第15話 空から零れる砂時計 前編 花達が芽吹きだした春の日。とある孤児院の前で赤ん坊が泣いていた。それが私の人生の始まりだった。 私の両親について知っているものは誰もいない。だからどうやって私は生まれてきたのか、どうして捨てられていたのか、未だにその理由はわからない。 けれど私はそのことを特に気に留めたことはなかった。私には本物の両親とは別に、大切な家族が存在していたからだ。 赤ん坊の私を拾ってくれたのは、孤児院を営んでいた夫妻だった。生まれた時から一緒に過ごしてきたため、最初は本当の父と母なのだと思っていた。 「どうしてお父さんお母さんって呼んじゃいけないの?」 お父さんだと思っていた人はクルトさん。お母さんだと思っていた人はアンナさん。孤児院に住む子供達は皆、二人のことは必ず名前で呼ぶように教えられていた。 「いいかいナマエ。俺もアンナも、ナマエの本当の親じゃないんだ」 「ほんとうの親ってなに?」 この孤児院にいる全員が、血の繋がらない他人だと理解したのはいつの頃だったか。じゃあ血の繋がった人達はどうして私の傍にいないのだろう。疑問は深まるばかりだったけれど、結局のところ私にとって血の繋がりなどどうでもいいことだった。 毎日温かくて幸せなこの家が私の居場所。毎日笑って泣いて共に過ごす皆が私の家族。それが私の人生の揺るぎない真実だった。 クルトさんの本職は医者で、孤児院のすぐ隣で診療所を営んでいた。ちなみにアンナさんは彼を支える看護師でもあった。白衣に身を纏い人々の命を救っていく。そんなクルトさんが私は大好きだったし自慢でもあった。 「ナマエ、皆と遊んでこなくていいのか?」 「うん。私はこれを読んでる方が楽しいから」 絵本なんかより医学書の方が、外で遊ぶより診療所にいる方が、皆とおしゃべりするよりクルトさんと勉強している方が、私にはとても楽しくて有意義な時間だった。 「そういえばこの前の本はどうしたんだ?」 「あれはもう読み終わっちゃった」 「読み終えたって……はは、こりゃたまげたな……!ナマエは本当に賢い子だ」 尊敬しているクルトさんに褒められることが、私には何よりも嬉しかった。 「私もクルトさんみたいなお医者さんになれる?」 「あぁもちろんだ。ナマエなら俺なんかよりも優秀な医者になれるだろうな」 「本当?」 「本当さ。ナマエのおかげでこの診療所の未来も安泰だよ。なぁアンナ」 「ふふ。そうね」 柔らかくて穏やかな時間。だけどそれだけが世界の全てじゃない。 「おい!お前あそこに住んでる孤児だろ?」 「何で捨てられたんだよ!」 「聞いてんのか!?」 心ないことを言ってきたりする者や、孤児というだけで差別をしてくる者ももちろんいた。傷つかなかったと言えば嘘になる。 けれどそれよりも大好きな二人に迷惑をかけたくない、大好きな二人の役に立ちたいという気持ちの方が強かった。 だからそのためなら何だって頑張れる。誰よりも努力して夢を叶えるんだと強く思っていた。 そうして孤児院で育った私は、十五の歳を迎えようとしていた。 「おー寒い寒い!」 頭に雪を乗せた一人の男が孤児院の扉を開ける。 「いらっしゃいフーゴさん」 アンナさんが雪のついたコートを受け取り、彼を迎え入れる。そして背中には私の大好きな自由の翼が現れるのだ。 「フーゴさん!」 「おうナマエ。元気だったか?」 「フーゴさんも壁外調査お疲れ様!」 フーゴさんはクルトさんの昔ながらの親友で、自由の翼が示す通り調査兵団の兵士だった。 「ちょうどよかった。今夜のスープは私が作ったの。食べながら外の世界の話を聞かせて」 「おいおい、ナマエが料理?いつの間にそんなことが出来るようになったんだ?」 「最近はよく手伝ってくれて助かってるのよ」 アンナさんとお揃いのエプロンをして、得意気にスープを温める。 「しかしナマエもどんどん女らしくなっちまって。ついこの前まで赤ん坊だったのによ」 「いつの話してるの?私もうすぐ十五歳になるのよ?」 「もう十五かぁ。このままあっという間に女医になっちまうんだろうな」 「なれたらいいんだけど。そうだ!フーゴさんが怪我した時は私が診てあげるね」 台所のいい匂いに誘われたのか、皆が一斉に階段を降りてくる音が聞こえた。そしてフーゴさんを見るや否や、私と同じ反応をしてみせた。 「フーゴさん!」 「いつ来たの!?」 私も皆もフーゴさんのことをとても良く慕っていた。彼が来ると一気にこの家が明るくなる。いつも私達に親切にしてくれることはもちろんだけど、私は彼の話を聞くことが何より大好きだった。 調査兵団のことや壁の外のこと。それに巨人のこと。楽しいことばかりじゃない。フーゴさんはちゃんと残酷な現実も教えてくれた。そしていつしか彼が心臓を捧げている調査兵団に、強い敬意を抱くようになっていた。 ◇ 「これと……これも下さーい!」 「ナマエちゃん、最近よくおつかいに来るね」 「うん。最近は私が食事を作ることも増えてきたの」 少しでも手伝いをしてアンナさんを楽させようと始めた料理も、いつしか一人で出来るようになっていた。小さい頃から来ている馴染みの商店街も、ここ最近は一人で来ることの方が多くなっている。 「よし、じゃあこれはおまけだ」 「いいの?この前も貰ったばかりなのに……」 「いつも頑張っているご褒美だ。皆で分けて食べるといい」 この店のおじさんとも随分仲良くなった気がする。いつも孤児院のことを気にかけてくれて、こうして良くしてくれる。私の周りにはこうした優しい人達がたくさんいて、困った時は皆が助けてくれた。 「最近孤児院の方はどうだい?」 「特に変わりはないよ」 「今、子ども達は全部で十人だったか?」 「この前新しく一人入ったからね」 「クルトさんも前にも増して忙しいって聞いたよ。夜遅く帰って来ることも多いんじゃないのかい?」 「最近は特にそうかも。でも皆で力を合わせて、ちゃんと留守番出来てるよ」 「そうか。偉いな、ナマエちゃんは」 足りないものなんて何もなかった。欲しいものも何もなかった。だって私の毎日はとても満ち足りていて、そしてその先の未来には大きな夢があった。その夢が私をどれだけ支えてくれていたことか。 私には生まれてきた意味はずっとわからなかったけれど、この世界で生きる意味と幸せが私には確かにあったのだ。 そんな私にその日は簡単に訪れた。とても空が青く、幾度となく通り過ぎては再び巡ってきた、春の日のことだった。 「ナマエ、おつかいを頼まれてくれないか?それから今日も仕事で遅くなるから、家のことはよろしく頼むよ」 「はーい」 「ちなみにおつかいは午後から行って、夕方くらいに帰ってくればいいから」 いつもはそんなに細かい時間の指示まではしないのに、と首を傾げながら渡されたメモに目を通す。量は多くないもののいつもの買い物より時間を要しそうだと思った私は、急いで家事を済ませ午後から外出することとした。 こんなの何に使うんだろう?そう思うような品物がいくつかあった。何だか奇妙なおつかいを済ませ、最後に向かったのはいつもの商店だった。 「こんにちはー……ってあれ?もしかして今日はお休み?」 そういえばこの前も休みだったし、ここのところ店を閉めていることが多い気がする。何かあったのだろうか。 「今日も申し訳ないけどお休みにさせてもらってるんだ。でもナマエちゃんならいいよ、売ってあげる」 「でも……」 「ほら、何を買う予定だったんだい?」 おじさんに渡されたメモを見せる。 「じゃがいもか。それならうちに大量に余っているのがあるんだ。それを分けてあげるよ」 「そんな、そこまでしてもらったら悪いよ!」 「何言ってんだ。子どもが遠慮なんてするもんじゃないよ」 「せめて半分だけでもお金を……」 「いいんだ。結構重いから後で僕が届けてあげるよ」 でも本当にタダで貰えるというならそれは凄く助かるのが本音だ。私はコクリと頷いておじさんの好意を受け入れることにした。 「今日はクルトさん達は?」 「今日も仕事で遅いんだって」 「クルトさんも相変わらず大変だな」 「本当に本当にありがとう。じゃあ私、家で待ってるね」 そうして私は見えなくなるまでおじさんに手を振って帰路を急いだ。今日は思ったより歩いた気がする。時刻はすっかり夕方を迎えていた。 急いで夕食を作らなきゃ。皆お腹を空かせているだろうな。そう思い慌てて玄関の扉を開けるも中の様子がおかしい。なぜか家の中が真っ暗でとても静かだ。 「あれ……?皆どうしたの?」 誰からも返答はないし、音の一つもしない。 「ねぇ皆どこに行ったの!?」 急に不安になって大きい声を出してみる。一体何があったのか混乱した私が、部屋の灯りをつけようとすると。 「「お誕生日おめでとー!」」 真っ暗な部屋の中から、突如皆の声が響いて部屋の灯りが一斉についた。 「ナマエ!お誕生日おめでとう!」 「あはは!ビックリした?」 「やったぁ大成功だね!」 そっか……そういえば今日は私のお誕生日だった。本当の誕生日がわからなかった私に、クルトさんが改めて与えてくれた誕生日──つまり今日は私が孤児院にやってきた日だ。 「クルトさんもアンナさんも仕事じゃなかったの……!?」 「ごめんごめん、嘘ついちゃったな」 「もしかしてこのおつかい……」 「準備するための口実さ」 どおりで何だか変なおつかいだと思った。このロウソクだって何に使うのだろう。 「それはこれに使うのよ」 アンナさんが慎重に運んできたもの。実際に目の前にするのは初めてだった。 「ええ!もしかしてケーキ!?」 「うわぁ僕初めて食べるよ!」 「私だって!」 「ほらナマエお姉ちゃん、早く食べよう」 「ふふ、待って。まず最初はナマエに、ロウソクの火を消してもらうのよ」 どこにいるのかわからない本当の母親に、一つだけ感謝していることがある。それは十五年前の今日、私をこの孤児院の前に捨ててくれたことだ。だってそうしてくれたから、私は今こんなにも幸せでいられる。 「ナマエ、お誕生日おめでとう」 「ありがとう……クルトさん、アンナさん、みんな」 本当はお父さんお母さんって呼びたかったけれど、それは涙と一緒に我慢することにした。 ケーキを人数分に分けて口に頬張る。この世にこんなに甘くて美味しいものがあるんだ。皆、口に生クリームをつけながら夢中で頬張った。 ──ドンドン。 玄関から聞こえたノック音に全員が振り返る。 「きっとフーゴさんだよ!」 「フーゴさんも呼んだの?」 「うん!ぼく見てくるね」 そう言って玄関に消えていく姿を見送る。すぐにはしゃいで戻ってくると思ってた。大好きなフーゴさんの手を引っ張って笑顔で、と考えていたのに何やら話し声だけ聞こえる。 フーゴさんじゃないとしたら……そうだ、もしかしたら商店のおじさんかもしれない。じゃがいもを届けてもらう約束をしてたんだった。 「待って、きっと私に」 ガンッ──! 玄関から大きな音がして再び全員が振り返る。何が起きたのか。頭で考えるより先に大きな足音が近づいてきた。 「大事な商品を殴るなよ」 「悪い悪い」 大柄の男が二人。その脇には玄関に向かったはずの私の家族が、口から血を流して引きずられていた。現実を理解しようとしても理解出来ない。一瞬で本能が恐怖に支配されていく。 「っ……貴方達、一体何なの!?」 「おいおい。大人は留守なんじゃなかったのか?」 「その子を離してっ!」 「……ちっ、うるせぇな」 アンナさんが男達に飛び込んで行く。数秒の出来事だった。男の一人がアンナさんに何をしたのかわからないまま、視界が赤に染まっていく。アンナさんがその場にゆっくり倒れると、床には赤い液体は広がっていった。 それは正真正銘、アンナさんの血だった。 「きゃあああああ!」 「アンナ!」 「うわあああん!」 男の手にはアンネさんの血で染まったナイフが光っていた。 「何だ。殺しちまったのか?」 玄関から三人目の男がやってくる。そしてその男は今しがた受け入れられない現実を言葉にした。 「そもそも医者の留守を狙って、ガキ共を連れ出すって言ったのはあんただろ?それなのに何でいるんだよ」 「おかしいな。今日は仕事で遅くなるって言っていたんだけどな」 嘘だ。これは何かの間違いだ。 「そうだったよな、ナマエちゃん」 何度も見てきたあの優しい笑顔が、今は全くの別人に見える。 「ほら、約束のじゃがいもを持ってきたよ」 ──その不気味な笑顔に、一瞬にして戦慄が走った。 ←back next→ |