第11話 ハンジの願い 私は夢を見ているらしい。何度も寝て起きてを繰り返してみる。そうだ夢の中で夢を見ているんだ。ほっぺたをつねったりベッドから落ちてみたりしてみる。痛い。普通に痛い。あはは、まさか。 現実なの……? 寝ても覚めても何をしても頭から離れない。私を見つめるあの目。唇に触れたもの。嫌か、と言った時の声。そして再び近づいた時のあの表情。昨日の兵長が何度も鮮明浮かんでくる。 「やっぱり私、兵長とキスしたの……?」 じゃあ私のファーストキスは兵長なんだ。わーい嬉しいなーなんて喜べる余裕は全くない。どうして兵長はキスをしたのか。今後どんな顔して会ったらいいのか。そういえば確か兵長は好きな奴としかキスはしないと言っていた。 まさか…………いや、まさか、ね……? 兵長は私のことを一体どう思っているのかと、そればかりが頭の中でグルグルしている。 時計を見ると時刻はお昼を過ぎていた。朝食から何も食べていないのに、お腹が空く気配はこれっぽっちもなかった。 そのうえ明日は壁外調査だ。今回は特に念入りに準備しなきゃいけないし、朝から駆け回る予定だったのに、ベッドの上で何時間もこの有り様だ。 「そうだ。それより……キスしたら、切腹……退団……」 もう限界だ。このままじゃ頭の中が爆発してしまう。一人じゃ抱えきれない。 「ハンジさん……っ!」 ベッドから飛び起きて急いで服を着替える。きっとハンジさんなら力になってくれるはず、とすがる思いで部屋を飛び出た。 ◇ 「では分隊長、よろしくお願いします」 「うん。じゃあまた明日」 モブリットとの打ち合わせが終わり自室へと戻る。明日の壁外調査はどんな収穫があるのかワクワクしてしまう。それから私の班にも今回から、特殊医療班が配属されることになった。きっとナマエも気合いが入っていることだろう。 と思った矢先だった。バンっと勢いよく音を立てて部屋の扉が開けられ、そこにはナマエ本人の姿があった。 「ナマエ?ノックもしないでどうしたの?」 壁外調査前にナーバスになっているナマエを見たことは一度もない。それがどうしたことか。血相を変え今にも泣き出しそうな顔をしている。 「ハ、ハンジさぁぁん!」 そして私の顔を見るや否や、体当たりするかのように飛び込んできた。 「ど、どうしたの一体っ」 「私爆発しそうなんです……!」 「爆発?」 「きっと退団です……もうどうしたらいいのか!……謝ればまだ間に合いますかね!?ハンジさん……っ!私まだハンジさんと離れたくないです……!」 「申し訳ないけど何を言っているのかさっぱりだから、とりあえず落ち着いて、ね?」 本当に彼女が何を言っているのかさっぱりわからない。それにこんなに取り乱すナマエを見るのは初めてだ。何かがあったことは確実なんだろうけど。ナマエがここまで取り乱すことと言えば、リヴァイに関することで間違いないだろう。 ナマエの背中をトントンと優しく叩き、どうにか落ち着かせる。さて、リヴァイはナマエに一体何をしでかしたのか。 「リヴァイと喧嘩でもした?」 軽く質問をしてみても、ナマエはふるふると首を横に振るだけだ。じゃあ何か言われたのか。それともまた何か誤解してるのか。リヴァイがナマエを傷つけるようなことするとは思えないし……。 「ハンジさん……」 頭を悩ませているとナマエに名前を呼ばれる。顔を覗きこむとなぜか真っ赤な顔をしていた。 「私……兵長と、キス……をしてしまいました……」 は……キス……? ナマエがこうなってしまっている理由がキスとは。さすがにそれは予想していなかった。 「何だぁ血相を変えているから何かと思えば。で。二人はいつから付き合ってるの?」 「違うんです……!」 「違うって何が?」 「付き合ってなんかいないんです!それなのにキスをしたから悩んでるですよぉ……!」 キスをしたと聞いて、てっきり二人が付き合ったものだと思った。じゃあ付き合ってもいない二人に何があったのか。いくら好きだからってナマエから襲うようには当然思えないし。話が上手く見えてこないので、もう少し詳しく聞いてみることにした。 「それってどっちからしたの?」 「兵長から……ですね」 「まさかとは思うけど襲われた訳じゃないよね?」 「そんなことは全く!はい、あの、普通に……」 「どんな状況で?転んでぶつかったとかいうオチはナシだよ」 「あの、昨日のことなんですけど、夜に二人で星を見に行きまして。帰ろうとした際に……はい」 恥ずかしいですと言って顔を覆うナマエが何とまあ可愛いことか。その後頭が真っ白になり、何も言わずにリヴァイから逃げてきてしまったらしい。ナマエの顔が真っ赤な顔から一転、今度は真っ青な顔をしている。 「……なるほどね」 つまりリヴァイは堪らず手を出したのか。彼も相変わらず不器用で言葉足らずだなぁ。でも内心はほっとした。これなら解決するのは時間の問題だろう。 「でもナマエはリヴァイのことが好きなんだから、キスされて嬉しかったんじゃないの?」 「ハンジさん。兵長の班は恋愛禁止なんです」 は……?そんなルールあったっけ……? 「それに兵長とキスしたら退団なんですよ!以前兵長にキスしてそうなってしまった方を知ってるんです私!だから退団だけは何とか回避したくて……!」 何がどうなってそんな話になっているのか。あのリヴァイとキスしたら退団なんて、過去に何人もの女性を抱いてきておいて今さら……っと。危ない危ない。この話はさすがにナマエには出来ない。 「ナマエ、悪いけど多分それ全部誤解だよ」 「え!そうなんですか!?」 「恋愛禁止とか退団とか、リヴァイにも調査兵団にもそんなルールはないから安心して」 「なんだぁ……良かったぁ……」 そもそもリヴァイからしてるのに、それで退団なんて理不尽きわまりない話だ。普通に考えれば分かることだと思う。この子は頭はとても良いんだけど、こういうところはバカみたいに素直というか。 「じゃあこれで退団の心配はなくなりましたけど……でもこれから兵長とどんな顔して会えばいいのか……」 ふと初めてナマエと会った時のことを思い出した。 あれは三年前。新兵でまだ幼さが残るナマエが突然私のところに来て、巨人の話を聞かせて下さいってお願いしてきたのだ。 そんな子はナマエが初めてだったし、それ以降私にとってナマエは誰よりも可愛い後輩となった。そんなナマエがこうして恋に悩む日がきたんだな、と少しだけ感慨深くなってしまう。 ナマエは文字通り命懸けで兵士をやってきた。きっと今日までに辛いこともたくさんあっただろう。だからこそナマエには幸せになってほしい。それは私の強い願いだった。 「もちろん兵長の気持ちが知りたいですけど……やっぱり怖いです……」 ナマエにとってリヴァイは初恋の相手のようなものだろう。怖くなってしまうのは至って普通の感情だ。 まぁそもそもこの場合完全にリヴァイが悪い訳で。分かってはいても私に出来ることなど限られているし、言えることは一つだけだ。 「ナマエ、後悔だけはしないようにね」 二人に必要なのは互いの意思を交わすこと。もちろん私がそれを担っては意味がない。 「私もナマエもリヴァイも、誰しもが明日も生きていられる保証はどこにもないんだからさ」 もしかしたらまた壁が壊されるかもしれない。次の壁外調査で命を落とすかもしれない。私達に確固たる未来なんか存在しない。だからどうかナマエには、このかけがえのない今という瞬間を生きてほしい。 「私から言えるのはそれだけかな」 ナマエがずっと変わらず、リヴァイだけを想い続けてきた気持ち。それはとても尊いものだから、無駄になんてしてほしくはない。 「ナマエ?」 無言で俯いてしまったナマエに声をかける。 「何か気に障るようなことを言ったかな……?」 「……いえ。その逆です、ハンジさん」 「逆?」 「物凄く大事なことに気づかされました。そうですよね、うん。確かにそうです」 何か思うところがあったのか、一人で何かを確認するように呟いている。そして先ほどまで泣きそうだったナマエから一転、はっきりとした言葉を口にした。 「ハンジさん、私、自分の想いを話してみます」 とても真っ直ぐな目をしている。私の好きなナマエの目だ。 「急に何があったの?」 「急にスッキリしてしまったんです」 「そう?それならいいんだけど……」 「まずは明日の壁外調査から無事に帰ってくることが最優先ですけどね。フラれて立ち直れないまま壁の外に行ったら、本当に命を落としかねないので」 ナマエがそう笑いながら立ち上がる。 「ハンジさん、お礼の紅茶を淹れさせて下さい」 ナマエの淹れてくれる紅茶は好きだ。部屋に広がる紅茶の香りに笑みが零れる。 「新しい班はどうなの?」 「凄く楽しいですよ。もちろんルッツさん達に比べたらまだまだですけど、でも皆一所懸命でとても可愛いです」 「そういえば今回の隊列は、うちとリヴァイのところは隣同士の配置だね」 「そうですね。明日はよろしくお願いします」 「全員が無事に生きて帰れるといいね」 犠牲者が出ることは避けられないと、これまで幾度となく思い知らされてきた。それでも私は一人も犠牲者が出ないことを祈っている。 「そうだ!帰還したら兵長のお誕生日のお祝いをするんです。ぜひハンジさんとモブリットさんも参加して下さい」 「へぇ。リヴァイは冬生まれなんだ」 「12月25日だそうですよ」 「面白そうだね。じゃあぜひ参加させてもらおうかな」 こんな世界でも皆生きて生き延びて、そして喜びを幸せをたくさん感じてほしい。そう思うのは贅沢なのだろうか。 「でも二人が上手くいったら、その日はさすがに遠慮するよ」 「あはは。ありえないので心配ご無用ですよー」 「じゃあフラれたら一緒に慰め会もしようか」 「兵長の前で慰め会とかどんな罰ゲームですか!」 すっかりいつものナマエに戻ったみたいだ。こうと決めたら曲げない性格が、良い意味でふっ切れさせたのかな。 「もうこんな時間……!」 「本当だ」 「いきなり押し掛けてすみませんでした」 「いいえ。ナマエならいつでも歓迎するよ」 お互いニッコリと笑顔を交わす。 「では私は急いで明日の準備をしますね」 そうして翌日私達は壁外調査の日を迎えた。 ◇ 空を見上げる。雲一つない快晴だ。 「整列しろ!もうすぐ門が開くぞ!」 開門する前に隣のリヴァイ班に目を向ける。ナマエはリヴァイの横でピンと背筋を張って前を見据えていた。実際リヴァイと顔を合わせたら動揺するかとも思っていたけど、余計な心配だったみたいだ。ちゃんと兵士の顔をしている。 「緊張してきました……」 「大丈夫大丈夫。落ち着いてペトラ」 「はい……」 「絶対に私が守るからね」 昨日とは打って変わって力強いナマエがいる。やっぱり不思議な子だ。 「開門します!」 「進めえええええ!」 一斉に馬が駆け出して門をくぐり抜けていく。今回はどんな巨人がいるのか。いつものように壁から離れるにつれ、好奇心は大きくなっていく。 私の隣には特殊医療班から追加加入した兵士が並走していた。訓練の時から彼の技術を見せつけられ、その腕が確かなことはわかっていた。彼もまた相当な努力をしてきたのだろう。そして彼を通して再び気づかされる。これまでナマエが歩んだ道のりは、どれだけ困難なものだっただろうか。私は改めて彼女に敬意を払いたい。 この日私達調査兵団は、初めて一人の犠牲者も出さずに壁外調査を終える。 行軍ルートが短かったおかげか。巨人との遭遇率がかなり低かったおかげか。様々な要因が合わさった結果だと思う。そしてこの素晴らしい戦果が特殊医療班の追加加入と重なったせいか、特殊医療班は更に高い評価を得ることとなった。 「お疲れ様」 壁の中に帰還した私が一番最初に声をかけたのは、リヴァイだった。 「お前もご苦労だったな」 「さっき聞いたんだけど、貴方の班がダントツで巨人を討伐したんだって?」 「どこぞのバカが張り切りすぎたせいだ」 「あっはは!なるほどね」 「討伐数が多いと言っても、今回はそれほど巨人に会ってねぇしな」 「……前回はかなりひどかったからね」 目の前にはこの結果を喜ぶ兵士達の様子が広がっている。私とリヴァイはその姿を静かに見つめていた。 「兵長ー!ハンジさーん!」 兵士達の中から一際大きな声がする。馴染みのある彼女の声だ。人波を掻き分けて走って来たのはナマエだった。 「お疲れ様でした!」 「ナマエもお疲れ様」 「ハンジさん!今回は犠牲者が一人もいなかったって聞きました!?」 「もちろん」 「やりましたね!私もう嬉しくて嬉しくて……!」 そう言って無邪気に笑うナマエを、リヴァイはただ黙って見ていた。 「では私はこれから医療班と合流して、このまま負傷者の手当てに回りますので。失礼します」 ナマエが再び走って人波に消えていく。 「あの小さい体のどこにあれだけの体力があるのかね」 「さぁな」 本当にキスをされて狼狽えていたナマエなのか。まるで別人のようで見ているこっちは可笑しくなってしまう。きっと今は誰かを救うことで、頭の中がいっぱいなのだろう。 「どんどん凄くなるねナマエは。今や憧れる兵士もたくさんいるみたいだし」 「……あいつは何も変わってねぇぞ」 「変わらないって?」 「あいつはずっと努力し続けてきた。それも一度も諦めることなくな。今になってようやく周りが気づき出しただけの話だ」 ねぇリヴァイ。貴方がナマエを見るその眼差しが、とても優しいものだということに気づいている? 「うかうかしてると誰かに取られちゃうかもよ」 それにもちろん私は貴方の幸せも願っているんだ。リヴァイとは長い付き合いだしね。 「……余計なお世話だ」 どうか二人にあたたかな未来がありますように。 この一週間後、私達は再び壁外調査を実施することになる。この功績が生み出した異例だった。 ←back next→ |