第36話 瞼の裏の未来 前編 夏も終わりを迎えようとした頃。 団長は私と兵長にある計らいをしてくれた。 三日間の休暇をくれたのだ。 今まで調査兵団にいて三日も休んだことがあっただろうか。 私の記憶では確実にないと思う。 そもそも休みを与えられたとしても、結局何か仕事をしてしまっているのが日常だったのもあるけれど。 ということで私と兵長はその連休を有効に使うために、北側に位置する温泉へと向かうことになった。 つまりこれは初めての一泊二日に及ぶ温泉旅行だ。 それも兵長と二人きりなのだからこれほど楽しみなことはない。 不意に隣に座る兵長の顔見る。 ああ。今日もこんなにカッコいい。 いつにも増してカッコいい。 「何か用か」 「へ?用ですか?」 「急にじっと見つめてきたから何か用かと聞いている」 「ああ!すみません……!いつにも増して兵長がカッコいいなと思って見つめていただけで、用とかがある訳ではなかったんです」 「……素直に全部答えてんじゃねぇよ」 「でも答えないと兵長はどこまでも追究して、絶対逃がさないぞーみたいになるじゃないですか?」 兵長の眉間に皺が寄った。 そういえば昔はこの顔をされるとよく不安になっていたっけ。 でも今はもう大丈夫。 兵長が考えていることが、それなりに分かるようにはなったから。 「楽しみですね、温泉!」 「昨日からそればっかりだな」 「何度も言いましたけど温泉なんて初めてなんです!それに噂ではとても体に良いと聞いたので、この旅で兵長の日々の疲れが取れたら最高だなぁって思いまして」 はしゃぐ私を見る兵長の眼差しがとても優しい。 眉間の皺もいつの間にか消えてしまっていた。 今度は兵長が私をじっと見つめる。 「お前こそ疲れてねぇか?」 「はい、元気ですよ!団長がこんな素敵な馬車まで手配して下さったので、これなら行きも帰りも疲れ知らずです」 カタカタと揺れる車内で私は今一度兵長の顔を見つめて笑った。 兵長が心配するのはよくわかる。 時間の経過と共に私の病気は確実に進行しているからだ。 体調を崩すことも日に日に増えている。 何日も寝込んでしまうこともあるし、医療班の任務でさえ毎日こなすことは出来なくなっていた。 正直もしかしたらこのまま……なんて悪い予感がよぎってしまった日もあった。 兵団内にはそんな私に疑問を抱いている人も出てきたし、特殊医療班の皆にはもう隠しきれてなどいないと思う。 けれど当初に決めた三人以外、現状を誰かに話すようなことは一切しなかった。 そういった経緯があったからこそ、最初兵長はこの温泉旅行に行くことを反対していた。 でも悪化した日々が嘘のように、ここ最近はとても調子が良い。 どうしても行きたいと何度も懇願する私を、最終的に兵長は了承してくれた。 「今日は綺麗な青空ですね。天気が良くてよかったです」 「ああ。ここ最近雨が続いていたからな」 「こんな日に立体起動の訓練をしたら凄く気持ち良いでしょうね」 車内にある立体起動装置に目を向ける。 なぜ持ってきたのかと言えば、休暇とはいえ何が起こってもすぐに対応出来るようにするため。 それも私の我儘で二人分の装置をだ。 もう久しく立体起動で飛び回ってなどいない。 もちろん使わないことに越したことはないけれど、思い出す景色が凄く遠く感じる。 速く、正確に。 何度も言い聞かせながら死ぬ物狂いで訓練した。 ……もう二度とは戻れない日々。 「そのうち調子が良い時にでも訓練しろ。お前は特殊医療班なんだから自分の調子も、訓練の加減も全部分かるだろ」 「……え。訓練って、いいんですか!?」 「エルヴィンには俺から話しておく。ただし正式な訓練に参加するのは無理があるから、自主訓練の、それも俺が付き添える範囲でだ」 「わぁ……!やったぁ!兵長、すっごくすっごく嬉しいです!」 まさか兵長がこんな提案をしてくれるだなんて。 あまりの嬉しさに思わず抱きついてしまった。 苦しいと一言漏らす兵長を私はさらに強く抱きしめ、馬車に揺られ続けた。 ◇ 辿り着いた先は小さめな宿。 兵長に手を引かれ馬車を降りると一人の女性が私達を迎え入れてくれた。 「お待ちしておりました。リヴァイ様、ナマエ様」 「こんにちは」 「エルヴィン様から全て伺っております。さぁ中へどうぞ。ぜひごゆっくりなさって下さい。荷物は全てこちらでお預かりしますね」 案内されるがまま中へ踏み入れると、今度は宿主と思われる男性が立っていた。 「こんにちは。本日はどうぞよろしくお願い致します」 「ようこそいらっしゃいました。早速お部屋にご案内致しますよ」 さらに奥へと案内されるも、ふとあることに気づく。 先ほどから私達以外の人の気配を感じない。 温泉というのだからもっと人で溢れ返っているのかと思っていたのに。 「あれ、今日は貸切でとお話を受けてますよ?」 「貸切ですか!?」 「まぁ元々ここは場所も場所ですし、そこまで人が訪れる所じゃないんですよ。南側の方であれば存じない方も大変多くいらっしゃると思います。私が言うのもなんですが秘境といったところでしょうか」 「確かに私も団長から聞かされて初めて知りました」 「エルヴィンさんには昔からご利用頂いてもらってますが、幹部になってからは中々お忙しいみたいですね」 休暇の手配は全て団長がしてくれた、と兵長が言っていた。 団長には本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。 「帰ったら一番に団長にお礼を言わなきゃですね」 「ああ。まさかここまでとはな」 せっかく用意してくれたのならめいいっぱい楽しまなきゃ。 夕方に到着するように兵舎を出発したので、辺りは薄っすらと暗くなり出していた。 宿で温かい夕飯を頂き早速温泉へと向かう。 「宿主さんは外に温泉があるって言ってましたよね?あ、ここから入るみたいですね!では私は」 「何故そっちへ行く」 「え、だって女性はこっちですよ?」 「あ?貸切なんだからこっちでいいだろ」 「……兵長?待って下さい。まさかそれ、一緒に入るって前提でお話してます?」 「当たり前だ。それ以外の何がある」 「いやいやいや!別々に入るって手段がありますから……!」 真顔でサラッと言うものだから逆に状況を飲み込めなかった。 確かに一緒に入った経験はないわけじゃない。 ……その。色々と致してしまったことすらある。 でも数えるくらいしかないし! 「絶対無理ですよ!」 「見慣れたと何度言えばわかる。覚えの悪い奴だな」 「それは兵長の方です……!恥ずかしいと何度も言ってるじゃないですかぁ!」 「入浴中にお前の容態が変化したらどうする気だ?」 「そう言って丸め込む作戦ですね?その手には引っかかりませんよ」 「馬鹿野郎。本気で心配して言ってんだ」 こうしたやり取りをしていると何だか付き合い始めを思い出す。 お互いいつも通りと心がけていても、私達の間で変化してしまうことはたくさんあった。 会話一つとってもそうだ。 何だか不思議。 非日常的な時間を過ごしているのに日常に戻ったみたいな、そんな感覚がする。 「とにかくダメなものはダメです……!」 「……、おい」 私は兵長が止めるのを振り切って、駆け足で温泉へと向かった。 兵長から逃げ出した私は、早速衣類を脱ぎ初めての温泉へと向かった。 そっと足を入れるとその熱が全身に伝わり始める。 「はぁ……気持ち良い」 無意識に言葉が漏れてしまった。 もちろん兵舎でのお風呂も悪いものではないし、兵長の部屋では贅沢なことに、ゆっくり一人で入らせてもらうことも多々あった。 でもこの温泉というものは比べ物にならないくらい極上だ。 「これは本当に元気になりそうかも……」 前に本で読んだことがある。 湯治だったっけ。 こうした温泉がある宿に長期滞在して、病気の治療や療養を行う方法のことだったはず。 こんなに良いところなら、慢性的に疲労した兵士達を連れてきてあげたいな。 どうにか特殊医療班で取り組めないかな。 ……私ってば。こんなに素敵な休暇を与えてもらったのに、やっぱり考えることは調査兵団のことばかり。 「そういえば兵長はどうした立体起動の使用を許可してくれたんだろう……」 あれだけ色んなことを制限するよう私に厳しかった……もとい私を心配してくれていたのに。 「……でも、嬉しいからいっか」 兵長もこの温泉で疲れがとれてるかな。 少しでも癒やされていたらいいな。 一緒に入っていたらどうなってただろう。 きっと最後は兵長のペースになって、キスされて……って、何考えてるの私! これじゃあ最近体調も良いのでしたくなっちゃいました、みたいな図式が成り立ちそうで恥ずかしい……。 のぼせない程度で上がらなきゃ。 両手で顔をパタパタと仰ぎながら、必死に自分を戒める。やっぱり兵長と入らなくて良かったと、再認識することとなった。 ◇ 温泉から上がり廊下に出るも、先程と変わらず人の気配は感じられなかった。 兵長は先に部屋に戻ったのかな。 扉を開けると予想通り兵長の後ろ姿が見えた。 窓際に腰をかけ何かを見上げている。 何をしているのだろうとゆっくり覗き込んでみるとその手にはお酒が、そして頭上には月が昇っていた。 「月見酒ですか?素敵ですね」 「ああ。お前も飲むか?」 「私の飲酒を禁止したのは兵長ですよ?」 クスクスと笑いながら隣に座ると、冗談だと兵長も笑みを浮かべた。 コクリと喉を鳴らし飲み干す兵長になぜだか胸がトクンと鳴った。 「兵長、温泉はどうでしたか?」 「思った以上にゆっくり出来たな。お前の方こそどうなんだ?疲れはとれたか?」 「はい!生まれて初めて入りましたけど本当に気持ち良かったです!そのうえ湯上がりに月見なんて……星も良いですけど月も素敵ですねぇ」 「寒くはねぇか?」 「すっかりポカポカですよ」 「そうか。なら少しだけ俺に付き合え」 月明かりに照らされた兵長を見つめる。 温泉のせいかお酒のせいか。 ほんのり染まる顔色にドキドキしてしまった。 リヴァイ兵長。 始まりは私の命を救ってくれたこと。 「今でも鮮明に蘇りますね。巨人に囲まれた私の元に突如現れたのは、人類最強の兵士であるリヴァイ兵長。巨人を倒すその姿はまるで空を飛ぶ鳥のよう……いえ、天を翔けるペガサスのよう……!」 「ほう……今日は俺に何されてもいいと」 「え!?どうしてそういう解釈に……!」 「……久しぶりに聞いたな、そのバカみてぇな例えとその話」 「バカじゃないですよ。今でも本当にそう思ってるんです。私達の大切な始まりの思い出ですからね」 そこから私の時間は動き出した。 それからシリウスを見て、好きだと告げられる前にキスをされた。 「兵長、一つお願いを聞いてもらっていいですか?」 「何だ?」 「私のどこが好きかを教えてもらえませんか?」 珍しい。 あの兵長がむせている。 よほど変なお願いをしてしまったみたいだ。 でも恋人同士なら普通の話だとも思うのだけど。 「…………そんなの今さら」 「今さら、ですかね。確かに好きだとか愛してるとか嬉しい言葉はそれこそたくさん頂いてきましたけど、でも理由とかをはっきり聞かされたことありましたっけ?」 そこでなぜか兵長が無言になった。 あれ、聞いておいてなんだけど。 大した理由がなかったりしたらどうしよう。 そもそもよく考えれば私の何を好きになったと言うのか。 自分でも全くよく分からない。 何だか欲張りなお願いをしちゃったかもしれない。 私は兵長のことが好き、ただそれだけで良いのに。 「何て面してやがる」 兵長に言われ数回瞬きを繰り返した。 もちろん泣く気など私には全くないのだけれど、無意識だったのだろうか。 「……どんな顔してました?」 「今にも泣きそうな顔をしていたぞ」 「あはは、やだなぁ兵長ったらご冗談を。ついでに私のお願いも冗談ですから。今のは忘れて下さい」 コトンとお酒を置く音がすると、兵長の手が頬に触れる。 「そうだな、まず一番に誰よりも強い意志と誇りを持っているところだ」 「……え?」 「時々それがその目に宿る時がある。その目が好きだ」 「兵長……」 「それからお前の方が真面目で相当な努力家だ」 これはもしかして。 私のお願いを聞いてくれてるの……? 「特殊医療班を結成するくらいだ。人に対する優しさや思いやりを持っていないと、そんな発想は出てこねぇし、まずもって行動しようとしねぇだろうな。それに度胸もある」 「……そんなにいっぱい」 「それからこの目だけじゃない、この髪も」 兵長の指が髪をさらりと掬う。 少しずつ近づく距離に鼓動がうるさくなっていく。 「この唇も全部俺のものだ」 「……っん」 小さく囁かれた後に唇を塞がれる。 一度だけの口づけかと思ったら、角度を変えては塞がれ今度は舌が口内へと侵入した。 「っ……、ん……っふ」 兵長の舌がすぐさま粘膜さえも刺激する。 それだけで私はすぐに疼いてしまう。 何度も味わってきた兵長との甘いキス。 「っ……俺が教え込んだ通りに反応するこの体も好きだな」 「……っ、そんなことまで」 「何だ。好きなところを教えろって言ったのはお前じゃねぇか」 「そう……っ、ですけど」 兵長の手があっという間に服の下に忍び込み肌に触れた。 それだけでビクンッと体が大きく反応してしまう。 もうすぐ胸の膨らみに触れようたしたところで、なぜか兵長の動きが止まる。 期待した矢先、その手は私から離れてしまった。 兵長の傍が生きる場所で死ぬ場所となったあの日。 私から兵長に抱いてほしいとお願いした。 互いの全てをぶつけ合って抱き合ったあの日以来、兵長と私が交わることは一度もなかった。 兵長はいつだって私の体を心配してくれて、私の体調を一番に優先してくれる。 その気持ちはもちろん嬉しい。 でも同時に押し潰されそうなくらい寂しい気持ちもあった。 青白く痩せ細っていく体、弱っていく自分。 きっとこの体に女としての価値はない。 きっとこの先も兵長に求められることはない。 分かっていた。 月明かりに照らされた兵長の顔はとても綺麗だった。 そんな兵長と視線がぶつかる。 何故だろう。涙が零れ落ちそうになる。 「俺もお前に一つ聞いてもらいたいことがある」 「……はい。兵長のお願いでしたら何でも聞きますので遠慮なくどうぞ」 涙をこらえて精一杯の笑顔で返答した。 兵長を困らせるようなことは絶対にしたくない。 それに兵長が改まってお願いだなんて珍しい。 一体どんなお願い事だろう。 「いや、願いなんて大層なもんじゃねぇな。これはただの俺の我が儘だ」 「我が儘?何か難しいお話なんですか?」 言いかけたところで兵長の手が頬に触れ、親指が私の唇をゆっくり擦る。 何とも甘美な瞬間に思わず言葉を呑み込んでしまった。 そして少しの沈黙の後、兵長が口を開いた。 「ナマエ、お前を抱きたい」 「え…………?」 「お前の体調が最優先だから無理にとは言わねぇが」 「待って下さい……まだ私を、抱きたいって思うんですか?」 「あ?何を言ってやがる」 「だって、こんな体だし……それに……」 「なるほどな……相変わらず余計なことを考えやがって。出来ることなら毎日でも抱きてぇと思ってるんだ俺は」 「なっ、そんな素振り一度もしてなかったじゃないですか……!」 「当たり前だ。俺との行為で、少しでもお前の体に負担がかかるのだけは避けたかった」 やっぱり涙が零れ落ちそう。 そっか……そんな風に思っていてくれてたんだ。 まだ私を求めてくれるんだ。 「だが……今日は抑えられなかった」 夜風が兵長の短い髪を揺らす。 兵長、それは我儘なんかじゃありません。 だって私にとってこんなにも幸せなことなんですから。 「兵長……お願いします」 頬に添えられた兵長の手を握る。 そしてそのまま自ら兵長の唇にキスを落とした。 ←back next→ |