最終話 スターチスの花束 冬が過ぎ、もうすぐ春が訪れようとしている。 小高い丘の上を登ると暖かい風が吹き抜けた。 あれから俺は何度もこうしてナマエの墓に足を運んでいた。 「もうすぐお前の季節だな」 右手に抱えていた花束をそっと墓の前に置く。 もちろんスターチスの花束だ。 「今年の訓練生は活きが良いのが多いと聞くが、お前の言っていたエレンとやらはどうだろうな」 そして来るたびにこうしてナマエに話しかけていた。 調査兵団のこと。 仲間達のこと。 今日あったこと。 くだらないことでも何でも話した。 「最近また特殊医療班を目指す奴が増えてきたぞ。そのせいで俺のところにも追加訓練の依頼が増える一方だ」 だがお前ほど訓練に明け暮れている奴は未だにいない。 あそこまでの実力をつけるために相当な努力をしたのだろうと、今さらながら改めて感心している。 最後まで立体起動で楽しそうに空を飛んでいた姿を思い出す。 「今年の誕生日は家族で過ごせそうか?」 きっと胸元には俺があげたネックレスが光っているだろう。 そう信じて俺は兵舎への道を戻った。 ◇ 迎えた850年。 その日は突然やってきた。 トロスト区の壁門が五年振りに現れた超大型巨人によって破壊されたのである。 街は壊滅し多くの犠牲者が出た。 このままウォール・ローゼまで突破される恐れもある中、トロスト区奪還作戦が実行された。 その作戦を成功させ人類を勝利へと導いたのは ──巨人化する一人の少年だった。 「しばらく来ることが出来なくて悪いな。壁が壊されてからというもの、調査兵団もお前がいた頃から一変したぞ」 ナマエの墓にいるこの時間ですら懐かしく感じてしまうほど、時の流れはとても色濃く足早に通り過ぎていく。 いつか来るかもしれない最悪はいつも想定していた。 当たり前に訪れていた明日がまたやってくる保証などどこにもない。 そのことを俺はナマエとの日々で、これ以上ないほど痛感していた。 現実は残酷だ。時にこうして地獄にさえもなる。 だからどんな異常事態に陥っても戦える準備は出来ていた。 生きるために、一人でも多くの命を救うためにだ。 「エレンとやらは確かお前の幼馴染だとか言っていたな?お前の言う通り、奴は調査兵団に入団したぞ」 ただし俺の予想とは違った経緯でな。 「お前はあいつが巨人化することを知っていたのか?」 今となってはもう分からない。 だがもし知っていたのならナマエのことだ。 隠すような真似はしなかったとも思うし、あれだけ必死に巨人の研究をしていたことも辻褄が合わない気もする。 そもそもエレン本人もまだ把握しきれていない事だらけだ。 お前だったらきっと。 「……エレンに寄り添ってやれたんだろうな」 医学的にも精神的にも力になってやれたはずだ。 「エレンは特別作戦班で守ることになった。お前が所属していた頃の班員で結成された班だ。お前も見守っていてくれるんだろ?」 風が舞う。 そうして俺が再びナマエの元を訪れたのはしばらく先の事となる。 ◇ その後俺達に次から次へとクソみてぇな出来事が襲ってきた。 始まりは女型の巨人の出現。 それも正体は調査兵団の兵士だった。 やっとその巨人を追いつめたと思ったら、今度はウォール・ローゼに巨人が出現した。 それも普通の巨人だけじゃない。 獣の巨人に、巨人化した調査兵団の兵士三人。 エレンを中心に全ては動いているようだ。 その間大勢の兵士を失った。 もちろん調査兵団の兵士もだ。 エルド、グンタ、オルオ、ペトラ。 ミケ、ナナバ、ゲルガー……上げたら切りがない。 「あいつらを守ってやれなかった……そのうえ事は次々起こっているのに、情けねぇことに俺は戦うことすら出来ない」 ナマエの墓の前で首を垂れながら呟いた。 目の前でスターチスの花が揺れている。 ナマエにこんな風に弱音を吐いたことはあっただろうか。 これだけのことが続いてるせいなのか。 さすがに疲れが溜まっているのかもしれない。 そういえば最近はほとんど眠った気がしない。 いやナマエがいなくなってからずっとそんな感じではあった。 だがここ一か月くらいは特に悪化しているように思える。 「そっちはどうなってる?あいつらは……」 そこまで言いかけて言葉を呑み込んだ。 「ちっ……らしくねぇ」 舌打ちをして早急にその場を離れる。 こんな自分を見せるために訪れる場所じゃない。 そう思ったからだ。 その夜も俺はソファに寝転がり、眠れないと分かりながらも目を瞑る。 しかしこの日は珍しくすぐに心地よい眠りへと誘われた。 『……う』 声がする。 『……ちょう。聞こえますか?』 確かに聞こえる。 間違えることなど絶対にない。 この声は俺が一番聞きたかった──。 「……ナマエ?」 そっと目を開けるとそこにはいつものあの笑顔が俺を覗いていた。 『こんばんは、兵長』 これは一体何だ。 何でナマエが目の前にいる? 俺は夢でも見ているのか? 『そうです。これは兵長の夢です』 「……一体どういうことだ?」 『えと、夢枕に立つってやつですかね。兵長の夢の中に会いに来ちゃいました』 申し訳なさそうな顔をしてナマエは言っている。 言っているが、俺にはまだ状況がのみ込めないでいた。 「なぜ今までこうして現れなかった……?」 『私はいつも兵長の傍にいましたよ。それに兵長だっていつも話しかけてくれていたじゃないですか』 「……そういう問題じゃねぇだろ」 傍にいたのなら分かっていたはずだろ。 夢でも何でもいいから 「ずっとお前に会いたかった……」 伸ばした指先でナマエの頬に触れようとするも、その指はナマエの顔をすり抜けてしまった。 『こうやってまた辛い思いをさせてしまうんじゃないかって思ったらですね……その。それにあんまり接触すると現実世界との境界と言いますか……』 訳の分からないことをごにょごにょと呟いているナマエをじっと見つめる。 夢でも幽霊でも何でもいい。 ナマエは目の前に存在している事実さえあれば、俺にはそれだけで十分だった。 会うのがどうとか言うなら、どうして今さら夢に出てきたのか。 考えているとナマエがすかさず答えを言った。 『兵長のことが心配になりまして……』 「もしかしなくても俺の考えてることがわかるのか?」 『はい、なので隠し事しても無駄ですよ。そうだ、手紙にちゃんと書きましたよね?ソファで寝ちゃダメですよって』 「書いてあったな」 『それなのに今日もソファで寝てちゃダメじゃないですか。それじゃあ疲れは取れないですし、睡眠不足は悪化していく一方です』 ナマエが俺に説教するとは何とも珍しい光景だと自分でも思う。 本当にこいつは傍にいて俺を見ていたと言うのか。 『左足は順調に回復していますね。アルフレートの診断と治療計画は完璧です。このまま彼の指示に従って下さい。これならもうすぐ戦えるようになりますよ。あと眠れないからって無理して仕事増やさないで下さい。ちゃんとベッドで寝て下さい』 「何だ、急にどうした?」 『急にじゃないですよ。だって兵長の健康を管理するのは私の役目じゃないですか』 ……そういえばそうだったな。 だから俺を心配して出てきてくれたのか。 『それからもう一つ伝えたいことがあったんです』 「何だ?」 『皆ちゃんとこちらにいますから……安心して下さいね』 ナマエの指す皆とは、死んでいった奴らのことだ。 穏やかな笑みを浮かべたナマエを見て言葉に詰まる。 だがナマエ曰く隠したところでどうせ無意味なことなのだろう。 「……あいつらは後悔していないか?」 調査兵団に入団したことを。 俺の部下になったことを。 こんなにも早く命を落とす結果になってしまったことを。 ずっと知りたかった。 もちろん結果は誰にも分からない。 だが俺はちゃんと仲間の意志を継いで生きることが出来ているのか。 『後悔なんてするはずがありません。調査兵団の兵士として戦い、生き抜き、そして命を落としたことが誇りなんですから』 「誇り……か」 『皆全て自ら選択したことです。悔いはありません。もちろん私を含めて』 「ナマエ」 『兵長が生きて戦っている、それだけで私達の意志は受け継がれているんですよ』 胸の苦しみがすっと消えていく。 ナマエの言葉でこんなにも簡単に。 面倒見の良いお前のことだ。 ちゃんとあいつらを迎えてくれたんだな。 やっぱりお前は俺にとって唯一無二だ。 どんなことがあろうとお前以外好きになるはずがねぇ。 「そういえばそろそろお前の誕生日だろ」 『言われてみればそうですね。でもその前に申し訳ないことに兵長の誕生日が過ぎちゃいました……』 「構わねぇよ。祝えなかった分は、俺がそっちへ行ってから祝ってもらうとする」 『はい、今度こそ皆で盛大にお祝いをしましょうね』 このままこうして傍にいたい。 そう思うことは許されないのだろう。 『兵長、いつもスターチスの花束をありがとうございます』 少しずつ意識が遠のいていく。 『それからエレンのことも……』 ナマエ、まだ話したいことが……。 『……私はずっと傍にいますよ』 ナマエ……ナマエ──。 手を伸ばした先は部屋の天井へと移り変わっていた。 ゆっくりと息を吐く。 傍にいたはずのナマエの姿はない。 ということは俺は夢から目覚め、現実へと戻ってきたのか。 ソファから身を起こし朝日が差し込む窓を見つめる。 いつもより体が軽い。 こんなによく眠れたのはかなり久しぶりだ。 いつも傍に……。 あいつは今もちゃんと約束を守っている。 だから俺も約束を果たそう。 それからもう一度ナマエは夢の中に現れた。 何でも俺の健康状態を再確認したかったらしい。 どこまで特殊医療班脳なんだあいつは。 こんな風に夢の中でナマエとの繋がりが続いていくものだと思っていた。 しかしその後しばらくナマエの夢を見ることは出来なかった。 ◇ 月日は流れ、851年。 俺達が海に辿り着いたのは、トロスト区襲撃から一年が経過する頃であった。 ここに至るまで壮絶な日々だった。 調査兵団の反乱、王家の謎、ケニーとの再会、ヒストリアの戴冠、ウォール・マリア最終奪還作戦。 シガンシナ区での死闘の末、残った調査兵は俺を含めたった九名となった。 助けるはずだったエルヴィンは、ちゃんとナマエの元へと辿り着いただろうか。 「うへえぇ!これ全部本当に塩水なの!?あっ!?何かいる」 「オイ、ハンジ。毒かもしれねぇから触るんじゃねぇ」 ──ここが約束の海。 ナマエが言っていたことは本当だった。 壁の外には一面に広がった海があった。 ナマエのように海を信じていたエレン達と共に、俺は肌に触れる冷たさと終わらない戦いの幕開けを感じていた。 『兵長、約束を果たして下さってありがとうございます』 「よう……久しぶりだな。まさか海を見るまで出てこねぇとは思わなかったぞ」 『ごめんなさい……でもずっと傍で見ていましたよ』 「もうお前の知る調査兵団は俺とハンジしかいなくなった」 『はい、全員ちゃんとこちらでお迎えしました』 「エルヴィンも……か?」 『もちろんです。兵長のおかげでゆっくり休むことが出来たと……』 「そうか……」 『だから安心して下さい』 「……ナマエ。すまねぇがまだ当分そっちに行けそうにねぇな」 『獣の巨人を仕留めるという団長との約束がありますもんね。それにこの先の未来を切り開くためには、まだまだ兵長のお力が必要ですから』 「もちろんお前もそれに付き合ってくれるんだろ?」 『ずっと傍に。私達を繋ぐ約束です』 俺の惚れたナマエの笑顔がある。 「……抱きてぇ」 『は……、え……!?な、何を言ってるんですか!』 「思ったことを言ったまでだ。どうせ筒抜けなんだろ」 『だ、だからってそんなストレートな言い方……!』 「それよりいい加減お前も慣れろ」 『死んでも無理なので無理です……!』 「何だその言い分は」 その笑顔につられて俺も笑顔になる。 「まぁあれだ……いつか来るその日までそっちで待っていてくれ」 『はい、ずっとお待ちしていますよ。私は兵長のことが大好きですから』 姿は見えなくてもナマエは俺の傍にいる。 まるで春のシリウスのように。 FIN ←back next→ |