「瑠夏……!」 「へっ、そう簡単にくたばってやるもんかよ!」 凪沙の感極まった声に、瑠夏はニタリと笑みを浮かべながら、亜門を背後から組み伏せている。よかった、見た目は血だらけで、服もボロボロではあるが、どうやら無事らしい。思わず胸を撫で下ろす御幸と、涙目の凪沙は手を取り合う。だが、凪沙は電動髭剃りのような物を握り締めていて。 「何だ、これ。髭剃り──じゃねえよな……」 「え、えーと、ちょっと電気がビリッと流れるだけの髭剃りよ!」 「コイツ……!」 凪沙は慌てて背中に隠して誤魔化しているが、どう見てもスタンガンである。御幸の無茶に、凪沙は最後の手段を引っ張り出したのだろう。あと一歩瑠夏の登場が遅かったらどうなっていたか。悪態をつく御幸を他所に、ただ一人亜門だけが驚きに目を見開いた。 「馬鹿、な……! キサマは確かに、息の根を止めた、はず……!」 「ツメが甘いんだよ、素人上がりめ。暗殺者のくせに、ターゲットの脈も取らずに勝ち逃げしやがって。おかげで、ちょいと昼寝しただけでこの通りよ」 と言いつつ、腹からの出血が止まっているわけではないようだが、瑠夏はどこまでも強がる。頑丈過ぎる。まさに『鉄人』。だがおかげで助かった。ほっと肩の力が抜けていく御幸に、瑠夏は何故か舌打ちをした。 「……ま、誰かさんの雑な交渉のおかげで、ゆっくり昼寝できたんだけどな」 悔しそうな表情に、御幸の抵抗は完全に無駄ではなかったことを悟る。最終的には武力に頼ることになったが、それでも御幸だってこの戦いの一欠けらでも担うことができたらしい。その事実が、御幸の胸の中できらりと煌めいた。まるで、試合に勝った時のような高揚感──ああ、そうだ。これは勝利だ。価値は大きく違えど、これもまた勝利に他ならない。勝ったんだ。御幸たちはこの戦いに、真っ向から挑んで、突破したのだ。 っし、と拳を握り締める。みんなボロボロだが、生きている。無事だ。ようやく帰れるのだ。御幸一也の日常に。そして、天城凪沙と共に──。 「っ、そうだ、天城! 親父さん!」 「……っ」 しまった、勝利の余韻に浸っている場合じゃない。ハッと目を見開いて天城辰夫──彼女の父親を見る。男は一人、血の海で沈んでいるだけ。ぴくりとも動かないその男に、凪沙も息を呑んで手を伸ばすも、躊躇ったように腕を下ろしてしまう。 躊躇する気持ちが分からないわけではない。黒幕だと思っていた父親の所業は、全て娘を思ってのお膳立てだった。けれど、その所業が許されるものかと問われれば、百人が百人首を振るだろう。ましてや、その被害を一番に被った御幸の前で瀕死の父親に駆け寄るなど、できやしないのだろう。青ざめた顔を見て全てを読み取った御幸は、下ろされた手を握り締めて、辰夫の元へ引っ張っていく。 「ちょ、ちょっ──」 「ずっと探してたんだろ! 今行かないでどうすんだよ!」 弱い抵抗を振り切り、御幸は躊躇いなく血の海に踏み込む。ぱしゃ、と血だまりを踏みしめた音と共に、咽かえるほどの血の臭いが立ち込めた。そしてその血だまりの中心に、顔から地面に崩れ落ちる初老の男が一人。すでに虫の息で、か細い呼吸で薄い胸は辛うじて上下しているだけで──。 「お、とう、さん……」 その姿に、堪えきれない思いが声と共に零れる。ばしゃん、と血の海に膝をついて、愛する父親を抱きかかえる凪沙。全く、手のかかる女である。こうまで背中を押さなければ、父の名を呼ぶことすらできないなんて。 けれどその間も、どくどくと辰夫の薄い身体から血が流れていく。 「と、とにかく、早く病院に──」 「いい。……どうせ、もう持たねえよ」 顔を上げる凪沙を制するように、強い言葉が遮った。血だらけの手をゆっくりと持ち上げて、凪沙の頬に手を伸ばす辰夫。 「それより、顔、見せてくれ……最期だから、よ……」 素人目にも明らかだ。もう助からない。辰夫自身もそれが分かっているのだろう。その目に娘の姿を焼き付けんと、重たい瞼をやっとの思いで押し上げている。 「ああ……大きくなったなあ……それから、きれいに、なった」 「……っ!」 「かあさんの若い頃に、よく似てる……」 懐かしむように。或いは、慈しむように。十年ぶりに顔を合わせた娘を見上げて、辰夫は緩やかに微笑んだ。ああ、その優しい声が答えだ。彼がどれだけ、凪沙を愛しているか痛いほど伝わる。そんな父の姿に、凪沙は静かに、じわり、と涙を浮かべる。 「どうしてよ──どうしてこんなことっ!! 何で今更、そんな──父親みたいなこと言うのよ……!! 私のこと、捨てていったくせに!!」 飛び出したのは、愛ゆえの恨み、叫び。中学生の娘一人、ヤクザも入り浸るような家に置き去りにされて、その強い心に深々と傷がついたのは言うまでもない。辰夫が本当に凪沙を愛し、その手柄を譲る気だったとしても、その事実だけは揺るぎない。一体何の目的でそんなことを──しかも、十年もの間、行方をくらませていたのだろう。 「……じゃ、どうすりゃあよかった、んだ、よ」 そんな疑問を前に、辰夫は観念したようにそんな言葉を漏らした。目を見開く凪沙を見上げながら、天城辰夫は実に父親らしい穏やかな笑みを浮かべてみせた。 「娘にラブホのゴミ漁らせるようなクソ親父でも、愛してくれるんだぞ──こうでもしなきゃ、愛想尽かせてくれねえ──だろ?」 ああ、なんと寂しい愛だろうか。確かに、凪沙の父親への思いは、一般的な家族愛とは乖離している。それには同意する。故にこそ、こんな荒療治でなければ彼女は父親と戦うなんて選択はしなかっただろう。けれど、それでも。 「なによ、それ……っ、私は、父さんがいれば、それで、よかったのに……!」 そうだ。どんな環境だったとしても、どんな不遇だったとしても、凪沙はそんな生活で満足していたのだ。愛していたのだ。なのに、そんな思いを無視してまで、男は娘の元を去った。 「貧乏でもいい。仕事が大変でもいい。父さんと一緒に暮らせるだけで、私は幸せだったのに……!! なのに! なんでよっ!! 私の幸せを、勝手に決めてまでやりたかったことが、これなのっ!?」 「は、は──これ、だよ……いつまでも、親離れ、させて──やれねえ」 親離れ──そうか、凪沙はまだ巣立ちができていないのか。ではこの茶番が、彼女にとっての通過儀礼だったのだろうか。こんな、あらゆる人々を巻き込んで、暴力と、血と、死が渦巻くこんな事件を、よりによって巣立ちの儀にしたのか。 「俺を恨んでくれりゃあ、それでよかったんだよ……それでお前の手で死ねれば……なのに、ハァ……玲の奴……最後の最後で、やってくれるぜ──やっぱ、計算できねえ手駒は使うべきじゃ──ごほっ、げほ、ぐあっ!」 「父さんっ!!」 ごぼ、と口元から血の泡を吹く辰夫に、凪沙は涙を零しながら、スーツを切り裂いて腹部の止血をするも、もはやその程度で押し寄せる死の波は塞き止められない。もういい、とばかりに首を振る辰夫は、凪沙の涙を掬い、それからぼんやりとした視線を御幸に寄越す。 「お前にも──悪いこと、した……」 「……謝罪なら、地獄にいる監督相手にしてくれよ」 「は、は……全く、だ──なあ、悪いことついでに、もう一個、頼みがある、んだ……」 そう言って御幸に向かって弱弱しく手を伸ばすので、御幸もまた血だまりにしゃがみ込んで、迷いながらもその手を取る。茶番劇の絵を書き、実の娘すら殴り飛ばしたはずの拳は、か細く、御幸が強く握りしめれば折れてしまいそうだった。 「この子を──頼む」 「……なに?」 一瞬、何を頼まれたのか分からなかった。けれど、瀕死とは思えないほど握った手を強く握り返されて、気付いた。信じられない。この男、まさか──。 「強い子だが……この通り、ちょいとばかし……人を見る目が、ねえ……」 「アンタ、まさか──」 「御幸さんに育てられた、んだ……きっと、いい子なんだろう……稼ぎもいい……見かけだって、親父さんに似て、男前だ……お前さんになら、この子を、任せられる……」 それに、と濁ったビー玉のような瞳に、初めて辰夫に怒りすら抱いた。 「──お前さんだって、この子を悪しからず思ってるだろう?」 ああ、そうか。ようやく分かった。それすら計算済みだったのだ。当然、この事件は被害者は御幸一也である必要はあっただろう。だが本人も言っていたように、御幸一也以外にも該当者はいたはずだ。その中で御幸を選んだ理由。強く、けれど同時に脆い愛娘が父親を失った後、心に傷を負った彼女を一体誰が支えてくれるだろう。娘のことはお見通しだったのだろうか。辰夫はそれすらも、保険に織り込んだ。 数多の危険な事件を乗り越え、二人の男女が徐々に信頼を深めていく。吊り橋効果も多少なりともあっただろうが、なるほど、シンプル故にハマりやすいシナリオである。茶番劇なんてとんでもない、天城辰夫が描いていたのは、恋愛ドラマでもあったわけか。なるほど、わざわざ顔見知りの御幸の父親に近付いたのは、それが理由だったのか。これで全てが納得いった。 納得できないのは、全てが計算ずくだったこと。そしてまんまと、御幸と凪沙は惹かれ合った。第三者に仕組まれているなんて、気付かぬままに──流石の御幸も、それには我慢ならなかった。 「そうかよ──全部計算通りってわけか。そうやって台本通りに俺たちを踊らせて、満足かよ!!」 彼女に惹かれ、愛したのは自分の意志だ。断じて、誰かのためでも、他人の思惑通りでもない。なのに、それすら仕組まれていたと言われてしまったら、それは本当の愛情と言えるのか。凪沙を愛している。幸せになって欲しいと心から思う。けれど、そうなるよう仕向けられていたのなら──思いは本物であっても、それは誰に対しても胸を張って言える『愛』なのだろうか。 この思いまで侮辱されたような気分になって吠える御幸に、けほ、と辰夫は小さくせき込んだ。 「ばか、言え……全部全部、計算出来りゃ、おれは玲に、やられてねえ、っての……」 「……でも、期待はしてたんだろ?」 「ハッ……どうだか、な……」 辰夫は肯定も否定もしなかった。狡い男だ。その真相だけは、墓まで持っていくつもりらしい。ああ、全く。瑠夏の言う通り、どこまでもクソ野郎に他ならない男である。頼むよ、と掠れた声がそう零し、涙に濡れた凪沙は悔しそうに歯を食いしばる。 ──故にこそ、ただで踊る気のない御幸は、辰夫の手を握ったまま笑う。 「答えなんか、教えてやるかっての」 その一言に、辰夫は驚いたように絶句した。勝ち逃げなんかさせるものか。全部が全部、思い通りになると思ったら大間違い。せいぜい、それだけは心残りに思いながら死んでいけばいい。そうして地獄の底で、悪人たちと指を咥えて見守っていればいい。天城凪沙と御幸一也の行く末を。 「過干渉な親は嫌われるぞ。覚えとけよ、 そうして最大限の捨て台詞を吐き捨てて、御幸は立ち上がった。もう御幸が告げることは何もない。あとは親子二人、短い時間を過ごしてもらおう。びゅ、とミレニアムタワーに吹き込む強風が、血だまりに波紋を生み出していく。眩い月明かりの下で父親の身体を抱く凪沙は、聖母の銅像のように見えた。 「は、は……やっぱお前は、見る目がねえなぁ……」 「……母さんを選んだ、父さんが言えたセリフ?」 「へっ……なまいき、言うように、なり、やがって……」 辰夫は笑っている。面白そうに、おかしそうに、皺のよった目元から涙を零しながら笑っている。その顔を覗き込みながら、凪沙も涙を浮かべながら穏やかに微笑んでいる。死にゆく父親への、手向けのつもりなのだろうか。だとしたら、凪沙もまた辰夫の思い通りにはならなかったようだ。 だって彼女はあんなにも、父親を愛しているというのに。 「……わるかったよ、置き去りにして」 「絶対、許さないわ」 「それでもいい……だから、しあわせに、なれよ」 「言われるまでもないわよ」 「……あいしてるぞ、凪沙」 「……私もよ、父さん」 そうして、力尽きんとする辰夫の手はするりと凪沙の頬を一撫でして、ばしゃりと血の海に沈む。虚ろな瞳は、娘の手が覆って、瞼を閉じさせる。ああ、これが最期なのか──そんなことを思って溜息を吐いた。 その時だった。 「っ、御幸ィ──ッ!!」 静謐な空気を引き裂く、瑠夏の叫び。それが何を意味するのか、御幸は考えもしなかった。ただ、ここ最近培われた危機感とでもいうのだろうか。もはや反射的に御幸は振り返った。 そこからは、まるでクロスプレーの時のように展開がスローで進んでいくようだった。御幸はほぼ無意識で、凪沙を守るように抱きかかえる。それと同時に、視界の端──瑠夏たちの方から、黒い塊が弾丸のように突っ込んできていた。突き飛ばされた凪沙は御幸と共にゴロゴロと屋上を転がり、血だまりから跳ね飛ばされる。そうして黒い塊は、そのまま取り残された辰夫に突っ込んでいき、その勢いのまま手摺り際に叩きつけられた。 「許さない──許さない許さない許さない!! 俺から何もかも奪っておきながら!! 自分は一人満足に死にゆくつもりか!? 許さない許さない許さない!!」 それは、亜門だった。どうやら瑠夏の拘束を無理やり抜け出し、辰夫の胸倉を掴み上げている。細い手すりに乗り上げた二人は、今にも落下してしまいそうだった。その後ろは、ネオン煌めく神室町が広がっている。当然二人は、あの時のようなパラシュートを装備しているわけもなく。 「や、止めてぇええ──っ!!」 叫ぶ凪沙が、御幸の肩口で叫ぶ。何が起こるか、見るまでもない。御幸の身体を押し退けて、凪沙が駆け出すが、それよりも先に辰夫が亜門の乱れた頭をくしゃりと撫でて微笑む方が早かった。 「責任は取るさ、玲」 「だったら──」 「こんなおれでも、地獄への案内人ぐらいは務まるだろ?」 ふわり、と手摺りの背後へ倒れていく辰夫。その胸倉を力の限り掴んでいる亜門もまた、それに引っ張られていく。抵抗する様子はなかった。まるで辰夫も亜門──否、玲も、それを望んでいるかのように。そうして止める間もなく、二人の男が手摺りの彼方へと消えていく──。 慌てて御幸と凪沙は手摺りを掴んでミレニアムタワーの何百メートル下を覗き込むも、びゅう、と突風が吹きすさび、視界すら奪われる。そうして風が止む頃に薄っすらと目を開けるも、そこに二人の姿はなかった。死体すら、目視することはできなくて。 ──これが、御幸一也の野球賭博冤罪事件の幕切れとなった。 |