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「うーん、そうなると色々時間が必要だよね」

「時間……?」

「うん、話し合う時間」

 数分前まで考えてもなかったような関係になった及川と凪沙。勢い任せのまま押し通した及川に凪沙は何をどう受け止めているのか全く読めず、一人でうんうんと唸っている。

「でも私これから、学校行かないとなんだよね」

「学校?」

「うん、知ってるでしょ。ホグワーツ」

「マ、マジで……?」

 さらり、と彼女は児童書や映画の中でしか聞かないその名を口にする。ホグワーツ。さほど読書をしない及川だって知っている。映画を全部見たわけではないが、流石に最初の何作かはテレビでやっていたのを見た。あれが、本当に実在するというのか。いやでも、及川はこの目で『魔法』を見た。あれが夢でないのなら、現実と受け止めるしかなくて。

「ほ、ほんとにあるんだ、『ハリポタ』……」

「ああ、うん。でもそれ自体は実際の事件を元にしたフィクションなんだよね。でも、こうしてマグルに正体ばれた時、説明が省けて便利になったってお母さんも言ってたなあ」

 フィクションはフィクションなのか。頭がこんがらがってきそうだ。とにかく、あの児童書や映画はフィクションではあるが、魔法や魔法学校は実在する、ということか。そして彼女は、今からそのホグワーツに行かなければならない、と。

「今から、イギリス、に?」

「うん。家の暖炉から秒で行けるの。向こうとは九時間時差があるから、今から行くと朝の七時前ってわけ。そっから授業に出て、十八時に授業終わったら、またこっちに戻ってきて、って感じ」

「ハードワーク過ぎない……!?」

「それぐらいやんないと、ホグワーツと日本の女子高生は兼業できなくてね」

「なんでそんなことやってんの!?」

「別に。両方、やってみたかったから」

 彼女は何でもないように、さらりと告げる。魔法で日本とイギリスを秒で行き来できるのなら、時差を利用してそんな生活も可能だろうが、その計算だと一日三時間ほどしか眠れないのではないか。及川だってアスリートの道を志すのだ、遊んで暮らせるとは思っていないが、実質一日に二回学校で授業を受けるようなものだ。それをただ『やってみたかった』でやり通すのだから、とんでもない気骨だ。

「だからあんまり時間なくてさ……うーんと、明日の午後なら、授業が午後の一コマだけだからわりと余裕あるんだけど、詳しい話は明日でもいい?」

「え、あ──も、勿論」

「よかった。今日の授業、朝一で入ってるからすぐ戻らないといけなくて。じゃあまたね、ダーリン。また明日」

 真面目な顔でそう言うなり、凪沙は杖を振る。すると、バシッという大きな音と共に、彼女の姿は影も形もなくなった。種も仕掛けもなく消える凪沙に、とんでもないことになったな、と及川は再び腰を抜かした。まさかちょっと話を聞きたいと思っていた女の子が、魔女だったなんて。その魔女と、付き合うことになるなんて。

 ビルの隙間から見える秋空を仰ぐ。今頃彼女は九時間前の、イギリスに。



***



 翌日、今度は放課後に凪沙の方から及川の元にやってきた。

「及川ー」

「あ、ああ──うん!」

 教室は一瞬ざわついた。及川が此処一週間、凪沙に気が狂った素振りを見せていたのだから、当の本人が現れたらそりゃあ騒ぎにもなる。けれど凪沙はそんな喧騒耳に入っていないかのように、及川が教室から出るのを待つ。

「今日時間ある?」

「平気。今日はオフの日だし」

「オッケー。じゃあ、行こ」

 きゅ、と上履きがリネン床を蹴り、凪沙が踵を返す。クラスのほとんどが凪沙たちを見ていたというのに、表情一つ変えず、慌てない。なんというか、クールだ。見た目はいかにも気弱な可愛い女の子なのに。やっぱり、海外で色々鍛えられているのだろうか。そういう話が聞ければいいな、そう思いながら凪沙の──いや、新しい恋人の後を追う。

 凪沙は靴を履き替えるや否や、校門ではなく人の少ない焼却炉の方へと向かう。戸惑いがちに後を追う及川は、彼女が何を考えてるのか分かったような気がして。

「及川、腕貸して」

 そう言いながら凪沙は及川の腕をぎゅっと握る。右手には、あの魔法の杖。そして覚悟もできぬまま、彼女が杖を振ると。

 視界が、ねじれた。

「うおっ!?」

 瞬く間に、土だったはずの地面は大理石調の床になり、晴天と木々は壁と玄関に早変わり。突如として、及川はどこかの家の玄関に立っていた。綺麗な家だ。湖が描かれた絵画やプリザーブドフラワーが飾られていて、大小様々な靴が整然と並べられている。

「ごめんね。私の話は、そこらのファミレスじゃできないから」

「じゃあ、ここ──」

「そ、私の家。お父さんは仕事だし、お母さんは多分、今はイギリスかな」

「……お、お母さんも、魔法使い?」

「うん。私と同じ、日本育ちのホグワーツ出身でね。普通、日本人は日本の魔法学校行くんだけど、お婆ちゃんがイギリス人でね。その縁なのかなー」

「え、じゃあ天城さんって、クォーターってやつ?」

「そうそう」

 上がって、と言われたので靴を脱ぎながら凪沙を見上げる。黒髪に黒目、顔立ちもハッキリしているが、イギリス人の血が流れているとは思えない。というか、だ。

「日本にもあるんだ、魔法学校……」

「そりゃあ、世界各地にありますとも」

「各大陸に、みたいな?」

「そうそう。イギリス、北欧、フランス、日本、アフリカ、ブラジル、アメリカ──だったかな」

「へえ、ブラジルにもあるんだ」

「あるよ。確か──カステロブルーシューだったかな」

「……魔法使いの城?」

 ニュアンス的にはそんなところだろうか。考え込みながら靴を揃えて立ち上がる及川に、凪沙が驚いたように目を見開いた。

「及川、ポルトガル語分かんの?」

「あー……勉強してるのは英語とスペイン語なんだけど、まあ……」

「え、すご」

「魔法使いに褒められるとは思わなかったな」

「万能じゃないよ、私たちだって」

 そうしてごく自然に案内されたのは、恐らく凪沙の部屋だろう。流石の及川も背筋が伸びる。白を基調とした部屋は、一見普通の女の子の部屋だ。ベッドに本棚に勉強机、それからクローゼット。どこを見ても魔女のいる部屋には見えない。物珍しくキョロキョロする及川に、凪沙はくすりと笑む。

「残念ながら、魔法に関するものは置いてないよ」

「そーなの?」

「この部屋、日本の友達呼んだりするからね。そういうのはちゃーんと隔離してますよ」

 お茶持ってくる、と去っていく凪沙は部屋から去っていく。というか、当たり前のように部屋に上げてきた凪沙に、今更ながら驚く。さっきの話が本当なら家には二人きりのようだし、いくら『付き合っている』といっても、気を許し過ぎではないだろうか。海外ではそれぐらい進んでいるのだろうか。いや、人に聞かれたら困る話をするから他に方法がないのかもしれないが──。

「お待たせー」

「え、早くない?」

 湯気を吹き出す紅茶のポットをお盆に乗せて、凪沙が帰ってきた。華やかな皿にはスコーンやジャムが乗っている。まだキッチンの方に行ってから、一分と経っていない。驚く及川に、凪沙はフフンと鼻を鳴らす。

「魔法使いだよ。お茶なんか十秒で沸かせるって」

「あ、そっか。便利だね」

「不便なことも多いけどね。……さて、と」

 ローテーブルにティーセットを広げながら、凪沙はクッションにかけるよう勧めてくる。そう、ここからが、本番。テーブルを挟んで向かい合うように座る恋人は、きらりと目を光らせた。

「お互い、あんま話したことないよね。まずは自己紹介。私は天城凪沙。青葉城西高校三年五組在籍。日本国籍だけど、祖母の縁あってイギリスにあるホグワーツ魔法魔術学校の七年生でもあります」

「あ、ど、ども──及川徹です。バレー部主将、やってマシタ」

 まるでお見合いのような名乗りに、及川も釣られるように頭を下げた。けれど凪沙は「知ってるよ」とニコりと微笑んだ。

「及川、有名人だもん」

「それ言ったら、天城さんも、じゃない?」

「がり勉だから?」

「言い方! でも実際、もう受験終わってんでしょ?」

「うん。AO通ったから、春から東京の大学です」

 AO入試、よほど頭がよくて事前の論文だのテストだのの評価も高くて面接の受け答えもよくなければ受からない。ましてや彼女は国立大学に進学予定と聞いている。競争率も高いだろうに、易々と突破した彼女は青葉城西でもトップクラスの才女だ。

「ホグワーツ──その、魔法学校の方は?」

「今年最終学年だから、七月卒業の予定」

「あ、そっか。向こうは学年の区切りが違うんだっけ」

「そうそう。だから夏場はほんとテスト大変でさー」

「でもあっちでもこっちでも、成績はトップクラス、と」

「どうだろ。ホグワーツって上級生になると、大学みたいに自分で好きにカリキュラム組めるから……主席とは言われてるけど、全教科履修してるわけじゃないし」

「主席って……やっぱトップなんじゃん……」

 まあ、日本でもイギリスでも学生生活を謳歌するほどだ。それぐらい学習意欲がなければそんな生活をしよう、なんて思わないだろう。学習はほどほどの及川にとってみれば、とんでもなく崇高な存在に見える。まあねー、なんて照れくさそうに笑う凪沙は、どこからどう見ても普通の女の子だが。

「でも、及川だってすごいじゃん。バレー、上手いんでしょ」

「あー……まあ、それなりに?」

「私、スポーツはあんまりだからさ、すごいなー、って」

「青葉城西の試合、見たことない?」

「うん、ごめんね」

 ケロリとした表情で語る凪沙。昨日の話を聞くに、彼女の一日に三時間しか眠っていない計算になる。特殊な生活を送る犠牲に、彼女の余暇はほとんどないのだろう。

「でも、これからも見れるよね?」

「え?」

「及川、進学しないで海外行くって聞いたけど。バレー、続けるためじゃないの?」

 凪沙は真面目な顔で、そんなことを訊ねる。それが当たり前なのだと信じた眼差しに、どう言えばいいのか分からないが、心臓をぎゅっと掴まれたような気分になる。

「……天城さんは、反対しないんだ」

「なんで? 違う環境でも自分のやりたいことやるって、尊敬する」

「天城さんほどじゃないって」

「全然違うよ。イギリスは英語通じるし、母親もお婆ちゃんもホグワーツだったし、親族が魔法使いってのも、自分もそうだってことも知ってたし、環境的にはそんな変わってない」

 でも、と彼女はどこか誇らしげに目を輝かせる。

「スペイン語勉強してるってことは、英語圏じゃないとこ行くんでしょ」

「あ、ああ──まあ」

「しかもスポーツで行くってことは、それを仕事にするってことだよね?」

「ま、まあ──そうなる、つもりだけど……」

「私はあくまで学生。実力を示すとか、成果を出すとか、そんなことしなくても私は『学生』でいられる。でも、及川は違う。ほんと、すごいと思う」

 ティーカップに口を付けて、凪沙は、ほう、と溜息をつく。レモンのような爽やかな香りが、部屋にじんわりと広がっていく。


「──尊敬できる人と付き合えて、嬉しいよ」


 きらりと光る黒い目に射抜かれ、ドクン、と心臓が大きく脈打った。及川と凪沙では、戦っているフィールドが違う。どちらがすごいとか、比べるものではない。それでも、彼女は魔法使い。人の記憶を操り、秒でお茶を淹れ、瞬間移動する。そんなこと、及川にはできない。それどころか、地球上の大半の人間ができない。だから、すごい──どこかそんな風に、思っていた。

 けれど、目の前にいる少女は、きっと及川のようにバレーはできない。プライド一つで海を渡る選択なんて、しないだろう。そうだ、この部屋にいるのは同い年の高校生。十八歳の、少年少女。ただ少し、周りの人と違うだけの。そんな彼女に、『尊敬する』と言われた。凪沙とはろくに話したことはないけれど、背筋がぶるりと震えるほどに嬉しかった。

「さて、これからなのですが」

「ア、ハイ」

 そんな空気を、当の本人が打ち崩す。正座のまま姿勢を正す及川に、凪沙はくすりと笑みを零してから、軽く頭を下げた。

「私のことが魔法使いってのは、秘密でお願いします」

「あ、ああ──それは、まあ」

 やはり魔法使い的には、一般人にバレたくはないらしい。映画でもそんな話をしていたような、薄っすらとした記憶を呼び起こす。真面目な顔で頼み込む凪沙に、及川は曖昧に頷く。秘密と言われれば、それを守らない理由はない。

「……因みに、バレたらどうなる?」

「んー、記憶弄るだけ。手間だし危ないから、あんまやりたくないんだよね」

 さらりと告げられる一言に、違う意味で背筋が震えた。手間はともかく『危ない』ってどういうことだろう。どのぐらい、危ないのだろう。だが、魔女が敢えてこう告げるのだから、わざわざリスクを冒してまで約束を破る必要はない。及川はコクコクと名付いた。

「俺にはバレてもいいの?」

「法律上は平気」

「(法に触れる触れないの問題なんだ……)」

「付き合う上で隠し通すの難しいね、私みたいな生活してると特に。普通は結婚する前とか、なんなら結婚後にバラすんだけどね。でも、この人なら大丈夫かなーって」

「なんで?」

「スポーツ一本で海外行くって人が、悪い人なわけないし」

 ぴしゃりと言い放つ凪沙。想像を超える信頼に、ただ戸惑う。ささやかな嘘が横たわっているだけに、その純粋な思いが身に刺さる。一目惚れは嘘だと言った方がよかっただろうか──というか、そもそも、だが。

「あ、あのさ」

「うん?」

「天城さん、なんで付き合ってくれたの?」

 そもそもの話、及川の記憶は凪沙の魔法を見た時点で奪われていたはず。話を聞くにかなり忙しい生活みたいだし、こうして話している感じ『実は好きだったの』なんて感情は感じ取れない。凪沙にとって何がメリットで、及川の提案を呑んだのか。不思議に思って訊ねると、ああ、と彼女は何でもないように呟いた。

「彼氏、欲しかったの」

「カレシホシカッタ」

 思わず、復唱してしまった。意外にも、結構俗な理由だった。一日で異国を往復してまで魔法使いと女子高生を両立する才女とは思えない。けれど、足を崩しながら、天井を仰ぐ凪沙は、どこまでもあっけらかんとしている。

「いやね、五年まで九時から十八時まで授業ビッシリでさ、遊ぶ時間全然取れなかったの。六年になってちょっとカリキュラムが変わったから、だいぶ時間に余裕できたわけ。なのに気付けばみんな彼氏がいるとか、部活忙しいとか、受験勉強でそれどころじゃないとか、みんな遊んでくれなくて」

「ああ……それで彼氏欲しかった、と」

「そそそ。大学入試はパスしたし、ホグワーツの方は今年N.E.W.T──Nastily Exhausting Wizarding Test[めちゃめちゃ疲れる魔法試験]ってのがあるけど、まあ余裕でいけるだろうし、だから高校最後に、遊んでみたかったんだよね」

 喋れば喋るだけ、彼女は普通の女の子だった。そうだ、ただちょっと目指す先が、好奇心が、プライドがちょっと人並外れているだけ。及川も凪沙も、やっぱりただの高校生だ。ぶっ、と吹き出す及川に、凪沙はきょとんと目を丸くする。

「どうかした?」

「いや──魔法使いも、彼氏欲しいと考えるんだなって」

「まあ、根は同じ人間ですし」

「そりゃそうだ! でも、天城さんならこっちでも向こうでも彼氏の一人や二人出来そうだったけど、そういう人いなかったんだ?」

「いないいない。こっちじゃほとんどがり勉で通ってるし──ホグワーツじゃ、私なんか全然モテないよ。ほら、私チビで童顔じゃん、好きな人に告白しても『幼女趣味じゃないから』とか言われるぐらいだし」

「そ、そんな言われる!? ひどいな、そいつ!」

「でしょでしょ」

 確かに凪沙は小柄だし、大人っぽいというよりは愛嬌のある顔をしている。西洋人は東洋人に比べて大人びて見えるというが、幼女はひどすぎる。見る目ないねと及川が笑えば、知ってると凪沙は舌を突きだした。

「それがオーケーした理由。不純かもだけど、私、及川のこと好きになってみたいって思えた。頑張るから、これからよろしくね」

 ニッ、と頬を赤らめたまま歯を見せてはにかむ凪沙に、きゅんとする。やっぱり、普通に可愛い。よかった、嘘から始まったスタートでも、何とか上手くやっていけそうだ。ひょっとしたら、嘘から出た実になるかもしれない、なんて思った。

 ふと、とある可能性が脳裏をよぎる。

「あー……因みになんだけど」

「なに?」

「もしあの時俺が告白してなかったら……どうなってたの?」

「危険承知でバシッと記憶消してたね」

 ──及川は凪沙にバレないよう決意する。これが嘘だったなんて、墓まで持っていこう、と。

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