかしくない淀んだ空気の中でよく正気を保っていられたとそこだけは手を壮大に打ち鳴らして自分を褒めてやりたかった。もう楽になりたいと、光が反射しなくなった瞳で毎夜布団に潜り背を丸め打ちひしがれては涙で枕を濡らしていた。いっそ狂ってしまえたらどれほど楽になれるか。しかしそんなことはできない。

狂人にも成れず、清い人間でもいられないどちらに転ぶこともできない。中途半端な枯れかけた花の自分が醜く哀れで情けない。
偉大な父を根源に生まれた自分は他者が羨ましくて仕方ない。なんて浅ましい。
あぁ、あの人ほど自分が有能で人から認められるような人間であればどれほど楽に生きられただろう。
妬ましい。誰か私を認めてくれ。でなければこの承認欲求に自己嫌悪という水で窒息死してしまう。もう水は肺を満たしかけているんだ!

そんな憂鬱な日々を送っていたある日、名前は同じような瞳をはめ込んだ男と出会った。ひっそりと甘味処でみたらし団子を頬張っていた時、肩に二十七と書かれた腕章を持つ軍服を着た男がいきなり断りも入れず隣に腰を乱暴に下ろしてきたのだ。

「お前、親に人生を狂わされた人間だろ?」
「…何を急に」
「俺は陸軍のお偉いさんの妾の息子でな。そのせいで苦労している」

灰色の世界に一人だけ色付いた人間、尾形百之助が誕生した。そこから共通の背景を持つ尾形と名前はなし崩しに互いの傷を舐めあっている。今も二人、人目を忍んで、薄暗い光の恩恵が届かない煤汚れた建物と建物に挟まれゴミを漁る鼠のようにこそこそと逢引をしていた。服に煤が付着しようとも名前はそれがお似合いだと自嘲する。
頭一つ高い尾形の背に腕を回し抱きついて、服の上からでもわかる戦場を駆けた逞しい岩の体を堪能することが名前にとっての薬であった。名前と体を癒着させる尾形は頼りない棒のような女体を肩から背へと腕で拘束している。

「父はあんなに高貴な人なのに私はどうして小汚いのかな」
「お前が小汚かろうがそうでなかろうが俺にとっちゃどうでもいい。お前が…名前が俺から離れていかねぇならどっちだっていい」

お互いがお互いを求めて止まなかった。中毒状態に陥っていたのだ。まるで人を惹きつけ堕落させ崩壊させるアヘンだった。
尾形はいつも良い匂いで名前を包む。名前は匂いをいつも尾形に嗅がせたくさせる。
尾形は名前の承認欲求を利用して逃げないよう雁字搦めに絡め獲った。名前は承認欲求を利用されていることを承知で絡め取られた。
ついに名前という花に尾形は欲情し、不埒な蝶を固く拒む花弁を一つ一つ丁重に剥いて傷のない純白の雌しべを暴いた。花はだらしなく口を開けて蜜を垂れ流すので、それに誘われて啜ればたちまち蝶は堕落した。蝶が啜った蜜はアヘンの蜜なのだから、なんらおかしくないことであった。

「俺から離れるな。死ぬ時も一緒にいろ」
「陳腐な口説き文句ね。死んで輪廻の輪に加わっても離してあげないから安心しなさいな」
「お前も陳腐な返しじゃねぇか」

なんとも薄暗さが似合う男だ。意外に表情豊かな尾形はその尾形たる象徴である目を細め、眉頭と眉尻が下に向いている特徴的な眉毛を限りなく上瞼に接近させ、低い声を押し殺して笑った。人を壮大に嘲笑う時の表情である。
いつもと違うところといえば、口を開いて笑わなかった些細な所だけだ。腕を解くことなく喉を小さく震わせ、心地よい掠れた音色を生産し耳に届けた。
少しだけ、とアヘンの威力を軽んじた尾形はもう名前を手放せなかった。鶴見中尉には知られているであろうしこれを利用して自分を渦に飲み込むだろう。しかし、名前に溺れても鶴見に飲み込まれるつもりは毛頭ない。
考えた末、手折った花を大事に抱えた尾形は隠すことにした。

危険な花は、少量の埃が舞い散る仄暗い家で吸われることを待ち望み、花弁を開いて蝶の帰りを待っている。
いずれ外的な力が二人を引き裂くまで、この怠惰は永劫に続く。傷を舐め合い、慰め、最終的に共依存してしまった哀れな二人の末路は果たして。