天城凪沙と付き合い始めて、数日。ひとまず、彼女との間に取り交わされた約束は、二つだけ。一つ、凪沙の正体は誰も明かさないこと。一つ、お互いを知るために放課後──及川と凪沙の都合のつくのは月曜のみだった──は一緒に帰ること。たった、それだけだ。『家から一番近い学校がいい』という理由で青葉城西を受験したという凪沙の家は、学校から徒歩五分圏内だという。 授業の合間の移動時間や昼休みはお互い睡眠を取ったり宿題や課題を片付けているため、基本的に二人の逢瀬は放課後のみ。土日は時間があえば、なんて話をしながら一緒に学校から帰ろうとしていた、その時だった。隣を歩く凪沙の目が、きらんと煌めいた。 「土日──そうだ及川、デートしたい。デートしよう!」 「お、おす」 男前すぎるお誘いに、及川も背筋を伸ばして頷いた。まあ、互いを知るには同じ時間を過ごすのが一番だ。二人ともバレーに勉強にと毎日忙しなく過ごしている。限られた時間の中で、どうやって付き合っていくのかを考えれば、そのお誘いも頷けるというもの。自分から誘えばよかった、なんて思いながら及川はにこやかに笑む。 「どこか行きたいところでもあるの?」 「ってわけじゃないけど……そもそも、デートってどこ行くのが正解?」 「正解、ときたかー」 いかにも、頭脳明晰な才女らしい問いだ。ケラケラ笑う及川に、凪沙は実に不思議そうに首を傾げている。初心というか、純粋というか。故にこうして、物をはっきり言っても、嫌味がないのだろう。冷静に分析しながら、『デートの正解』を考える。 「正解っていうのか分かんないけど、まあ基本的に一緒に出掛けるよね」 「ほうほう」 「例えば──そうだな、買い物したり、映画見たり、ご飯食べに行ったり?」 「ふむふむ」 「別に、彼氏だからとか難しく考える必要ないと思うよ。俺たち──ほら、お互いまだよく知らないし、最初は友達と遊びに行くような感覚で、天城さんの好きなとこ行こうよ」 「なるほどなるほど」 名演説でも聞いているかのような真面目な顔で、凪沙はコクコクと頷く。そんな難しいことでもないのに、彼女はまるで未知の冒険を前にしているかのように、身構えているように見えた。たかがデートなのに。けれど、凪沙にとっては、されどデート、なのだろう。緊張しないよう及川が軽く言えば、凪沙は静かに頷いてから、じゃあ、と声を弾ませた。 「映画、行きたい」 「お、いいね。何か見たいのある?」 「えーと、あの、あれ、CMでやってるファンタジーのやつ」 「いいけど……魔法使いがフィクションのファンタジー映画見て、面白いもんなの?」 空飛ぶ箒も、想像上の生物も、全て彼女たちにとっては空想の産物ではなく現実だ。現実には遠く及ばないフィクションが面白く映るものなのだろうか。不思議に思って訊ねれば、凪沙は意外とばかりに唇を窄めた。 「じゃ、及川はバレーの漫画とかドラマ見て白けるタイプ?」 「あー……どーだろ、男子バレーってあんま題材にならないから、想像できない、かも……?」 「そっか。確かに、野球なんかは漫画とかドラマとかいっぱいあるのに、バレーはあんまり聞かないね」 「でも、野球選手も野球漫画読むとか聞くし、それと同じなのかな」 「かもね。寧ろリアル寄りにする方が、現実とのギャップに『あれ?』ってなる気がする。フィクションはどこまでもフィクション、って思えば何だって楽しいよ」 なるほど、一理ある。じゃあ初デートは映画で決まりだ。及川も映画は嫌いじゃない。映画が終われば感想で会話も弾むだろうし、いい選択だと思う。あとは駅前の洒落たカフェでもリサーチしておけば、まず間違いはないだろう。そんなことを密かに考えながら目を輝かす凪沙を見ていると、ん、と彼女は唐突に首を傾げる。 「及川は?」 「え?」 「及川の行きたいとこは?」 そんな選択を委ねられ、一瞬戸惑った。その理由を考えるより先に、普段と変わらぬ笑みを湛える。 「俺は、天城ちゃんの行きたいところかな」 正解はない、とは言った。ただ、この手の『テンプレート』は存在すると、及川は思う。こう言えば、相手も気負わずに済む。男と付き合うのは初めてだという凪沙相手なら尚更だ。それに、全部が全部嘘ではない。及川にとってデートは、女の子が喜ぶ場所で一緒に遊ぶことだ。だから茶目っ気たっぷりにそう告げたのだが、凪沙は真顔でかぶりを振るだけだった。 「そういうんじゃなくて。及川の行きたいところを、聞きたい」 絡め手など全部剛腕でぶち破っていく凪沙の言葉に、及川は面食らった。そんな風に返されたのは、初めてで、驚き、戸惑ってしまったのだ。選択が与えられたことに、ではない。 それらしい選択肢が一つも思い浮かばなかったことに、だ。 「えーと……えー、そうだなー……買い物、かなー……?」 なので無難も無難な選択を捻り出す。自分の行きたいところ、したいことはなんだろう。いの一番に思いつくのは、やはりバレーだ。だがそれは自分だけがしたいこと。凪沙はスポーツ苦手と言っていたし、巻き込むのは忍びない。そもそも、自分がやりたいバレーは二人でやるものではないし──。 なんてうだうだ考えながら、昔はどうやって遊んでいたのか懸命に思い出す。たった数か月前の出来事が、今は遠い遠い過去のように思う。けれど、記憶の中の及川もデートの場所は女の子の行きたいところ。自分が行きたいところではなかった気がする。デートそのものが楽しいので、自分のやりたいことは二の次だったのかもしれない。自分はこんなに面白みが無かっただろうか、コワッ、なんて呟く及川に、凪沙はこてんと首を捻った。 「買い物って、何買うの?」 「あーっと……眼鏡! スペアが欲しくてさ!」 スリの恐れもあるし、海外に行くにあたって予備の眼鏡はあった方がいい、と親から助言を受けていた。昔使っていた眼鏡はうっかり踏みつけて壊してしまったので、前々から新調しようと思っていたのだ。ちゃんと答えられてよかった、まるで子どものような安堵に深々と息を零すと、凪沙の黒い目がくるりと光を帯びて輝く。 「及川、目悪いの?」 「良くはないなー。今もコンタクトだし」 「え、すご!」 「別にすごくはないでしょ」 「すごいよ! 目に何か入れるんでしょ、無理無理想像しただけで痛い!」 そう訴える人も少なくないが、やはり魔法使いが言っていると思うと、それだけで面白い。魔女もコンタクト怖かったりするんだな、と面白半分でニヤニヤしていると、凪沙は一歩、二歩、とスキップしながら及川の前に出る。 「映画見て、ご飯食べて、買い物行く──デートだ!」 「うん、そうだね」 特筆すべき点もない、ごくごく普通の計画だ。なのに凪沙は頬を上気させて、これ以上ないぐらい嬉しそうにスキップして、くるりとスカートを翻して、ニコニコと穏やかな笑みを浮かべている。ひょんなことから始まった交際だが、こうして喜んでもらえるのは、素直に嬉しい。 「楽しみにしてる。いつにしよっか」 「天城さん、土日空いてる日ある?」 「私、土日は結構暇だよ。及川の方が忙しいだろうし、合わせる」 「悪いねー。えーっと、じゃあ……」 そう言いながら、スマホのスケジュール帳を開く。ここ最近の土日はコーチや監督のツテを利用して県外の大学でバレーの予定が入っているため、スケジュールは思いのほかぎっしり詰まっている。どこがいいかと唸る及川の横で、洒落た革張りのスケジュール帳を取り出して開いた凪沙が、あっ、と息を呑んだ。 「及川さあ」 「うん?」 「──二週間後、大丈夫な人?」 それが何を意味するのか、及川はすぐに理解できなかった。だが、凪沙が見せてくれたスケジュール帳──日本語英語ごちゃ混ぜで、『魔法薬レポートの期限』だの『マクゴナガル校長と面談』だのが走り書きされている──を見て、ゲッと呻いた。大丈夫じゃないデス、と素直に告げれば、「予定変更ね!」と少女はニッと笑った。 *** 「あ、及川。問五のここ、ShopじゃなくてStoreのがいいかも」 「そんな意味違う?」 「Shopって小さい専門店ってニュアンスだから、マーケットみたいなでっかいとこはStoreのがいいよ。厳密にはイギリスとアメリカでまた違うんだけどさ!」 「オッケー、ありがと。やっぱ天城さんいると捗るなー」 「いえいえそれほどでも」 そうして二人で机を挟んで、手にはシャーペンを握り締め、ノートやらプリントやらに覆いかぶさる。土曜日の今日は天気も良く、まさにデート日和。だというのに──及川の自宅とはいえ──二人して家に閉じこもって勉強なんて、なんて真面目なカップルだと母親は感動していた。だが仕方がない、まさか初デートが家で勉強なんて及川も想像していなかったが、いかんせんタイミングが悪い。 何せ二週間後は、期末テストを控えているからだ。 「及川も真面目だよね」 「と、いいますと?」 イギリスから直接買ってきた──これがほんとの産地直送、と凪沙はドヤ顔した──手土産のビクトリアケーキを突きながら、凪沙がニヤりと笑んだ。 「及川の進路に、テストの結果関係ないじゃん。なのにちゃんと勉強するんだなって」 確かに、及川は進学しない。どんなに学校のテストの成績がよかろうと、海の向こうでそれが評価されるとも思わない。ただ、だからといって赤点ギリギリ、なんてみっともないマネはしたくないと、及川は肩を竦める。 「そりゃあ、青葉城西バレー部主将でしたから? 文武両道ってわけじゃないけど、多少は後輩たちの手本にならないと、示しがつかないし?」 「おおー、流石」 青葉城西は県内トップの進学校、偏差値七十とまではいかないが、常に六十五前後をキープしている。そんな中で及川は飛び抜けて成績がいいわけではないにしろ、『バレーにかまけて学業が疎か』だの『スポーツ推薦組は馬鹿ばっか』だの言われては、意地にもなる。ましてや、何十人もの後輩を束ねる主将を担ったのだ。自分の背を見つめる後輩たちの手本になろうとするのは、自然なことだった。 凪沙はひどく感心したように小さく拍手をしている。尊敬の眼差し、とばかりにキラキラした視線にムズムズとしながらも、いやいや、と及川は話の矛先を反転させる。 「それ言ったら天城さんも、受験終わってるんだ、し成績関係ないデショ」 「推薦貰ってる身だしね。怠け根性引きずって進学したくないからさ」 実に彼女らしい答えに、及川も自然と笑みが零れた。彼女のこういう部分こそ、尊敬できると思う。妥協しない、怠けない、ごくごく普通のことと見せかけて、それが一番難しいことを及川はよくよく知っている。尤も、妥協しない点については人のことを言えた義理ではないのだが。 試験対策プリントにざっと目を通し、凪沙はうんうんと頷いた。 「見た感じ、英語は大丈夫そうだね」 「読み書きはなんとかねー。でも、リスニングがほんと苦手でさ」 「こんだけ読み書きできれば、大丈夫そうだけどね」 「ほんとに?」 「ほんとほんと。私が向こう行く前、及川ほど英語できなかったし」 チャンス、と及川の脳が素早く反応した。シャーペンを指に挟んで、頬杖を突く凪沙に、及川はずいっと身を乗り出した。 「天城さんて、英語どうやって勉強したの?」 アルゼンチンは英語圏でないにしろ、流石にスペイン語から入るのはハードルが高い。せめて英語くらいは、と自主的に勉強を進めているが、やはり読み書きを学ぶのとは根本的に違う。凪沙は魔法学校へへ留学にあたって、どんな準備をしたのだろう。そんな思いで訊ねると、凪沙はぼんやりとした表情で天井を見上げる。 「んーとね、ホグワーツ入学が決まって二か月ぐらい、家で日本語一切禁止になったから、それでなんとか、って感じ」 「結構力技だね」 「今となってはその力技が一番効果あった気はする。最初は単語の羅列で会話してたけど、何とか通じてたみたいだし。でも、向こうには日本語通じる人誰もいないからね。それぐらいの気合は見せろって、母親からの愛の鞭だったのかも」 イギリス人とのクォーターだと言っていたが、流石に凪沙も家では日本語オンリーで育ったのだろう。愛の鞭に打たれながら、幼い凪沙が親に叫ぶように英単語を叩きつけている姿が容易に想像できる。ふんふんと頷く及川に、凪沙は「あ」とワントーン声が跳ねる。 「あれいいよ、洋画見るの」 「洋画?」 「うん、なるべくストーリー知ってるやつ」 「字幕でってこと?」 「そうそう。最初は日本語字幕にして、二度目は英語字幕にする、みたいな」 「へー、映画なら一人でも見れるし、いいかも。天城さんは何見てた?」 「最初はディズニーだったかな。慣れて調子乗ってジブリとか英語で見たけどあんまりよく分かんなかったし、やっぱ向こうの映画見るのがいいと思う」 「お、いいね。参考になる」 やはり先駆者の経験は参考になる。今度レンタルショップへ行こうと詰まったスケジュールに強引にねじ込みながら、及川はうんうんと頷く。それをじっと見ていた凪沙は、くるくるとシャーペンを回しながらおずおずと「あのさ」と呟いた。 「……えと、何なら、私も、練習相手になる、し」 「いいの!?」 どこか遠慮がちの凪沙に、及川は飛び上がらんばかりに食い付いた。日本に暮らしながら、海外で七年も学生やっているのだ。これほど適した練習相手もいまい。そんな及川に、凪沙はどこか申し訳なさそうにモジモジとする。 「ホントはよくないんだけどね……私、あんま発音綺麗じゃないし……」 「いやいやすごい助かるよ!! ありがとうございます!!」 「あの、ほんと期待はしないで……未だに私、友達に発音おかしいって笑われるから……」 才女はいつもの自信や堂々たる態度が鳴りを潜めたように、恥ずかしそうに縮こまっている。どんなに長い時間その国で過ごしたって、その国の人間と寸分違わぬ発音・ニュアンスで会話をするのは不可能だろう。けれど学習意欲が飛び抜けている彼女はそんな自らの未熟さが許せないのだろうか、苦々しい面持ちだ。けれど、せっかくのチャンスを逃すほど、及川も甘くない。 「十分だって!! それにさ──」 続く言葉に、少し迷う。けれど、はきはきと物をいう凪沙がこれだけ尻込みするのだから、本人的にはよっぽど抵抗があるのだろう。だから、その抵抗を打ち崩す。半ば冷静に、けれど半ば勢い半分に、止めた言葉をそのまま口にした。 「よく言うでしょ。他言語を覚えるには、その国の人を口説くのが一番って!」 どこかで聞いた、全文もおぼろげな名言を口にすると、凪沙はきょとんと目を丸くする。数秒流れていく沈黙は妙に気まずい。流石にカッコつけすぎたか。いや、踏み込みすぎただろうか、なんて笑顔の裏で冷や汗が滲み出てきたその時、ようやく凪沙がプッと吹き出してくれた。そして。 「──楽しみにしてる、及川の口説き文句」 くすくす笑いながら、実に楽しそうに凪沙は笑みを零す。黒い瞳がゆるりと細められ、ほんのりと上気した頬にドキリと心臓が軋んだ。あ、かわいいな、そんなストレートな感想が脳裏をよぎる。けれどそれを日本語で言うのは恥ずかしく、つい「It' so cute」と、自分でも知ってるような陳腐な英語が飛び出した。凪沙はその言葉に驚きながらも、恥ずかしそうに「No really」と滑らかな発音で返した。 再び流れる、気まずい時間。けれどすぐに、どちらからともなく教科書に手を伸ばし、ゆるゆるとテスト勉強を再開した。けれど、時折目が合うたびに、照れたようにはにかむ凪沙を見て、及川は初めて『隣のクラスの魔法使い』が自分の恋人なのだと自覚したのだった。 |