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 それから及川と凪沙の、少し変わった交流が始まった。

『テスト、大丈夫だった?』

『オー、アー……チョット、間違えた、カモ?』

『英語? 数学?』

『アー、数学!』

『私も得意じゃない。仲間だね!』

 テストが終わり、ぐったりした様子の及川が五組にやってきて、会話をする。けれど、それはこの国で育まれた言葉ではなく、遥か海の向こうの言語。流暢な英語に対して拙い英語が恥ずかしくなってくるが、恥を踏み越えることも練習の内だと彼女は言った。なので色々な物を飲み込んで、二人でテストの結果を英語で語った。

 凪沙はなるべくシンプルな英語で、心なしか聞き取りやすいようにゆっくりと、ハッキリと発音してくれる。なので、初心者の及川でも、ヒアリングはしやすかった。だが、自分の考えを英語に変換するのは、遥かに難しい。幼い頃の凪沙のように、ほぼ単語を口にするだけだった。だが、拙い英会話に、凪沙は決して咎めず、笑いもしない。さりとて授業らしい堅苦しさもなく、あくまでコミュニケーションに徹底している。その気遣いが、嬉しかった。だからテスト明けの疲れた脳みそでも、何とか言葉を紡ぐことができた。

『今日はもう帰る?』

『帰る──ラナイ! 練習、行く、お昼、あと!』

『おお、頑張れ! お昼一緒に食べる?』

『えっと、天城さん、が、ヨケレバ?』

『いいね! どっか食べに行く?』

『弁当、俺、ある!』

『いいなあ。私最近、サンドイッチばっかでさ』

『サンドイッチ、嫌い?』

『イギリス料理の中じゃ美味しい方だけど、流石に飽きた! てなわけで、久々に日本のパンが食べたいから、お昼買ってくる!』

 そう言って凪沙は立ち上がり、足早に教室から飛び出していく。彼女の前の席が空席なことをいいことに、及川はどかりと腰を下ろす。テスト明けでこれは中々しんどい。だがタイムリミットは来年──いや、早ければ半年後なのだ。そんな甘っちょろいことは言っていられない。長々と息を吐いて、及川は伸びをする。昼食はバレー部のチームメイトと食べ、そのまま提携大学の練習に向かうつもりだったが、ここは恋人優先とさせてもらおう。

「ってことで岩ちゃん、俺天城さんと食べてから合流するね〜」

「お、おお……」

 凪沙の斜め後ろの席にいる岩泉に声をかけると、ぼうっとした表情の彼が動揺気味に頷いた。こちらを見ていたので、てっきり話を聞いていると思っていたのだが。

「どうかしたの、岩ちゃん」

「いや──何やってんだ、と思って」

「練習だよ、練習。ひとまず英語だけでもと思って、天城さんに特訓付けてもらってんの。やっぱ留学──じゃなくて、ホームステイ? してるだけあって、上手いよねー」

 せめて日常会話ぐらいは滞りなくできるようになりたい。ただでさえアルゼンチンはスペイン語圏なのだ。個人的に通訳を雇えるほどの金銭的余裕はないのだから、せめて英語ぐらいは、と意気込む及川。そんな及川に、岩泉はフーンとつまらなさそうに鼻を鳴らした。

「え、なに?」

「……お前ら、ホントに付き合ってるんだな」

「いや、ええと、まあね?」

 改めてそう言われると、照れくさいというか何というか。ソワソワした気分でそう返すと、岩泉は厳しい表情でこう訊ねてきた。

「お前、どんな心変わりがあったんだよ」

 ──ああ、そうだ。岩泉には、凪沙に近付く理由を告げている。ただ海外のことを聞きたいからと追いかけ回していたのに、気付けば付き合っているなんて、そりゃあ不審に思われても仕方がない。及川が誰と付き合おうが文句は言わない幼馴染だが、人を騙すことを見逃すような男ではない。

「いや、あの、えーと……と、とにかく、色々あったの!」

「色々?」

「こう──なんていうのかな、魔法かけられたっていうか……!」

「何言ってんだ頭大丈夫かお前」

「辛辣!!」

 魔法にかけられたというか呪いをかけられそうになった、というべきか。一目惚れと嘘吐いて付き合ってますと言ったら脳天割られそうだ。なので必死に誤魔化していると、足取り軽い様子の凪沙が購買のパンを抱えて帰ってきた。

「ふふ、魔法──確かにね!」

 ふわり、と。まるで宙を舞うような足取りで、恋人の魔法使いはニコニコ笑みを浮かべながら意味深なセリフを舌に乗せる。まさか目の前のクラスメイトが魔法を使えるなんて夢にも思わないだろう、岩泉は実に不可解そうな顔で首を傾げる。

「色々あったのです、私たちも」

「ふーん?」

 柔らかな笑みを浮かべながら、敢えて語らない──庇っているのか、それとも恋人としての『秘密』にしたいのか──凪沙に、岩泉はようやく納得した様子で立ち上がる、そうしてコートを羽織って鞄を取る。

「じゃーな」

「あ、ああ──うん、また明日」

「またねー、岩ちゃんさん」

「その呼び方ヤメロっつの」

 ひらひら手を振る凪沙に、岩泉苦々しく笑みながら教室を去っていく。つい先日は話したこともないと言っていたのに──及川が言うなという話だが──、随分親しげな雰囲気である。

「(……ンン?)」

 長年セッターとして磨いてきた観察眼が、ピコンと何かを示す。だが、そう決めつけるのは流石に時期尚早か。一瞬にして広がって、そして静まっていく疑念に気付かぬまま、凪沙はメロンパンを手にニッと笑う。

「及川、行こ」

「あ、ああ──もう日本語でいいの?」

「休憩中はちゃんと休まないと」

 よかった、ホッと胸を撫で下ろす及川。これ以上やったら脳みそが干からびるところだったと零す及川に、凪沙はカラカラ笑う。

「及川、お弁当は?」

「あ、教室っ、取ってくる」

「どこで食べる?」

「屋上……は、この時期寒いよね」

「──フフン、及川。私を誰だと思ってるの?」

 ニィ、と笑みを浮かべる凪沙のブレザーの袖口には、見覚えのある長い杖。ああ、そうか。彼女たちに『不便』は縁のない言葉だったのか。そんな今更なことを考えながら、及川は立ち上がった。



***



 凪沙と共に、屋上へ向かう。屋上への扉を開ける前に「おまじない」と、つむじ辺りを杖でこつんと突かれた。そのおかげだろうか。十二月真っただ中だというのに、身体を吹き付ける寒風の温度を全く感じない。寧ろ、身体の芯からぽかぽかと暖かくなってくる。

「スゲー、ほんとに寒くない……」

 魔法がなくとも日向はじんわりと熱を帯びているが、流石にこの寒さで外で食事をする酔狂な生徒はいないらしい。屋上は人っ子一人いなかった。吹き抜ける風を浴びながら、不思議な感覚に包まれている及川を他所に、凪沙は空中に向かって杖を振っていた。

「何してんの?」

「人避けと耳塞ぎの魔法をかけてるの。これでこっちの話を盗み聞きされる心配はないし、誰かが此処に来ようとすると、突然用事を思い出すことになるようにね」

 これで開かれた密室の完成、というわけか。普段生徒で賑わっている屋上を二人で独占。なんて贅沢だろう。テスト期間なので部活もないし、ほとんどの生徒は帰宅するなり、食堂に入り浸るなり、自習室に閉じこもるなりするだろうが、やはり優越感を感じてしまう。

「魔法ってすご……」

「普段、こんなに外で魔法使うことはないんだけどね」

「じゃあなんで?」

「普段真面目にしてますから。こういう時ぐらいはいいかなって」

 屈託なく笑いながら、段差に腰を下ろしてメロンパンを広げる凪沙。及川もそれに倣い、凪沙の隣に座って膝の上に弁当を広げる。それを見た凪沙が、目を輝かせて弁当箱を覗き込んだ。

「弁当でっか!」

「こんなもんじゃない?」

「これ全部食べるの? 一回で?」

「そりゃあね」

「すご! 魔法みたい!」

 本物の魔法使いに『魔法みたい』と言われることの、なんと奇妙なことだろう。無邪気なその声にムズムズとしたものが込み上げてきて、及川はいてもたってもいられずにパッと手を合わせた。

「イタダキマス!」

「いただきまーす!」

 そうして、二人で昼食にありつく。テストや慣れぬ英会話で疲弊した身体に、母が丹精込めて作ってくれる弁当が染みる。がつがつと弁当をかき込む及川の横で、凪沙が「スゴイ……」と呟いた。

「岩ちゃんさんもだけど、そういうとこ見ると運動部って感じするよね」

「まあ身体資本だからね──っていうか、何その呼び方」

「及川のマネ。でも、そんな仲良くないから、一応さん付け」

 メロンパンをオレンジジュースで流し込む。自分とは全く違う食生活にオンナノコだななあ、なんて思いながら「へえ」と頷く。

「及川、岩ちゃんさんと幼馴染って聞いた」

「そうだよ」

「いいね、高校まで一緒って」

「天城さんも地元こっちでしょ? 小中同じ子いないの?」

「幼馴染とは中学までだったなー。高校はみんな違うとこ行ったし」

「スポーツ推薦でもないと一緒の高校って中々難しいかー」

 青葉城西は県内有数の進学校だ。寧ろ、小中一緒だという及川たちの方が珍しいのだ。いいなあ、なんて魔法使いは羨ましそうに零す。

「岩ちゃんさんね、最近すんごい話しかけてくれてね」

「な、なんて?」

「あんなやつでいいのか、よく考えた方がいい、って」

「岩ちゃんって俺のこと何だと思ってるんだろ」

 小中高を共にした幼馴染の名が泣く。そこまで信頼が無いのだろうか、とガックリ項垂れる及川。そりゃあ、多少は遊んでいた自覚はある。可愛い子に声をかけたりもしたし、女の子たちに黄色い声の声援を受けてヘラヘラしていたこともあった。ただ、だからって女の子を手酷く扱った覚えはないし、ましてや二股かけたりしたこともない。あくまで誠実に付き合い続けたつもりだ。まあ、バレーに重きを置く生活故に、悉くフラれたが。

 もしかしたら、及川に好意がないことを岩泉は見抜いているのかもしれない。ただ、及川側に好意がない子と付き合ったことが無い、というわけでもない。告白するよりされる方が多かったし、可愛いしいい子そうだし付き合うか、なんてことも一度や二度ではなかった。無論、及川なりに恋人になったその人を好きになろうと努めたし、岩泉はそんな拙い努力を知っていたはずだ。そんな及川に、岩泉はいつだって『どうせフラれる』と手厳しい一言を添え──実際その通りになったのだが──、それ以上とやかく言うことはなかったのだが。

「(……ンンン?)」

 予感が、ぼんやりとした確信に変わっていく。まさか、いやそんなはずは。ただ、彼らは同じクラスで、喋ったことはないと言っても、可能性がゼロとは言い切れない。でも。だが。

「天城さんさ」

「うん?」

「岩ちゃんとは、よく話すの?」

「んー、全然。及川と付き合いだしてちょっと話す程度。なんで?」

「や、別に。そんな呼び方してるし、仲良いのかなって」

「うーん、普通のクラスメイトって感じ」

 そう言いながら、凪沙はメロンパンの包み紙を丁寧に折り畳んでいる。いや、違う。何かを折っている。四角にして、三角にして、裏返して、細長く畳んで──細い指先は、あっという間にメロンパンの包み紙を鶴に変身させた。

「大丈夫だよ」

 そう言いながら、ふ、と手のひらの鶴に息を吹きかける凪沙。すると、折り鶴はまるで命を吹き込まれたかのように羽ばたき、かさかさと紙の擦れる音を立てながら、及川の周りをくるりくるりとはためき出した。


「及川がいいんだよって、私、ちゃんと言ったから」


 そう言って、ぱちん、と指を鳴らす。すると及川の目の前で羽ばたいていた折り鶴は、小さな花火のように弾けた。火花のような煌めきと共に、折り鶴だった何かは寒風に舞って、空へと流れていく。きれいだ。きらきらとした、おとぎ話のような、魔法。

「そ、そっか……」

 相変わらず、真っ直ぐな言葉。恥じらい一つ見せずに、きっぱり言い切る凪沙に気圧されながら、及川は再び込み上げてくるムズムズとしたものを飲み込むように、海苔弁当をかき込んだ。

 けれど、浮かんだ疑念は消えぬまま。

「(……岩ちゃん、ひょっとして天城さんのこと──)」

 確信は持てない。けれど、疑念が捨てられない。大事な幼馴染を思うと、どうしても隣で得意げな顔で笑う恋人を直視することができないでいた。

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