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 それからの数か月は、まさに激動と呼べる日々だった。

 天城辰夫から勝ち取ったUSBには、本人の言うようにありとあらゆる証拠が詰まっていた。監督に持ち掛けられた賭博容疑も、蒼葉の恨みも、紅城の偏愛も、連中と陽銘連合との関係性を示すやり取りも、全部全部揃っていた。これを凪沙の紹介で信頼に足るという神室町の弁護士の元へ持ち込み、御幸は球界、もとい球団相手に裁判に臨んだ。数々揃った物的証拠に加え、突如行方をくらませた蒼葉、そして何より紅城夕木が公の場でその罪を認めたことが、決定打だった。

『全て、事実です。わたしたちは御幸一也の地位を追うことを目的に、動いたのです』

 とても完治しているとは言いがたい姿ではあったものの、紅城夕木は数多の記者と傍聴人、そして裁判官相手にそう言い切った。暴行、拉致監禁、恐喝、賄賂──あまたの余罪により逮捕された紅城夕木と話すことはついぞ叶わなかったが、彼女の裁判所招集には、やはり凪沙たちが一枚噛んでいたという。

 さて、証拠に証人が揃えば後は容易い。球界を汚した男は一夜にして球界のヒーローに帰り咲いた。球界を追放され、孤独と誹謗中傷に苛まれながらも自分の主張を曲げることなく冤罪を覆したと、数多のメディアは大々的に報道した。その孤独と誹謗中傷は一体誰が押し付けたのでしょう、と担当の女性弁護士が痛烈な皮肉を投げかけたが、御幸は気にしなかった。

 球団および球界側も隠し切れない不祥事の数々に頭を抱えたが、球界側の首謀者はあくまで監督と蒼葉のみ。前者は自殺に見立てて殺害され、後者の青葉はとうの昔に国外逃亡したという。責任の所在はどこにも行けず、結局球団オーナーが頭を下げ、数多のスポンサーが球団との契約を切るという大惨事となった。けれど、スポンサーもファンも離れていく中で、待ったをかけたのも御幸一也だった。

『俺が信頼を取り戻します。また俺を、支配下登録してください』

 一度球界を追放された御幸の復帰が認められるかどうか、NPBは日夜侃々諤々の議論に追われた。けれど、誰よりもファンが、スポンサーが、世論が御幸の味方だった。球界に帰り咲くために数々の不祥事を詳らかにし、その理由を一言『もう一度野球をするため』と告げる男が再び球界に返り咲くことを、誰もが目にしたいと注目した。これを渋るようであれば世間の野球への関心は更に遠のくと、頭の固いNPBのお偉方でさえ即時判断するに至った。

 そして御幸一也が追放されて二か月弱、証拠を引っ提げて球界復帰が認められるまで三か月の月日が流れた。まさか証拠集めよりも時間がかかるとは思わなかったが、裁判だのメディア出演だのと奔走していた御幸はようやく、今日、東京スパローズ一軍の試合に、先発でマスクをかぶって出場するに至ったのだった。

「──」

 ベンチから球場を見て、息を呑んだ。羽のように軽い防具を纏い、ファンで埋め尽くされたスタンドを見上げ、胸が詰まる思いだった。やっと、やっとこの場所に帰ってきたのだ。自分がいるべき場所は、やはり血と硝煙の似合うあの世界じゃない。土と汗、それから冷気と熱気が入り混じる不思議な空気に包まれたこの場所だ。

「……御幸さん? だ、大丈夫、スか?」

 今日組む若き投手が、遠慮がちに声をかけてくる。どこか腫れものを扱うかのようなその態度に、思わないところがないとは言わない。人殺しと、球界の恥と、なじってきたのは世間やファンだけではない。チームメイトもまた、その矛先を御幸に向けてきたのだ。そりゃあ気まずくもなるというものだ。

「(確かに、プレーに支障が出るならトレードもアリだったかもな)」

 球界復帰に当たり、御幸はどこに所属するかでもだいぶ揉めた。御幸本人やファンは勿論古巣への復帰を希望したが、そんな歓迎する声だけではなかった。

『禊は済んだのだから、心機一転で別球団に行って欲しい』

『スパローズに買い殺されるのはかわいそう』

『あんな騒動起こして古巣に戻りたがるのは逆に怪しい』

『まだ反社と付き合いあるんじゃない?』

 主に他球団のファンだろうが、こんなお節介な言葉や根も葉もない噂まで蔓延った。更に、球団側からも遠回しにトレードを提案された時には、流石にショックを隠せなかった。首脳陣は多くは語らなかったが、要は話の渦中にいた御幸にはマスコミや世間の目が注目している。一挙一動を見張られている中での球団の立て直しには、それ相応のリスクが伴う故に、その世間の目を分散させたい──と。尤もらしい理由を並べたが、要は御幸に負い目があるので扱い辛いのだろう。散々あれこれ罵詈雑言を浴びせて、ろくな事実確認も調査もせずに、御幸を球団から追い出したのだから。

 故にこそ、御幸が我を通した。

『俺は此処に帰るって、地獄に行った監督に誓ったんです』

 実際のところ、御幸には多くの球団から声がかかっていた。専門職である捕手であるだけでなく、首位打者にすら匹敵するバッティングセンス、勝負強さ、更にスター性に満ちた容姿とくれば、どの球団も喉から手が出るほど欲しかろう。資金や人材を片手に根気強くトレードを迫られ、御幸を他球団に、他リーグに──なんて話を持ち掛けられたが、御幸は聞く耳を持たなかった。御幸は此処で、やり直すのだ。球団の根が腐っているなら、自分が刈り取る。それが、命まで奪われた監督に対するせめてもの償いだ。

 当然、巻き込まれたからには監督だって何らかの後ろ暗い部分はあったのだろう。だが、亜門や辰夫が関わっているためか、監督が何故御幸に野球賭博の罪を被せようとしたのかは闇の中だ。悪いことをしていたのかもしれない。けれど、殺されるほどのことではなかったはずだ。そんなこと、この現代社会が許すはずもない。あの人だって、最初はただの野球好きの少年だったはずだ。それがプロの道に進み、引退し、そうして指導者の道を選ぶほど、野球が好きだったはずだ。そんな野球人だった監督の無念を晴らすのだと告げる御幸に、ついにオーナーが折れた。

 そして今日がその、復帰戦。多くのファンが、そしてマスコミが、記者がスタジアムに殺到した。当日チケットは販売して三十秒で完売したというのだから、いかに注目を集めているか分かる。気負うつもりはないが、尻込みする首脳陣の気持ちが一ミリほど分かったような気がして、御幸は後輩投手の頭をガシガシと撫でまわす。

「大丈夫だって。それよりお前こそ、前回登板で大炎上してたろ。今日は頼むぜ〜? 毎回グラスラ打たれてるようじゃ、首は涼しくなる一方だぜ?」

「わ、分かってますよっ! でもあれは、あの人のリード通りに──」

「はいはい、打たれりゃ捕手のリードのせい。そういう気概で投げりゃいいんだよ」

「ったく、こっちは一応気ィ使ってんのに!」

「いらねーよ。投手に心配される捕手じゃ終わりだっつの」

 そうやって先発投手を小突いて、御幸は立ち上がる。さあ、試合の時間だ。観客でいっぱいになったスタジアムに足を踏み入れるだけで、爆発したような歓声に包まれる。御幸の復活を喜ぶ声、おかえりコール、心無いヤジまで、全部が全部御幸が求めていたもの。ちらり、と御幸はある客席の方を見る。さほど目が良い方ではないからか、探し人は見つからない。だが、気にはならなかった。

 天城凪沙とは、ミレニアムタワーとの邂逅を最後に顔すら合わせていなかった。後のことは警察や弁護士に任せるようにと、彼女は瑠夏と共に姿をくらませた。瑠夏の過去や辰夫の件もあり、表には出てくるつもりはないのだろう。事件の首謀者である辰夫や亜門に関しては弁護士から固く口止めされており、表向きは首謀者は蒼葉や紅城たち、ということになった。というのも、辰夫や亜門は己の痕跡を証拠に一切残していないため、検挙しようにもできないのだという。ましてや、相手は暗殺者集団と名高い亜門一族。死体もまた、一族に回収されたのではないか、と凪沙は電話越しに語っていた。

『でもそれって、父さんたちがまだ生きてる可能性があるってことよね!』

『シュレーディンガーの猫かよ』

『希望を持つことは良いことでしょう?』

 くすくすと笑う声を耳元で聞きながら思う。会いたい、と。

 事件の後、凪沙は御幸との接触を避けた。証拠が残るようなメールやメッセージは絶対送るなとも釘を差されたほど。唯一接点として残されたのは、無骨な旧式の携帯電話。スマホですらなく、メール機能もないような、そんな端末。この電話でなら連絡してもいい、という凪沙がどれほど御幸の球界復帰に慎重になっているかは分かってはいるものの、やはり一目会いたいと思う。お礼を言いたい。可能なら、これからだって関係を続けたい。けれど彼女は、一度たりとも御幸の求めに応じない。ただ事件後の経過報告をするだけの、事務的なやり取りが続くだけだった。

 だが、その程度の壁で諦める気は毛頭ない。御幸は「そうだ」と顔を輝かす。

『なあ、九月に復帰戦決まったんだ。お前らも来いよ』

『復帰戦って──二軍での調整は?』

『ナシ。お披露目するなら盛大に、って感じらしい。試合感鈍ってるから、俺としても調整はしたかったんだけどなー』

『ふうん……』

 球界追放から数か月経過した。その間、練習なり自主トレには余念のない御幸だが、流石に試合まではできていない。一軍も二軍もほぼ毎日試合がある中で、チーム内紅白戦を行うのも難しい。かといって二軍での調整となると、人の少ない二軍球場にファンやらマスコミが押し寄せてしまう。良くも悪くも、注目を集めている株である。どうせ無理言って返り咲いたのなら、数イニングだけでもいいから一軍でマスクをかぶって欲しい、と頭を下げたのは広報担当。流石にフルイニング出るのは難しいが、数イニングだけなら何とかなるだろう。御幸はその条件で頷いたのだった。

『チケット、無理言って二枚押さえた。事務所に送るから、絶対来いよ』

『拒否権は無いわけね。私たちだって仕事があるんだけど?』

『帰るまでが遠足って言うだろ?』

 まだ、終わってないぞ。そんな思いで、御幸は今日の試合に彼女たちを招いた。約束通りの特等席だ。日程ぎりぎりにもぎ取ったそのチケットは、広報には無理を呑む代わりに用意してもらったものだ。迷わず凪沙の事務所に送ったはすだが、そこにあの目立つ二人組の姿はない。

「(ま、そりゃそうだろうな)」

 凪沙はともかく瑠夏の風体は中々威圧感がある。目立つ席故、カメラに抜かれようものならまた反社会的勢力との関係を疑われかねない。だから彼らが大人しく送ったチケットを握り締めて来るとは思っていない。

 だが、此処に来ていないとも思っていない。

「(どっかでは見ててくれんだろ──凪沙)」

 彼女は決して、約束を破らない。だから、きっとこの復帰戦には来ていると確信していた。きっと誰とも分からぬ変装をして、瑠夏と二人で並んでいるに違いない。球場飯とビールを片手に、狭い座席に身を押し込めて、今も此処で御幸一也に向かってタオルを掲げている──そんな姿が、なぜか容易に想像できたのだ。

 だから御幸は、恐れも不安もなかった。帰ってきた。後は、やるべきことを、なすべきことを押し通すだけだ。球団に、ファンに、家族に、そして愛する誰かに、或いは道半ばで倒れた誰かに、その姿を見せつけてやるのだ。御幸一也は、逆境にも悪辣にも負けず、帰ってきたのだと。

 ──そして、三番打者として五か月ぶりに復帰した御幸一也の思い切りのよいスイングは、ファンの待つスタンド席に白球を叩き込んだのだった。



***



 華々しい復帰戦後、しっかり二軍で調整するも、すでにシーズンの八割は終わっていた。しかし、チームメイトの奮起と球団の『腐った根』の一掃もあり、破竹の勢いで勝利を重ねたスパローズは御幸と共にクライマックスシリーズを制し、なんと日本シリーズまで駆け抜けた。攻守共に大活躍の御幸一也率いるスパローズの、大大大逆転劇には多くのメディアが持て囃し、『悲劇を覆したスーパーヒーロー』としてオフシーズンまで取材が埋まるほど多忙の日々を過ごした。そのせいか、凪沙とも瑠夏とも顔を合わせないまま秋が過ぎ、冬を迎えた。ようやく人目が落ち着き出したので、御幸は再び神室町に赴いていた。というのも、凪沙から貰った電話が繋がらなくなってしまったのだ。

 薄々、そんな気はしていた。彼女はこうして、自分の人生からフェードアウトするのだろうと。だから驚きはなかったが、ショックは受けた。だからといって諦める気は毛頭ないので、こうして人目を忍んで凪沙の事務所が入っているあのタワーマンションに赴いていた。マンション自体は変わらず、人気のないエントランスに不気味なほど穏やかな笑みを湛えたコンシェルジュの元へ向かう、も──。

「引っ越し、た?」

「ええ。オーナーは事務所を引き払って、別拠点へ移ってしまいまして」

 『合言葉』を告げた御幸に、コンシェルジュはにこやかにそう告げた。なるほど、それは計算していなかった。会う気はないぐらいは言われる覚悟はしていたが、まさか事務所ごと逃げ出すとは思わなかった。マジかよと呻く御幸に、目の前の男は和やかな顔で言葉を続ける。

「次の合言葉は、『約束を果たしに来た』──だそうで」

「……なんだ、それ?」

 突如そんなことを言い出すコンシェルジュに、御幸は訊ね返す。けれど男は何も語らず、胸を張って微笑みを湛えるだけだった。なるほど、自分で考えろと言うことか。

 天城探偵事務所への依頼には、『合言葉』が必要になる。合言葉はかつて天城辰夫の手によって御幸の父から御幸に渡された名刺の番号に電話する際に、教えられたものである。その合言葉がなければ、依頼人とて会う気はないと語っていた女は、今思えば凪沙だったのだろう。もはや確認する術はないのだが──。

「……ああ、そういうことか」

 その術を、探しに来いということか。そのぐらいの根性がなければ、会う気はない。きっと、そういうことだろう。凪沙の考えそうなことである。

『世界一の成金探偵様を口説き落としたいなら、誠意ぐらい見せてよね──』

 そんな声が聞こえたような気がして、ハッと振り返る。けれどそこに、彼女の姿はない。がらんとした、相変わらず人気のないエントランスホールが広がっているだけだ。全く、厄介な女に惚れこんだものだと、御幸は自嘲を漏らす。

 だが、これはチャンスだ。完全に足跡を断たれたわけじゃない。凪沙たちだって仕事を取るために営業を続けるはずだ。例の名刺は業界人にしか配っていないと聞くし、もしも顧客層が変わらないのであれば、業界人で居続ける限り御幸にもまた天城探偵事務所の門を叩くチャンスが巡ってくるはずだ。

 チャンスには、貪欲に。それこそが、御幸一也という男のモットーだった。

「また、来ます」

「お待ちしておりますよ、御幸さん」

「それと、あんたに聞いていいか分かんねえんだけどさ」

「はい、何なりと」

「──ここのマンション、空き部屋ある?」

 その一言に、コンシェルジュは初めて表情を崩した。けれどすぐに、くすりと笑みを零してカウンターからタブレットを引っ張り出した。

「ええ、ええ。あくまで此処は、天城オーナーのマンションですからね。入居希望者であれば、ええ、相談承りますとも」

「仲介業者とか、不動産屋とか挟まなくていいのかよ」

「ええ。御幸様のことは、オーナーが誰よりもご存知でしょうから」

 ならいいか。早速とばかりにエントランスホールの隅にあるソファとローテーブルへ案内される。これもまた『足で稼ぐ』とかいう奴だろう。彼女は此処で暮らし、事務所を広げていたのだから、このマンションには、彼女の痕跡が多く残っているはずだ。また、彼女に救われた依頼人の多くが此処に住んでいるという。もしかしたら、まだ凪沙と関わりがある者が、一人や二人いるかもしれない。であれば、ここを拠点にする意味も生まれよう。

「(絶対、その合言葉聞かせてやるからな──)」

 だから待ってろ。そんな思いで、コンシェルジュの長々とした話を打ち切った御幸は、ろくに書面を確認することなく、ペンを走らせたのだった。この契約書を見た凪沙が何というか、想像してまた少し笑みを零したのだった。





 ──結局、御幸一也は野球選手には珍しく生涯独身だったという。けれど男は一度も悔いることなく、野球選手として生きて、生きて、生き抜いた。そうして華々しく引退した男の行方は、数多の凡夫のように杳として知れず。指導者の道にも背を向け、惜しむ声に背を向けて姿を消す男に、世間の目はいずれ一つ、また一つと御幸一也から逸らされていく。そうして歴史の闇の中に飲み込まれ、御幸一也の晩年は誰も彼もが見向きもしなかったという。



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