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 結局その日は、ほぼ自己紹介で会話は終わった。凪沙はこれから授業だから、と二時間ほどで解散と相成ったからだ。家送ってあげると言われたが、走って帰りたいのでありがたく気持ちだけもらって、凪沙の家を出る。凪沙の家はマンションだった。エントランスホールからは駅が見えたので、迷うことなく帰れそうだ。

 この二時間でどれぐらいお互いのことが分かっただろう。凪沙はレイブンクローという知恵を重んじる寮にいること、家族仲は良好なこと、紅茶とスコーンが好きなこと、スポーツは苦手なこと、誰かと付き合うのは初めてなこと、だから何をすればいいのかよく分からない、ということを話してくれた。

『つい勢いでオーケーしちゃったけど、付き合うって何すればいいの?』

『えーと……』

『及川は経験豊富と聞きました。ご教授お願いします』

 きらきらとした尊敬が籠った眼差しに、及川は終始苦笑い気味だった。確かに今までも色んな女の子と付き合ってきたし、可愛い子や綺麗な子は大好きだ。ただ、いざ付き合う相手に言われるのは、なんというか、こう、むず痒いものがある。好き合って付き合うわけではないとはいえ、恋人が過去に遊んでいたなんて、あまり気分良くないだろうに。

 あまり周りにいないタイプだと思いながら、及川は自己紹介がてらに語る。幼い頃から幼馴染とバレーを続けていること、購買の牛乳パンがお気に入りなこと、将来はバレーをするためにアルゼンチンに行きたいこと──そう話した時に、凪沙の目は興奮に瞬いた。

『アルゼンチン!? どうして!?』

『恩師みたいな人がいてさ、その人に色々学ぼうとしたら、来年アルゼンチンに帰るって話だったから』

『……だから、追いかけるんだ? 向こうで、バレーやるために』

『そ! おかげで急遽英語だけじゃなくてスペイン語まで勉強しなきゃなんなくなった、ってわけ。もー、これが大変でさー』

『それでも、行くんだね』

『うん。行く』

 ぱちぱちと、黒い目が瞬きをするその様が、よくできた人形のようだと思った。まさか出会って数時間でこんな込み入った話をするつもりはなかったのだが、凪沙は自分のことを語る以上に、及川に話をするようせがんだ。彼女がこれまた聞き上手というか、海外仕込みというか、リアクションが大きいのだ。それも不自然さはなく、ごくごく自然な反応。ここぞというところで息を呑んだり、両手で口を覆ったり、目を大きく見開いたりと、こちらの話を自然に引き出してしまう。

『やっぱり、及川はすごい』

『いやいや天城さんだって──』

『安心した。ちゃんと及川のこと、好きになれそう!』

 しかも要所要所で、こんな風にドストレートな物言いをして、こっちの度肝を抜いてくる。その隙を突いて『ってことはさ』と、話を展開させていく。おかげで、こっちが聞きたい話に持ち込むことができずに、お開きになった。

 話した感じ、イメージ通りはつらつとした女の子だった。物をはっきりと言う性格は、個人的には好感が持てる。自分が喋るよりも話を聞く方が好きなのか、こちらの話をニコニコ聞く姿は可愛いなと思った。魔法使いなんて高尚そうなイメージが嘘のように、どこにでもいる高校生だった。或いは、その正体が露見しないよう、そう振る舞っているのだろうか。何にしても、付き合う上で必要以上に身構える必要はないな、と及川は分析する。トータルして、ちょっと周囲と毛色は違うが、嫌いなタイプではない。いい出会いになればいい、なんて前向きに思いながら家に戻るのだった、が。

「あ、及川ゴメン、聞きたいことがあって」

「うおっ!?」

 家に帰り、ロードに行くべく部屋で着替えていた時のこと。バシッという大きな音と共に凪沙が現れたのだから、及川はシャツを頭に被ったまま腰を抜かすはめになった。

「便利ねそれ!?」

「ごめんごめん、急ぎ確認したくて」

「急ぎ?」

 そういえば連絡先を交換するのを忘れていた。スマホに手を伸ばす及川を見下ろしながら、凪沙は淡々と告げる。

「及川と付き合ってること、誰かにバレても大丈夫?」

 彼女は真顔でそんなことを言い出した。バレるも何も別に嘘吐いて付き合っているわけではないし──何一つ嘘がないとは言わないが──、魔法を使って聞きに来るほどの懸念事項ではないと思うのだが。及川はきょとんとしながら、ほぼ腹丸出しのまま凪沙を見上げる。

「バレるもなにも、俺ら付き合ってるでしょ。悪いことしてるでもないんだし、別に」

「それもそっか。ならいいや。ごめんそれだけ、じゃあまた明日!」

 よほど急いでいたのか、凪沙はそれだけ言うとこちらの言葉も待たず、またバシッと大きな音を立てて居なくなった。これからイギリスに戻るのだから彼女も彼女で忙しいのだろう。だが、あれは流石に心臓に悪い。明日会ったら、色々話をしなければ。聞きたいことは山ほどあるが、言いたいことも山ほどある。



***



「及川くん、好きです! 付き合ってください!」

 と、恋人とそんな話を本腰入れてする前に、告白されてしまった。色々タイミングが悪いな、と思いながら、顔を真っ赤にする女の子を見下ろす。

 同じクラスの子に話があると、体育館裏に呼び出された時、しまった、と内心呻いた。彼女がどうこうではない。寧ろ美人だし、スタイルがいい。なんならおっぱいもデカい。あまり喋ったことはないが、大人しくて優しい子だったと思う。凪沙と付き合っていなかったら、ちょっと揺れ動いていたかもしれない。けれど今の──否、これからの及川は違う。

「あのさ、俺──」

「わ、分かってる! 及川くん、海外行くって──でも、私、待ってるから──ううん、待っていたいの、だから──!」

 IH前に付き合っていた彼女にフラれ、そこからIH・春高向けて部活に集中していた及川は告白を全て断腸の思いで断っていた。女の子たちもそれは理解してくれているのか、頑張ってね、と応援してくれることが多かった。そして大会が終わった今、チャンスとばかりにいつかに断った告白が殺到した。それ自体は嬉しく思うし、部活仲間たちに自慢する程度には鼻高々であった。だが、その申し出を受けるわけにはいかない。何故なら及川はこれから、海外へ行くからだ。

 軽い気持ちで付き合って、年に何日会えるか分からない生活に付き合わせるのは、申し訳がない。及川にだって、それぐらいの分別はある。遠距離なんかフラれるの目に見えてるからな、なんて花巻の鋭いツッコミが影響がなかったとは言わないが、何にしても及川はこれから海を渡る。そんな生活に付き合わせたくないから、それを断り文句にしていた。彼女もそれが分かっているのだろう、『待っている』なんていじらしい言葉が出るのだろう。それ自体は口元が緩むぐらいには気を良くしてしまうが、残念ながらタイミングが悪い。

「違うんだ、俺──今、付き合ってる人が、いて」

「え!?」

 しまった、そこは誤算だった。驚く女の子を前にして、苦い表情で語りながら及川は内心舌打ちをした。海外に行くから、待たせるの悪いから、そんな理由で女の子たちの告白を断っていたのに、今更『付き合っている人がいる』は、流石に彼女たちに不誠実すぎる。まあ、凪沙とはあんな出会いがあったのだ。驚きのあまり、そこまで気が回らなかったのは及川の落ち度である。

「嘘、いつの間に──」

「うん。昨日、付き合うことになって、さ」

 気まずい。きっと彼女も、及川はフリーだと聞いて告白してくれたのだろう。申し訳がない。タイミングが前後していれば、及川はきっと凪沙に交際を申し込みはしなかっただろう。まあその場合、及川の記憶は凪沙に弄り倒され、何度も何度も追いかけっこを演じ続ける羽目になったのだろうが。すると目の前の女の子が、ハッとしたように顔を上げた。

「も、もしかして、それ──五組の、天城さん?」

「あ、あぁ、うん、そう」

 ここ一週間の及川の行動を鑑みれば、その相手を特定するのも難しくはないだろう。そういう理由ではないのだが、客観的に見れば『及川が凪沙に惚れて追いかけ回している』としか思えないだろう。なんと言い訳をしたらこの場が収まるだろうと、司令塔の名を欲しいがままにした男は必死に脳みそをぶん回していたその時、泣きそうな顔の女の子が見るからに無理して笑みを浮かべた。

「そっか、天城さんなら──そうだよね、及川くんの隣にいられるもんね! 可愛いし、明るいし、海外とかよく行ってるみたいだし──お、お似合いだと思う!」

「あ、あ──うん」

 お幸せにね、なんて残して涙をこらえて走り去る女の子を、呼び飛べる術も資格もない及川は一人寒空を見上げる。凪沙と付き合うに当たって数か月先のことを、及川は何一つ考えていなかった。というか、それどころの話じゃなかった。何が起こっているのか把握するのでいっぱいいっぱい、とても未来のことまで考えられるような状況じゃなかったからだ。

 ──改めて、思う。これから先、凪沙とどこまで付き合いが続くのか、と。どこまで続くのか、続けたいのかさえ、分からない。だけど、天城凪沙に限っては、及川が数多の女の子に提示していた『付き合えない理由』がない。アルゼンチンと日本の時差は十二時間。往復何十万もかかるし、また、何十時間もかかる。待っている、と先ほどの子は言っていたが、やはり国内の遠距離恋愛とは訳が違う。互いに負担にならないわけがない。一方で凪沙は東京の大学に進学すると言っていたが、その実、イギリスから日本まで秒で行き来する魔法使いである。

 彼女なら、負担にならずに付き合い続けられるのだろうか、と。

「(──って、失礼すぎデショ、俺)」

 負担にならないから付き合おうなんて、それこそ不誠実すぎる。そもそも、お互いのことをろくに知らないままに始まった付き合いなのだ。数か月先より、明日だ。そんなことを考えながら、一人寒風に身を震わせながら教室へ戻っていく。ただ、数か月先のことを考えなくて済むのは確かに気は楽だと、そんな風にも考えてしまったのだ。

 が、暢気なことを考えている暇はなく。及川が凪沙と付き合い始めたという噂は瞬く間に広まり、スマホには元カノ仲のいい女の子部活仲間ありとあらゆる人たちからのメッセージが殺到した。海外行くから断ってたんじゃないの、ずるいあたしもまだ好きなのに、おめでとうホントに付き合えたんだな、あんたたちそんな仲良かったっけ、天城さん可哀想、内容も選り取り見取りである。こんな大事になるとは、なんて自分の名の広さに加えて、凪沙の有名さにも舌を巻いた。やはり校内指折りの才女だけあって、比較的遊んでいた及川とくっついたのは悪い意味で注目を集めてしまったらしい。人目を気にする彼女には、少し申し訳ないことをしたかもしれない。

「及川ー、いるー?」

 と、思っていたのは、凪沙が放課後堂々と六組に乗り込んで来るまでだった。今日一日の話題を掻っ攫った張本人の登場に、まだほとんどのクラスメイトが残っている教室はざわりと波が広がった。だが、凪沙は全く気にした様子はなく、ツカツカと及川の席にやってくる。

「え、えーと、どうかした?」

 昨日の話から、及川と付き合っていることを秘密するつもりはなさそうだったから、言っても大丈夫だろうとは思っていたが、まさかこんな大騒ぎになるとは。申し訳なさから視線を宙に漂わせる及川を前に、凪沙はケロリとした顔で告げる。

「連絡先」

「え?」

「聞いてなかったから」

 そう言いながら、彼女は携帯を出す。まだガラケーらしく、折りたたまれた細長いそれが少し懐かしく見えた。戸惑いながら及川は凪沙とメールアドレスや電話番号を交換する。その間、四方八方から痛いほど視線が突き刺さるが、凪沙は眉一つ動かさない。

「よし、できた」

「あ、うん。ありがと」

「ううん。私、これから授業だから、それじゃ」

「あ、ああ、頑張って」

「及川もね!」

 キビキビと告げて凪沙は足早に踵を返す。向こうの授業がどれだけ長いか分からないが、もう一日丸っと授業を受けなければならないと思うと、心底ぞっとした。魔法使い云々以前に、その学習意欲は本当に尊敬する。朝から授業なのだろうか、急ぎ足で去っていく新しい恋人をぼんやりと見送っていると、彼女の腕をクラスメイトの女の子が掴んだ。

「あ、あの、天城さんっ!」

「ん?」

 急いでいる様子だが、呼び止められた凪沙は嫌な顔一つせずに笑顔を浮かべる。あ、やばいかも、なんて脳内でアラートが鳴り響く。凪沙の腕を掴んでいるあの子は、今日及川に告白してきた子だ。

「ほ、ほんとなの? あの──及川くんと、付き合ってるって!」

 凪沙へ注がれていた視線が、全て引っくり返って及川に向かう。ギョッとして肩を震わす及川は、こんな場所で修羅場は勘弁と立ち上がったその時、凪沙はケロッとした顔で頷いた。

「うん、そうだよ」

「え──」

「付き合ってるよ、及川と」

 恥も躊躇いもなく、それの何が問題なのですか、とばかりに真顔で言い切る凪沙に、好奇心に沸き立っていたクラスメイトたちは『おおっ』とどよめいた。顔色一つ変えずにそれを言い切る凪沙は、中々肝が据わっていると見える。当事者なのにこっちが恥ずかしくなってくるほど清々しく言い切った凪沙は「ごめんこれから塾が」なんて言いながら腕を振り切り、慌ただしく教室から飛び出していく。

「天城さんすげー……」

「ああいう感じの子だったんだ」

「いいなー、幸せそうで」

「及川くんとどういう繋がりなんだろ」

「さあ?」

 台風の過ぎ去った後に、クラスメイトたちはひそひそと密かに誕生した恋人たちにあれこれ好き勝手話し始める。告白してくれた子はポカンとしたまま立ち尽くしていて、気まずいと及川は急ぎ足で教室を出て、体育館へ向かう。

 引退した身だが、及川のバレーは終わらない。時に後輩たちを揉み、時に大学生たちに混じってでも、練習を続けなければならない。どうしようもない、タイミングが悪かったのだと言い聞かせながら廊下を歩いていた時、ポケットの中のスマホが震えた。メッセージアプリの普及で使われなくなったメールが表示するのは、恋人の魔法使いの名前。

『あの子、及川のこと好きだったっぽいけど、なんかあった?
 揉めると面倒だから、『元気が出る呪文』かけて誤魔化しといた。
 私のせいで揉めそうなら後で作戦会議ね!

 あ、でもホグワーツは電子機器一切繋がらなくなるから、
 今から十二時間ぐらいはメール見れないかも。ごめんね!』

 ハキハキとした声が聞こえてきそうな、いかにも彼女らしい文章に、ふ、と自然と笑みが込み上げた。彼女らしい、ストレートな考え、そしてスマートな対応。『元気が出る呪文』が何か分からないが、文字通りの魔法で傷付いた彼女の心を少しでも埋めてもらえたなら、これ以上ないほどに助かる。『ありがとう、そっちも授業頑張れ』と、久々に起動したメール画面に戸惑いながら送信する。そうしてスマホをポケットに突っ込み、再び及川は歩き出す。

 奇妙な始まりは、必ずしも十全とは言い難い。恋愛にはトラブルはつきものである。それでも、躓きながらも始まった凪沙との交流が、互いにとってよきものであればいいと、及川は柄にもなくそんなことを思ったのだった。

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