30

 崩れ落ちる辰夫、生き呑む凪沙、その場に膝をつく亜門。全てが全て、状況を処理するのにずいぶん時間を要した。何故。どうしてこんな状況になっているのだろう、と。けれど、この中で御幸は誰よりも冷静だった。いくつもの材料。それらを繋ぎ合わせれば、答えは自然と見えてくる。だが、理解できないのは、その動機。此処へ至るまでの、途中式だ。

 けれどその答えは、他でもない当人から発せられる。

[あきら]……お前さんの執念には、ほとほと参るぜ……」

 息も絶え絶えになりながら、辰夫は血塗れの腹部を押さえてそう零す。玲と呼ばれた──御幸たちには亜門と名乗ったはずのその男は、そんな辰夫に犬歯をむき出しにして叫ぶ。

「執念──執念だと!? ふざけるな!! これは正当な復讐だ!! キサマに人生を奪われた俺には、その権利があるはずだ!!」

「フ、フフ……そうさなあ、そうだろう、そうだろうなあ……」

 殺意漲る亜門に、辰夫は笑みすら浮かべていた。まるで、この状況を見越していたかのような、余裕すら見えるほど。だが、辰夫は間違いなく致命傷を負わされている。どくどくと流れていく血液が、それを物語っているようで。その時、肩に担いだ凪沙がアッと息を呑んだ。

「あきら、さん……?」

「知り合いなのか?」

「知り合い──というか……うちの工場で働いてた人なの……倒産するまで、ずっと……父の部下だった……あの、玲さん……?」

 驚く凪沙に、やはりと思う自分がいた。だったら、御幸の立てた過程にも説明が付く。そう、御幸の推理通りだったのだ。全部全部、亜門の異様な執着心は、辰夫への恨みあってのことではないか、と。凪沙はその推測に、御幸と凪沙の関連付けが遠すぎると否定した。だが、全ての材料は揃っている。その理由を考えれば──。

「まさか、仕事を失った恨み、で……?」

「その程度であれば──俺は『亜門』になぞならなくて済んだ……ッ!!」

 マグマの如き怒りを滲ませる亜門に、御幸はだろうなと内心思った。凪沙の過去の話を聞いて、ずっと引っかかっていたのだ。彼女たちにとってはそんなこと日常茶飯事だろうから、気にも留めなかったのだろう。だが、普通生きていく上で絶対に避けるべきその話。

『たった十四の娘を捨て、知人を連帯保証人[・・・・・]にして三億の借金被せてトンズラだぜ』

 かつて辰夫を語る際に、瑠夏はそう述べていた。この世界じゃそういうものなのかと思って、心底恐ろしかった。というのも、『連帯保証人』になってほしい、と言われた経験が、御幸にもあったのだ。それも一度や二度ではない。億プレイヤーとなった御幸には、それはもう様々な金に絡む話が舞い込んだ。怪しい投資、宗教勧誘、買うと幸せになれるツボやら絵画やら、あらゆる話を『自称』知人や親族から持ち掛けられた。中でも、金を貸してほしい──この書面にサインをしてほしい、なんて見るからにヤバい話を持ち込む輩も少なくなかった。

 若い身空で金を持つことになる野球選手たちは、球団からその使い方をレクチャーされる。無論、それに伴う危険性も、だ。その中でも、連帯保証人は群を抜いて不味いと叩き込まれていた。御幸も法律だの何だのには詳しくないが、要は保証人になったが最後、その相手が抱えた借金を全て完遂させる義務が発生するのだ。書面一枚、サイン一つでその責務を負わされるのだ。何かにサインすることの多い職業故、絶対に気を付けろと何度も聞かされ、そんなバカな話に引っかかるかよと、同期と笑い合ってから、何年経ったか。

 では──辰夫が作った三億の借金は、一体誰が肩代わりしたのか?

「金を借りたいと言われた時、俺の家計だって苦しかった! だがあんたには恩があった! 学もない俺を雇ってくれた! 住む家だって用意してくれた! 嫁を紹介してくれた! だからその書面にサインした! ところがどうだ!? 三億もの借金、学も職も無い俺にどう返済すればいい!?」

 激昂する亜門レイ──玲。それが、理由。それこそが、亜門の復讐の動機。途中式。悲惨な話なのだろう。それには心底同情する。けれど。

「分かるか!? 明日も分からぬ俺の家に、ヤクザどもが乗り込んでくる姿が! 嫁と子どもを売り飛ばすと息巻く連中に頭を下げて、靴まで舐めて!! 俺は残りの人生の全てを連中に捧げた!!」

「……そう、かい」

「あんたのせいで、俺は人殺しに成り下がる他なかった!! 『亜門』なんぞに名を変え、姿を変え、生きるのに必死で!! そんな俺を、嫁は捨てた! 子どもを連れて逃げ出した!! あんたなんか──あんたなんかがいなければ、俺は幸福を得ることも、失う恐怖も、人を殺すおぞましさも知ることなく生きていけたんだ!!」

「そう、かもな……」

 叫ぶ亜門に、辰夫はどこか遠くを見るような眼差しで頷くだけだった。そんな怒りも絶望も憎しみも、きっと辰夫にとっては他人事。そう思えばこそ、ますます亜門には同情したくなる。彼もまた、辰夫に巻き込まれた被害者の一人なのだから。

 だが、どうにも辰夫の様子が気になる。腹部を撃ち抜かれ、復讐を果たしたのだと叫ぶ男を前に、一切の乱れがないのだ。冷静を通り越して、どこか穏やかな横顔にさえ見える。天城探偵事務所の名を売り込むために、全てを巻き込んで、傷つけて、殺してまで準備を進めていた全てが、自分の死によって無駄になってしまう、まさにその瞬間だというのに。辰夫は焦らない。命を乞うこともなければ、醜く足掻くこともない。こうしている間にも、血の海は広がっていき、辰夫の顔はどんどん血の気が失せていく。

 ──まさか。

「まさか──俺まで、計画の内なのか……?」

 御幸がその可能性に感付いたのと同時に、亜門が呆然としたように呟いた。そうだ、それなら全てに説明が付く。けれど、だとしたら、そんなことが可能なのか。いいや、そのレベルじゃない。天城辰夫はいつから、そんな計画を。いつから。否、どこから?

 始まりは御幸ではなく──十年前の失踪から、だとしたら。

「辰夫……まさか……全部、娘のためなのか?」

 ぐるり、と血走った眼がこちらに向く。けれど、驚くことはなかった。寧ろ凪沙は、まさか、そんな、とうわ言のように呟いている。ああ、御幸が気付いたのだ。名探偵たる凪沙が察せられないはずもない。そう、この茶番劇には、それを収めるヒーローが必要なのだ。そんな虚構のヒーローになるために、辰夫は暗躍していたはずだ。かき集めてきた仮初の名声を束ねて、日陰で生きる探偵の名を挙げるために。自らを見捨てた全てを、見返すために。

 けれどもしそれさえも、嘘だったら。そのヒーローの座を、辰夫本人が欲していないとするならば。このまま復讐者の凶弾に倒れることを良しとしているのなら──全て、辻褄が合う。

「答えろ、辰夫!! キサマまさか、娘一人のためにこの茶番を企てたのか!? 俺を──御幸一也を──蒼葉を──紅城を──陽銘連合すら利用して、娘にその手柄を掴ませるために、計画してきたのか!?」

「ハッ……下らねえ、妄想だ……!」

 そこで初めて、眠たげだった辰夫がゆっくりと喉を動かす。亜門だけではない。御幸も凪沙も至った可能性を、その震える唇で否定する。

「何、言ってんだ……これは全部、俺のため──おれの、野望のためだ……! 凪沙はただ、利用しただけ──俺にとっちゃ、どうでもいい──借金だって、たまたま人のよさそうな奴を、利用した、だけだ……!」

「そうか──なら、天城辰夫に訊ねるとしよう……」

 そう言って亜門は床に落ちた銃を拾い上げ、そのまま凪沙たちに向けて構えた。御幸も凪沙も互いを庇い合うように腕を前に差し出すも、いち早く反応したのは天城辰夫だった。

「玲テメェっ……なに、してやがるっ!」

「キサマが自分の計画を認めないなら──娘を撃つ……! キサマにとって本当に娘がどうでもいい存在というなら、止める筋合いもなかろう……!」

「馬鹿、野郎が……っ!」

 銃口が震える。亜門の挑発に、辰夫は苦悶の表情で身体を起こした。今や凪沙はどんな反応をすべきか困っているようで、二人を交互に見やるばかり。そんな様子に、亜門は勝ち誇ったように高笑いをする。

「娘に全ての手柄を託して、自分は復讐者[俺たち]に殺されれば全て丸く収まると思ってたか? それが十年前に捨てた娘への贖罪のつもりか!? そんなもののために、俺たちの人生をメチャクチャにしたのか!?」

「……っ」

「だとしたら俺は認めない! キサマに勝ち逃げなんかさせるものか! 言え! お前の計画は失敗したのだと! 言え! 言え! 言えぇええっ!!」

 銃を手に喚く亜門は、まるで幼い子どもだ。自分の言う通りにならないと泣き出すような癇癪の爆弾。それが人一人屠れる銃器を手に騒ぎ立てているのだから、緊迫した空気が駆け抜ける。いつ亜門が凪沙の腹部に風穴を開けるとも限らない。ぎゅ、と凪沙を抱き寄せて、的を絞らせないように身を寄せる。御幸だって撃たれるのは御免だが、此処まで来たらヤケだ。目の前で凪沙に死なれる訳にはいかないのだから。

 嫌な沈黙が流れる。銃口は未だ凪沙と御幸に向けられていて、いつその引き金が引かれないとも限らない。けれど亜門の視線は、未だ辰夫に向けられている。どれほどそうしていただろう。苦痛に顔を歪めたまま、皺の寄った口元がゆっくりと動き始めた。


「──やめて、くれ……!」


 その時、辰夫がポツリと呟いた。もう長くはないのだろうか。か細い、掠れ切った声だった。今にも命の灯が潰えようとしているその男は、腹部を押さえながら体を起こすと、崩れ落ちるように頭を前に倒した。

「たの、む……凪沙には……御幸には……手を……出すな……! お前が憎いのは……おれだけの……はずだ……!」

 まるで土下座をして希うように、辰夫は息も絶え絶えにそれだけを発する。それが、答えだった。この事件の、真相だった。指一本動かすのも激痛が走るはずなのに、辰夫は迷わず暗殺者に頭を下げる。歯を食いしばって命を乞い、血の海を這いずっている。息を呑む凪沙が、父さん、と呟いたような気がした。

「は、はは──やっぱりだ……そうだ、そうだ、そうだったんだ……!」

 そんな辰夫に、亜門は再び勝ち誇ったように笑い飛ばす。もはや立っているのもやっとという状態で、暗殺者は復讐を遂げてげらげらと狂ったように笑っている。けれど、すぐにピタリと動きを止めたかと思えば、亜門の指は銃の安全装置を押し上げた。

「なら俺は──キサマの目の前でその娘を殺すだけだ」

「っ、よせ、馬鹿野郎……っ!」

「俺はキサマに全てを奪われた。だったら俺も、キサマから全てを奪ってやる」

 そうして、血走った眼球がぎょろりと御幸たちに向けられる。御幸が庇ったところで、亜門にとっては何一つ障害にならないと分かっていながら、彼女を庇うように前に出る。鈍く光る銃口を向けられて背筋が震えるが、此処で引いたら死ぬのは凪沙だ。引くわけにはいかない。

「……退け。キサマには、用はない」

「退かねえよ」

「止めて御幸ッ!! あなたが負う傷じゃないッ!!」

 背後の凪沙が騒ぐも、御幸は一歩と動かない。此処まで来たら、御幸の選択は二つに一つ。二人とも生き残るか、二人とも死ぬか。どちらかが無事なんて半端な結果など、求めていない。それでは、勝利とは言えない。それじゃあ、敵討ちにならない。だから震える身体を律して、凪沙の顔も見ずにその頭を撫でる。

「わりーけど、お前が死んだって俺の傷になるんだぜ」

 凪沙はハッと呼吸を詰まらせた。身体への傷はまだいい。治る可能性はある。けれど精神の傷はどうだろう。愛する人を犠牲にして、仮に球界に復帰したとして、その先の人生を謳歌するなんてできるのだろうか。これほどの血と硝煙を浴び、更には愛する人の死体まで乗り越えろなんて、権限なスポーツ選手になんと酷な話だろう。

 だからこれは、凪沙を守るためだけじゃない。自分自身の未来を守るため。ひいては天城探偵事務所の依頼達成率を維持するために、必要な言葉だった。

「アンタには同情する。心底、同情してる」

 銃口の先に佇む亜門に向けて、御幸は心情を吐露する。本当に同情する人生だ。恩人に全てを奪われ、日陰で生きる他なく、復讐だけをよすがに生きてきたのだろう。それについては本当に哀れだと思う。玲という男には、救いの手が必要だと思うほどに。けれど。

「だけど、復讐はこんな方法じゃなくても良かったはずだろ」

 そうだ。御幸は亜門レイに同情はしない。奪われたから、奪う。そんな不毛な戦いの果てに残ったのが、これだ。血の海に蹲る男の前で、何の罪もないその娘を殺すと叫ぶその男は、辰夫と同じ穴の狢。それで復讐者の気が晴れるのかもしれないが、それに巻き込まれる方は堪ったもんじゃない。

 だから御幸一也は、その復讐を許さない。

「同情はする。だけど、お前の復讐は認められねえ。それが許されるなら、次の亜門はきっと俺だ。俺がアンタの家族に復讐すれば──次の亜門は残されたアンタの家族になる」

「ハッ、詭弁だな。俺はもう、失うものはない」

 亜門はきっぱりと言い切った。復讐以外に未練は何一つないと言わんばかりの態度だった。やっぱりだめか、と御幸はほんの少し肩を落とす。

「……残念、それっぽい理由並べただけじゃ、やっぱだめか」

「なに?」

 そう、いかにもな理由を述べたはいいが、そんなの理屈も理由もない、ただのエゴとエゴをぶつけているだけだ。亜門は復讐して気を晴らしたい。御幸はその復讐に愛する人を巻き込みたくない。ただそれだけの話。

「暗殺者っつっても話通じるみてえだし、交渉で何とかならねえかと思っただけだって」

 御幸には、凪沙たちのような力はない。他人を力でねじ伏せる、『暴力』という交渉術は持ち合わせていない。だから、話術しかないのだ。幸い、亜門は多少イカれてはいるものの、その動機は『復讐』で、しかもその理由も頷けるだけの背景があった。だから交渉が可能ではないかと思ったのだ。凪沙だけでなく、ヤクザとして死線をくぐり続けた瑠夏でさえ苦戦する相手に、話術で交渉など一体何をしているのだろう。込み上げる笑みをそのままに、銃口を向ける歴戦の暗殺者と、プロ野球選手が対峙する。

「……舐められたものだな。その程度で、思い止まるような覚悟だったとでも?」

 そう言って、亜門はククッと喉の奥で笑いながら銃口を少しずらして御幸に向ける。残念、交渉程度で留まるような男じゃなかったらしい。せめてもっと揺さぶる材料があれば、違ったのかもしれないが。ああ、本当に残念だ。もっと生きていたかったし、野球もしたかった。それに、凪沙と一緒に色々な物を見てみたかった。けれどそんな淡い希望も、どうやらここで終わりらしい。

 頑張った方ではないだろうか。訳も分からず事件に巻き込まれて、危険な目に遭いながらも御幸は真実に辿りついた。それが茶番劇だったことも突き止めて、勝利まであと一歩だった。けれど、あと一手足りなかった。結果、勝者はなし。復讐を遂げた亜門とて、長く生きるつもりは毛頭ないだろう。ではせめて、自分だけでも生き残る方がいいのだろうか──否、そんな勝利に、何の意味があるのか。

 御幸はようやく、泣きそうに縋る凪沙を振り返る。そうして、心から笑った。

「言っただろ、お前のこと捨てねえって」

 だから、生きるも死ぬも一緒だ。

 そう告げて、亜門に向き合う。恐怖はある。後悔もだ。だが、覚悟はできている。これが御幸の選択だ。最期の選択だ。そうしてドクドクと嫌な音を立てる心臓に気付かぬふりをして、黒い銃口を見つめる。痛みは、一瞬であればいい。辰夫のように長く苦しむことがなければいいのだが──。

「そうか、ならみんな死ね。全員死ね。何も得られなくていい。何も残らなくていい。俺はただ、この憎しみを晴らしたいだけだ──ッ!!」

 そう叫ぶ亜門を最後に、御幸はそっと目を閉じた。遠くに辰夫の静止の声、亜門の笑い声、そして凪沙の背後で、バチッという静電気を発したような、そんな鋭い音がして。


「──所長の前でカッコいいとこ見せようったって、そうはいかねえぞっ!!」


 その時、聞きなれた声がどこからともなく降ってきた。

 ぱち、と目を開ける。するとそこには、傷だらけの血だらけ、けれど五体満足の瑠夏その人が、亜門を押し倒して銃を持つその手を捻り上げていた。



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