第16話 空から零れる砂時計 後編


「おじさん……どういうこと、なの?」
「どういうことって。ほら、こうして子供達を迎えに来たんだよ」
「ナマエ……っ!離れなさい!」
「ねぇちゃんと説明してよ……!」
「ナマエ!」

クルトさんが私の腕を引っ張って、痛いくらいに抱き締めた。恐怖のせいなのか怒りのせいなのか。体の震えが止まらない。

「この嬢ちゃんが情報源だったのか?」
「ああ」
「はは!じゃあ今までのお礼に教えてやれよ」

情報源って……まさか。

『今、子ども達は全部で十人だったか?』
『今日はクルトさん達は?』

おじさんとした会話が走馬灯のように駆け巡る。

「俺達は人身売買を生業としている輩の集まりだ」
「人身売買だと……!?お前達まさか……っ!」
「どうせ親がいねぇガキ共だ。どこに貰われても一緒だろ?」

おじさんは親切なフリをして、私からこの孤児院の情報を聞き出していたんだ。私達を売り飛ばす目的の為だったなんて、全く気づかなかった。

私のせいだ。
全部私のせいで……アンナさんが……っ!

「さぁナマエちゃん。おじさんと一緒に行こうか」

私のこの身一つで皆が助かるなら、いくらでも捧げてやる。でもそうしたところで、アンナさんはもう二度と帰らない。

「大事な子供達をお前らなんかに渡すものか!」

最初に聞こえたのはクルトさんの声。その次に聞こえたのは大きな銃声と、目の前のおじさんが倒れる音。
それはとても一瞬の出来事で、たくさんの人を救ってきたクルトさんが、その手で人を殺めた瞬間だった。

「殺りやがった……!」

再び床に赤い血が広がっていく。それを私達はただ見つめることしか出来なかった。

「おい!さっさとガキ共を気絶させて連れて行け!」
「ああ!了解だ……!」
「死体の始末は俺がやる」

一人の男の目つきが鋭く変わる。子どもの私でもわかるほどの冷たい殺意は、真っ直ぐクルトさんに向けられていた。そして男は大きく一歩踏み出し、一気にクルトさんへと掴みかかった。

「ぐっ、クソ!」
「クルトさん……っ!」
「さっさと離せこの野郎が!」

銃を取り合い二人がもみくちゃになっていく。バンバンと何発か天井に向けて発砲されるたび、私達は大きな悲鳴をあげた。
ほんの一瞬のことだった。クルトさんの手から零れ落ちた銃が、私の足元転がってくる。
ああ良かった。これでやっと仇が打てる。そう思い手に取った銃は、とても軽く感じられた。

「クルトさんから離れて……!」
「ナマエ!」
「貴方もよ!皆から離れて!……じゃないと撃つから!」
「ナマエ……っ、止めなさい!」

男がこちらをくるりと振り向く。目が合った瞬間、生唾をゴクリと呑んだ。その顔には笑みが浮かんでいたからだ。

「お前みてぇなガキに撃てるかよ」
「私は本気よ!」
「じゃあ撃ってみろよ。お前の言う本気の殺し合いをしようぜ」
「……近寄らないでっ!」

あんなに軽く思えた銃がどんどん重くなっていく。一歩一歩近づいてくるこの男から、一切目を逸らせない。いや、瞬きすらも出来ない。次第に手が震え呼吸の仕方を忘れていく。

「ナマエ!撃つな……!」

男の右手が上がった。目に映るはキラリと光った鋭いナイフ。

「ナマエ…………!」

引き金を引けば何もかも終わるはずだった。男が走り出したと同時に、私の視界は大きな体に覆われる。

「……ク、ルト……さん?」

ナイフをその身一つで止めた体がズルリと倒れ込む。そしてクルトさんの血が私の体を赤く染めた。

「……クルトさん。ねぇ、クルトさん……っ!」
「がはっ……」
「クルトさん!お願いだから起きて……!」
「っぐああ!」

背中に刺さったままのナイフを男が引き抜くと、そこからさらにドクドクと血が流れ出した。

「ほらな。撃てねぇだろ?」
「あ……あ、……っ」
「どいつもこいつも身を挺して子どもを守るなんて泣けるねぇ」
「よし。さっさと連れ出すぞ」

部屋の隅に固まっていた子ども達に、もう一人の男が次々と殴りかかる。悲鳴や叫び声が飛び交い、家の中は地獄絵図だった。

「さてと……お前はどうするかな」

どんどん目の前が真っ暗になっていく。それでも一人でも多くの家族を救う僅かな光を探した。

「……私だけじゃダメなの?」
「あ?」
「私のことは貴方達の好きにしていいから、皆には手を出さないで……!」
「お前……いい目をするな」

血にまみれた男の手が私の顎を掴む。

「売るのがもったいなく思えたきた。そうだな。お前、俺の女になるか?」
「……それで、ここにいる皆が……助かるのなら」

側に置いてくれるなら、もう一度この男を殺すチャンスが来る。私がこの男をちゃんと殺していれば……!
後悔が押し寄せるたびに、一秒でも早くこいつの命を奪いたいという気持ちが増していった。

そうして男の手を取ろうとした瞬間だった。
目の前で大きな打撃音がして、手を取ろうとした男の大きな体が、真横に吹っ飛んでいった。
一体何が起きたのか分からなかった。ただ一つ。私の視界に映ったのは大好きな自由の翼だった。

「どうなってやがんだ一体……っ!」
「フーゴ、さん……?」

彼がすぐさまもう一人の男へと詰め寄る。

「な、何でこんなところに調査兵団が……!」
「てめぇら……!よくも……っ!」

振りかざした右手は男の顔面にめり込み、その一発だけで男は泡を吹いて気絶してしまった。

「お前ら大丈夫か……!?」
「っ……フーゴさん!」
「うわあああん!」

子ども達が次々にフーゴさんへと抱きついていく。続々と上がる安堵の声。それを聞いて私達は助かったのだとようやく理解した。
けれど私はその場から全く動けないでいた。
だって。だって全部。

「……ナマエ」
「クルトさん……?」
「……無事か?」
「クルトさん……っ、クルトさん!」
「怪我は……ないか?」
「うんっ、クルトさんが……庇ってくれた、おかげで」

クルトさんが私の手を強く握ってくれる。その手がまだ温かいことをこの身で感じて、一気に涙が溢れた。

「ごめん、なさいっ!私のせいで……!全部私の……っ」
「ナマエのせいじゃない……大丈夫、わかってるよ」
「でもっ、アンナさんが!それに、私がちゃんとあの男を撃ってればクルトさんだって……っ」

大粒の涙がクルトさんの手を伝っていく。

「……いや、撃たなくて良かったんだ。ナマエは自分の夢を忘れたのか……?」

忘れてなんかいない。でも私には自分の夢なんかより二人が、皆が、この家族が、この家が何よりも大切だった。それ以外は何もいらなかったのに。

「ナマエ…………お前はたくさんの人の命を救ってあげられる子になりなさい」
「無理だよ……っ!」
「出来るさ……ナマエは私の自慢の娘なんだから」

神様、お願いします。もう何も望みはしないから。だからこれ以上命を奪わないで下さい。私はどうなったって構わないから、もう誰も失わない未来を下さい。

──そう強く強く願っても届くことはなかった。

私は皮肉にも自分の存在を祝福してくれたこの日に、大切な家族も幸せな居場所を生きる意味を夢を、全てを一瞬失ってしまった。


その後フーゴさんのおかげで、私を含めた子供達は全員無事に救出された。数日後行われたクルトさんとアンネさんの葬式には、多くの人達が参列した。二人がどれだけの人を救い続けてきたのか。それが痛いほどよく分かる日だった。

涙はもう枯れ果ててしまったのか。あの日以来私が泣くことは一切なかった。誰も私を責めはしない。けれど誰も私には近づかない。誰もが一生消すことの出来ない大きな悲しみに包まれたままだ。
いっそ強く責めて罵ってくれたら楽なのに。
片づけられていく孤児院を毎日見つめながら、後悔だけが私の中に残っていった。

「またここにいたのか」

苦笑したフーゴさんが私の横に並んだ。

「他の奴らは皆引き取り先が決まったみてぇだな」
「はい。おかげさまで」
「で……お前はどうするんだ?」

誰かのお世話になるつもりは毛頭なかった。けれど一人で生きていくと断言出来るほど大人でもない。正直行くあてはなかった。

「お前はクルトの命を無駄にする気か?」

俯く私にフーゴさんが強い口調で言った。

「そんなつもりは……」
「お前がそんなんじゃあいつは犬死にだぞ」
「でも私の……私のせいで……っ」

そう言いかけて言葉を呑み込んだ。これ以上何を言っても無意味だ。もう二度と二人は帰ってはこないんだから。もう何もかもどうでもいい。
そう諦めていた私にフーゴさんは、たった一つの道を示してくれた。

「ナマエ、調査兵団に来るか?」

フーゴさんの口から飛び出したのは、思ってもみない言葉だった。

「調査……兵団?」
「十五歳なら入団出来る歳は超えている。兵団の中身は俺の話で大体わかってるだろ」

調査兵団──壁の中で暮らす人類国家において唯一、壁外に遠征する兵団。自由の翼で壁の外へ……。

「俺には医者になって人を救う道は教えられねぇが……兵士になって戦うことで誰かを助ける道なら教えてやれるかもしれねぇ」
「戦って、人を助ける……」
「文字通り心臓を捧げることになるがな。誰かを助ける前に自分が死ぬ可能性だってある。かなり過酷な道だ」

フーゴさんが私の頭に大きな手を置いた。

「クルトの死を無駄にしたくないなら来い、ナマエ」
「フーゴさん……」
「あいつの最期の言葉を忘れた訳じゃねぇだろ?」

お前はたくさんの人の命を救える子になりなさい。
出来るさ……イズミは私の自慢の娘なんだから。

クルトさん、アンネさん。
もう少しだけ、もう少しだけでいいからこの世界を生き抜いてみてもいいですか?二人が私を救ってくれたように、どうせ死ぬのならこんなちっぽけな私でも、誰かの役に立って死にたい。せめて私の命が尽きた時に、胸を張って二人に会えるように。

「フーゴさん、ぜひお願いします」

その後私は兵団へ入団するまでの僅かな期間、フーゴさんの実家に少しだけお世話になることとなった。フーゴさんのお母さんは、入団の身元保証人も快く引き受けてくれた。そして訓練兵を経た私は、三年後調査兵団へと入団する。

誰かの役に立ちたい。
ただそれだけで、死ぬことは何も怖くなかった。入団して一番初めにしたことはフーゴさんを探すことだった。しかしその時すでにフーゴさんは壁外調査で命を落としてしまった後で、私達は兵士として再会することは出来なかった。





真っ黒な世界だ。
ここが死後の世界なのか。
はたまた別の世界なのか。
体がとても軽くてふわふわしている。確かに傷を負っていたはずなのに。血が出ていたはずの箇所を触れても、痛みも何もない。
そういえば皆はどこにいるのだろう。

「ルッツさん?テオさん、アルネさーん」

声を出しても返事はない。

「皆どこに行ったんですかー?置いて行かないで下さいよー!」

何の音も聞こえない。何の景色も見えない。私は悪夢を見ていたのだろうか。どこからが夢でどこからが現実?

「誰かーー!」

“…………じゃない”

「誰?」

“……お前の居場所はまだここじゃない”

「ねぇ、一体誰なの?ここが違うなら私はどこに行けばいいの?」

“帰る場所があるはずだ”

「帰る場所なんてもう……」

“いいや。約束しただろう?”

「約束……」

そうだ。私は確かに約束をした。私を未来へと繋ぐ大切な約束。

「でもルッツさん達は……」

“大丈夫。彼らのことなら任せなさい”

「そう……ありがとう」

何だかとても温かい。それに懐かしい気もする。貴方は一体……。


“お前にはまだ誰かを救う力も時間も残っている。ちゃんと見守っているから、もう少しだけ頑張りなさい。ナマエ”


どうして私の名前を。
その答えを導き出す前に、私の意識はまた別な世界へ漂うのだった。


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